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第26話

北条軍が葛西城を発って三日。


上総と下総の境に近い里見軍の陣へ、早馬が駆け込んできた。


「申し上げます!」


陣幕の中にいた諸将が一斉に顔を上げる。


「北条軍、下総と上総の境付近まで進軍!」


「兵数は?」


「約1万2千くらいでございます。北条綱成が率いております」


その名が出た瞬間、何人かの武将が顔を引き締めた。


「地黄八幡か……」


「我々は約1万だが、北条は思ったより兵が少ないな」


若武者が呟く。その若武者こそ、義堯の嫡男、里見義弘だった。


その隣には、巨躯の武将が座っている。


その男は正木時茂。


「槍大膳」の異名を持つ、里見家屈指の猛将である。


さらに、その弟である正木時忠。


そして義堯の義父、土岐為頼。


房総を支える武将たちが一堂に集まっていた。


時茂が笑う。


「北条が出てきたなら、こちらから迎え撃てばよい」


時忠が兄を見る。


「兄上、相手は北条綱成です」


「だから何だ?」


「簡単な相手ではありません」


「簡単な相手を倒して何が面白い」


時茂は豪快に笑った。


その向かいに座る義堯は、二人のやり取りを黙って聞いていた。


義堯は、すぐには口を開かなかった。


地図を眺める。


上総。下総。


その境。


そして、さらに北。


義堯の目には、戦場そのものではなく、その先が見えていた。


「……綱成は、こちらと戦うために来た」


義弘が頷く。


「はい」


「だが、北条の目的は我らを倒すことだけではない」


義堯は指先で上総をなぞった。


「我らが上総を完全に支配する前に、ここで止める」


「そして?」


「下総へ出させない」


義堯はそのまま指を北へ動かす。


「古河公方を守るためだ」


時忠が言う。


「足利義氏公ですな」


「そうだ」


義堯の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。


「北条は義氏公を守っている」


「ならば、我らが下総へ出れば、北条は必ず動く」


時茂が笑う。


「ならば、北条を倒せばよい!」


義堯は時茂を見る。


「……お前は本当に槍しか見えぬな」


「槍で敵を倒せば勝ちでしょう」


「違う」


義堯は静かに言った。


「戦とは、敵を倒すことではない」


時茂が黙る。


「敵に、自分の望む場所へ来させることだ」


義堯は地図を指で叩いた。


「北条綱成は勇将だ」


「ならば、勇将が最も力を発揮できる場所で戦わせてやる必要はない」


義弘が父を見る。


「……つまり?」


義堯は笑った。


「こちらから、北条が動きたくなる餌を撒く」


室内が静まった。


「餌?」


時忠が聞き返す。


「庁南武田だ」


義堯は上総の一角を指した。


「庁南武田を救うため、北条は必ず前へ出てくる」


「そして綱成は、守るだけでは満足しない」


義堯は笑った。


「地黄八幡と呼ばれる男だ。こちらが少し隙を見せれば、必ず喰いつく」


時茂がニヤリと笑う。


「ならば、その喰いついたところを叩く」


「そういうことだ」


義堯は頷いた。


「だから、真正面から綱成と力比べをする必要はない」


時茂の顔から笑みが消える。


「……」


「敵を怒らせろ」


義堯は淡々と言った。


「敵を焦らせろ」


「そして、敵が勝てると思った瞬間に、横から噛みつく」


時忠が感心したように呟く。


「兄上とは正反対ですな」


「何だと?」


「兄上は敵を見れば、すぐに槍を突き出しますから」


「それが俺の戦だ」


時茂は笑う。


義堯も笑った。


「だからお前は強い」


「だが――」


義堯の目が鋭くなる。


「強い者ほど、使いやすい」


時茂が眉を上げた。


義堯は続ける。


「お前が正面から敵を引きつける」


「時忠が周囲を見る」


「義弘は兵をまとめる」


「為頼には後ろを見てもらう」


そして最後に、自らを指した。


「私は、全体を見る」


土岐為頼が静かに頷く。


「なるほど」


義堯は地図から顔を上げた。


「私はな」


その声は低かった。


「戦場で自ら槍を振るって名を上げたいわけではない」


「欲しいのは土地だ」


「兵だ」


「そして、次の戦で使える時間だ」


諸将が黙る。


「国府台の時もそうだった」


その言葉に、室内の空気が変わった。


義堯は過去を振り返る。


小弓公方足利義明と同盟を組み、北条氏綱・氏康父子と戦った。


義明には幾度も進言した。


「ここは危険です」


「陣を下げるべきです」


「北条は我らを誘っている」


だが、義明は聞かなかった。


公方という家柄、自らの武勇、それを信じすぎていた。


義堯は悟った。


――この男と一緒に死ぬ必要はない。


だから、義明を言い包め、陣を動かした。


そして、自軍の兵を温存した。


やがて義明が討死した。


義堯は即座に戦場を離れた。


その混乱に乗じて、上総南部へ兵を入れた。


支配者を失った土地。


誰も守る者のいない土地。


「取れる土地を取った」


義堯は淡々と言った。


「それだけだ」


その結果、里見は房総半島の大半を手に入れた。


さらに上総へ勢力を伸ばした。


そして今、上総全域を狙えるところまで来ている。


時茂が義堯を見る。


「つまり殿は、あの時も……」


「勝てない戦で勝とうとはしなかった」


義堯は即答した。


「勝てない相手と正面から戦うなど、ただの愚か者だ」


そして、北条軍の位置を指した。


「だが今度は違う」


「今は、北条が我らを止めに来ている」


「ならば――」


義堯の目が細くなる。


「北条に我らを止めさせればよい」


「ただし、その代償を払わせる」


義弘が尋ねた。


「どうするおつもりです?」


義堯は少し考えた。


「まず、北条に我らが上総を死守すると思わせる」


「次に、綱成を前へ出させる」


「そして――」


指が地図の一点で止まった。


「ここで戦う」


時忠が地図を見る。


「ここなら……」


「そうだ」


義堯が笑う。


「こちらが不利に見える」


「だからこそ、北条は来る」


時茂が立ち上がった。


「ならば、俺が先陣を!」


「待て」


義堯が止める。


「お前はまだ動くな」


「……」


「敵が食いついてからだ」


義堯は時茂を見る。


「それまでは、槍大膳の名を隠しておけ」


時茂の目が輝いた。


「なるほど」


「敵が『里見は崩れた』と思ったところで、お前を出す」


「それなら――」


時茂が笑った。


「北条も驚くでしょうな」


「そういうことだ」


義堯は再び座った。


「戦場で勇ましいことを言うのは簡単だ」


「だが、勝った後に何が残る?」


誰も答えない。


「私は土地を残したい」


「兵を残したい」


「そして、里見の名を残したい」


義堯は静かに言った。


「だから私は、勝てる戦しかしない」


一瞬の沈黙。


そして義堯は、最後に付け加えた。


「……勝てるように、戦を作る」


その言葉に、土岐為頼が小さく笑った。


「相変わらず、恐ろしいお方だ」


義堯は答えなかった。


ただ、地図の北を見つめていた。


そこには北条の軍勢がいる。


その先には下総。


さらにその先には武蔵。


義堯の目には、まだ誰も見ていない未来が映っていた。


「北条は我らを安房へ閉じ込めたい」


「ならば、こちらは北条の思惑を利用する」


義堯は静かに笑う。


「さて……地黄八幡」


「お前は、どこまで私の思惑に気づけるかな」

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