第22話
近藤から届けられた書状と証拠品を前に、北条氏康は静かに目を通していた。
机の上には押収された偽の石田散薬、売人たちの供述書、そして近藤からの詳細な報告書が並べられいる。
こういった荒事の書類は新選組の時から慣れているので、近藤たちに取っては何の問題も無かった。
氏康の傍らには北条幻庵、北条三郎時長が控えていた。
氏康は一通り読み終えると、小さく息を吐いた。
「ふむ……見事だ」
時長が顔を上げる。
「近藤殿のことでございますか」
「ああ」
氏康は頷く。
「戦だけではない。証拠を揃え、感情に流されず、まず我らへ裁きを委ねた」
「国人として申し分ない判断だ」
幻庵も微笑む。
「だからこそ、わしはあの者たちを見込んだのです」
氏康は供述書を手に取りながら笑みを浮かべた。
「それにしても……これは思わぬ好機となった」
氏康の言葉に時長が首を傾げる。
「好機、と申されますと」
氏康は静かに言った。
「太田資正だ。あやつは名門太田家の当主として武勇も知略も優れている」
「しかし、未だ扇谷上杉への未練を捨て切れておらぬ」
「以前から反北条の動きを完全には隠せておらず、扱いに苦慮していた」
幻庵も頷く。
「一応我々に従っている故、更に表立っては動いておらず、証拠も無く名門ゆえに軽々しく処罰もできませぬからな」
氏康は書状を机へ置いた。
「だが今回は違う。証拠は近藤が集めた」
「風魔にも裏を取らせれば、言い逃れはできぬ。資正の勢力を削ぐ絶好の機会だ」
時長は静かに頷いた。
「北条家の威信も保てますな」
氏康は笑みを浮かべる。
「近藤には感謝せねばなるまい。本人はそこまで考えておるまいが、結果として我らの懸案を軽減してくれたのだからな」
そして氏康は家臣へ命じた。
「岩付城主・太田資正に命ずる。」
「直ちに小田原へ出仕せよとな」
「はっ!」
使者は直ちに岩付城へ向かった。
しかし数日後、戻ってきた使者は困惑した表情で報告する。
「申し上げます。太田資正殿は病を理由に出仕できぬとの返答にございます」
広間が静まり返る。
氏康は苦笑した。
「病……か」
「都合の良い病ですな」
太田資正の明らかな嘘に幻庵も肩をすくめる。
「来れば追及されると分かっておるのでしょう」
氏康は即座に命じた。
「ならば武蔵松山城主・上田朝直に命じる」
「資正を説得し、小田原へ連れて参れと」
「はっ!」
数日後、上田朝直自ら岩付城を訪れた。
上田朝直は太田資正と同じく扇谷上杉氏に仕えた将であったが、従属してからの働きが勤勉であったことから北条氏康から信頼されるようになった。だから元同僚として二度目の使者として北条氏康から白羽の矢が立ったのであった。
「資正殿、これは氏康様直々の御命令ですぞ。病を理由にこれ以上拒めば、謀反の疑いありと受け取られますぞ」
朝直の言葉を聞いて、資正は苦々しい表情を浮かべながらもこれ以上拒むことは無理だと判断し、漸く観念した。
「……分かった。参ろう」
こうして資正は上田朝直の説得に応じ、小田原城へ出仕した。
評定の間、氏康の前に資正が座る。
左右には幻庵や北条一門衆、奉行衆。さらに風魔小太郎も控えていた。
氏康は静かに証拠を差し出す。
「資正。これは何だ」
資正は差し出された資料を一瞥すると平然と答えた。
「さて何の事でしょうか?そのような事は存じませぬ。私とは無関係にございます。」
資正の返事に対して、風魔小太郎が一歩前へ進み出る。
「申し上げます。岩付周辺を調査した結果、偽薬製造の資金、売人との接触、命令系統、すべて太田家家臣を経由していたことを確認いたしました」
続いて売人たちの供述書が読み上げられると資正は黙り込んだ。
氏康は静かに問い掛ける。
「さて資正、証拠は上がっているが⋯まだ否定するか」
氏康の追及に長い沈黙の末、資正は漸く深く頭を下げ
「……すべて事実にございます」
氏康は厳しい眼差しを向ける。
「理由を申せ」
資正は悔しさを滲ませながら答えた。
「……気に食わなかったのです。百姓上がりの近藤が、家柄もない者が城を持ち、氏康様から気に入られ、勢力を広げようとしている」
「それを想像すると腹立たしかった。ならば石田散薬の信用を失わせれば、近藤の評判を下げることが出来、そして氏康様の目が覚めるであろうと」
氏康は静かに目を閉じる。
「愚かな、そなたが傷付けようとしたのは近藤だけではない。それは北条家にも傷付けることにもなり、そしてお主の行為が内部分裂を誘発させようとしていることだ」
そして氏康は裁定を下した。
「太田資正。近藤勇へ正式な詫び状を書くこと」
「偽薬による損害並びに迷惑料をすべて賠償すること」
資正は渋々頭を垂れた。
「……承知いたしました」
氏康は最後に告げる。
「賠償金は北条家が立て替えて近藤へ支払う。その後、太田家が北条家へ返済せよ」
資正は慌てて顔を上げた。資正は賠償金の支払いを認めたものの、内心では賠償金の支払いについて踏み倒す又はギリギリまで支払いを拒もうと考えていたからだ。
「氏康様……」
氏康は資正の言葉を無視して、静かに言い放つ。
「北条への借財は決して踏み倒せぬ」
「己の過ちの責任は最後まで負え」
資正は氏康の言葉に返す言葉を無かった。
評定が終わり、小田原城を後にした資正は拳を強く握り締める。
「近藤勇……百姓風情が……この儂に恥をかかせよって。この屈辱、必ず返してみせる」
資正はまだ見ぬ近藤を深く逆恨みするのであった。
一方、氏康は去っていく資正の背を見送りながら、小さく笑みを浮かべた。
「これで資正もしばらくは好き勝手に動けまい」
幻庵も穏やかに頷く。
「近藤殿のおかげで、長年の懸案を一つ片付けることができましたな」
氏康は静かに答えた。
「あの男は戦だけでなく、政治にも良い風を運んでくれる。実に面白い国人が現れたものだ」
こうして太田資正は今回の一件で名誉と影響力を大きく失い、その勢力は以前より弱まることとなった。
そして氏康は、近藤勇という男をますます高く評価するようになるのであった。




