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第28話

北条軍が進んだ。


その先頭には、北条綱成。


地黄八幡の旗が朝風にはためき、その後ろには北条の兵、さらに各地から集められた国衆の兵が続いている。


綱成は馬上から前方を睨んだ。


「……来るぞ」


朝霧の向こうから里見軍の姿が現れた。


だが、数が少ない。


そのうえ北条軍を見るなり――退き始めた。


「敵、退きます!」


兵が叫ぶ。


綱成は目を細めた。


「追うな」


「はっ?」


「まだだ」


里見軍は、さらに退く。


しかし、崩れてはいない。


槍を構えたまま、隊列を乱さず、一定の距離を保ちながら下がっていく。


綱成の顔から笑みが消えた。


「……義堯め」


その名を呟いた直後だった。


里見軍の後方から、一人の武将が振り返った。


里見義弘。


「父上の命だ!」


義弘が叫ぶ。


「三度、槍を合わせろ!」


「その後は退け!」


「決して深追いするな!」


兵たちは一斉に前を向いた。


「おおおっ!」


里見軍が反転すると一瞬だった。


北条軍と里見軍が激突した。


槍と槍。


甲冑と甲冑。


怒号がぶつかり合う。


「押せぇ!」


北条軍が前へ出る。


里見軍も応じる。


だが――。


三度、槍を交えたところで。


「退け!」


義弘の声が響いた。


「引けぇ!」


里見軍は一斉に退いた。


北条兵が追おうとする。


「追え!」


「敵は崩れたぞ!」


その瞬間。


「追うな!」


綱成の怒声が戦場を裂いた。


「しかし!」


「これは崩れたのではない!」


綱成は前方を睨む。


「命令通りに退いている!」


その言葉通りだった。


里見軍は誰一人として我先に逃げていない。


隊列を保ち、互いに支えながら後退している。


綱成は目を細めた。


「……最初から、退くことを決めていたか」


だが、次の瞬間――。


右手の森から、鬨の声が上がった。


「北条軍、右!」


斥候の声。


森の中から大量の兵が飛び出す。


掲げられた旗。


正木。


そして、その先頭には巨大な槍を持った男がいた。


「正木時茂!」


誰かが叫ぶと時茂が吠えた。


「槍大膳、参るぞ!」


「突けぇ!」


槍隊が一斉に北条軍の側面へ突っ込んだ。


「迎え撃て!」


北条兵が槍を並べる。


しかし、時茂の攻撃は凄まじかった。


「そこだぁ!」


槍が振り抜かれる。


北条兵が押される。


「追うな!」


時茂が叫ぶ。


家臣が驚いた。


「殿、敵は崩れております!」


「追うなと言った!」


時茂は槍を振りながら怒鳴る。


「義堯様の命だ!」


北条軍を押し込む。


だが、それ以上は踏み込まない。


北条軍が後退すれば、時茂も一定の距離を取る。


綱成は眉を寄せた。


「……何だ?」


普通ならば、ここで一気に食いつく。


だが、時茂は追わない。


「まさか……」


綱成が呟く。


「奴も、わざと姿を見せているのか」


その直後。

左手から鬨の声が上がった。


「敵、左翼!」


「またか!」


現れたのは正木時忠。


時忠の兵が北条軍の左側面へ回り込む。


「挟まれるぞ!」


北条兵が叫ぶ。


だが、時忠は攻撃を仕掛けない。


一定の距離を保ったまま、北条軍を見ている。


綱成が気づいた。


「……来ない?」


時忠の兵は、こちらが左翼を向けば離れる。


こちらが中央を向けば、また近づいてくる。


「挟む気はない」


綱成が言った。


「挟まれると思わせているだけだ」


その瞬間。


正面から再び里見軍が動いた。


「義弘隊!」


「押せ!」


里見義弘が兵を率いて突撃する。


北条軍の中央へ、真正面からぶつかった。


「受け止めろ!」


北条軍も応じ、両軍激突。


北条兵が押される。


里見軍が押す。


「今だ!」


義弘が叫ぶ。


「押し返せ!」


里見兵が一斉に前へ出る。


北条軍が数歩下がった。


「勝てるぞ!」


里見兵から声が上がる。


だが――義弘はそこで手を上げた。


「止まれ!」


兵が止まる。


「追うな!」


「若殿!」


「追うな!」


義弘は叫んだ。


「父上の命だ!」


「ここから先へ進むな!」


北条軍が後退する。


普通ならば、ここで追撃する。


だが、義弘は追わない。


時茂も追わない。


時忠も追わない。


三隊が、それぞれの位置を守った。


綱成は、その光景を見ていた。


「……そういうことか」


表情が険しくなる。


「全部、決められている」


家臣が尋ねる。


「何がです?」


「敵の動きだ」


綱成は前方を見る。


「こちらが進めば、時茂が出る」


「時茂を警戒すれば、時忠が出る」


「左右を警戒すれば、義弘が正面から来る」


そして、綱成の目が細くなる。


「こちらを押し返しても、奴らは追わない」


「……はい」


「つまり、我らを倒すことが目的ではない」


綱成は拳を握った。


「我らの動きを止めることが目的だ」


その頃、戦場から少し離れた高台で里見義堯は、馬上から戦場を見ていた。


側近が駆け寄る。


「申し上げます!」


「何だ」

「正木時茂様、予定通り北条軍の側面を突きました!」

「うむ」


「時忠も、北条軍左翼に姿を見せました!」


「うむ」


「若殿は北条軍を押し返しました!」


義堯は静かに頷いた。


「そして?」


「三隊とも、深追いしておりません」


義堯の口元がわずかに上がった。


「よし」


側近が感嘆する。


「すべて、御命令通りです」


義堯は戦場を見つめた。


「時茂には、北条を追わせるなと言った」


「時忠には、挟むなと言った」


「義弘には、勝っても追うなと言った」


「その通り動けばよい」


義堯は北条軍の旗を見る。


「綱成に、次の一手を考えさせる」


「それが一番重要なのだ」


側近が尋ねる。


「綱成は、どう動くでしょう?」


義堯は即答した。


「動けぬ」


「……」


「前へ出れば伏兵」


「側面を狙えば別働隊」


「追えば、さらに何かが出てくると思う」


義堯は静かに笑った。


「勇将ほど、慎重になる」


「一度でも罠を見ればな」


――だが。


それは、一日で終わる策ではなかった。


翌日、北条軍は再び前へ出た。


綱成は慎重に兵を進める。


昨日と同じ場所。


昨日と同じように、里見軍が姿を見せる。


そして――退く。


「……またか」


綱成は呟いた。


「追うな」


誰も追わない。


すると今度は、右手の森に正木の旗が現れた。


「時茂です!」


兵が叫ぶ。


「構えろ!」


北条軍が右を固める。


だが、時茂は昨日と同じように攻撃を仕掛け、押し込んだところで止まった。


「追うな!」


「深入りするな!」


義堯の命令通りだった。


北条軍が距離を取れば、時茂も退く。


さらに左、時忠が姿を現す。


だが、やはり攻めない


「……まただ」


綱成は歯を食いしばる。


「挟む気はない」


それでも兵たちは左翼を警戒する。


その隙を突くように、義弘が中央へ出る。


北条軍と激突。押す。押し返す。


そして――。


「止まれ!」


義弘の声。


「追うな!」


またしても追撃しない。


三隊は、まるで昨日の戦いをそのまま繰り返すように動いた。


綱成は馬上から戦場を見渡した。


「……昨日と同じだ」


家臣が答える。


「はい」


「いや」


綱成は首を振った。


「同じではない」


「……?」


「昨日より、我らは慎重になっている」


それが問題だった。


前へ出ると罠を疑う。


止まると左右を見る。


そしてまた罠を疑う。


こうして、時間だけが過ぎていく。


夕刻、北条軍は陣へ戻った。


戦死者は多くない。


負傷者も、決定的な数ではない。


それでも――綱成には、まるで敗れたような疲労が残っていた。


三日目の朝。


北条軍が動いた。


だが、里見軍も同じだった。


正面、右、左。


時茂、時忠、義弘。


そして、退いては押す。


止まる。そして追わない。


まるで義堯が戦場そのものを操っているかのようだった。


綱成は、ついに馬上で吐き捨てた。


「……またか!」


拳が強く握られる。


「三日だぞ」


誰も答えない。


「三日間、こちらは一歩も進めぬ」

そ

の時だった。


遠方から、騎馬が一騎、猛然と駆けてきた。


「申し上げます!」


伝令が馬から飛び降りる。


息を切らしながら、綱成の前に膝をついた。


「庁南城より、急報です!」


綱成の表情が変わる。


「言え」


伝令は一度、息を整えた。


「庁南城――」


「落城寸前にございます!」


一瞬、周囲の音が消えたように感じられた。


「……何?」


綱成の目が見開かれる。


伝令は続けた。


「里見軍の攻撃が激しく、城内の兵糧も残り少なくなっております!」


「城兵は?」


「懸命に防いでおります!」


「だが――」


伝令は唇を噛んだ。


「このままでは、持ちませぬ」


綱成は黙った。


三日間、義堯は北条軍を倒してはいない。


ただ、止めた。


進ませず、追わせず。


そして――別の場所では、庁南城を追い詰めていた。


綱成の脳裏で、すべてが繋がった。


「……そういうことか」


義堯は、北条軍そのものを相手にしていたのではない。


時間を相手にしていた。


綱成をここに縛り付ける。

そ

の間に庁南城を攻める。


北条が救援に動けば、ここで待ち構えていた里見軍が再び立ちはだかる。


「……見事だ」


綱成は苦々しく呟いた。


その言葉を聞いた家臣が顔を上げる。


「殿?」


綱成は遠くの里見軍を見る。


そこには、今日も三つの旗があった。


正木時茂。


正木時忠。


そして、里見義弘。


そのさらに遠く。


高台には――里見義堯。


綱成は目を細めた。


「俺をここに縛り付けている間に、庁南を落とすつもりだったのだ」


「では……」


家臣が問う。


「救援を?」


綱成は答えなかった。


しばらく戦場を見つめる。


そして、静かに言った。


「義堯は、俺に選ばせている」


「……?」


「ここに残れば、庁南が落ちる」


「庁南へ向かえば――」


綱成は里見軍を見る。


「奴らは必ず動く」


義堯は、まだ追ってこない。


ただ、こちらを見ている。


まるで――次にどうするのかを待っているかのように。


綱成は拳を握った。


「……なるほど」


その目に、初めて強い光が戻った。


「三日も俺を止めたのは――」


「俺に、最後の一手を選ばせるためか」


遠くの高台。義堯もまた、綱成を見ていた。


そして、小さく呟く。


「さて……」


「地黄八幡」


「お前は、どうする?」


風が吹いた。


二つの軍の旗が、同時にはためいた。


綱成はついに、動かねばならなくなった。


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