第13話
小田原城――。
関東一円を治める北条氏の本拠には、武蔵国で起きた一件の報が次々と届いていた。
高幡城が、一夜にして落ちた。
しかも城を奪ったのは、名の知れぬ「近藤」とその一党。
野盗でも反乱軍でもない。
領民には危害を加えず、城主には切腹か退去かの選択を与え、城を収めているという。
この異例の出来事は、北条家中にも衝撃を与えていた。
数日後、小田原城には四通の書状が届けられた。
一通目は、大石綱周から。
「高幡城を奪われた。武蔵国の秩序を乱す者どもを討つため、お力添えをお願いしたい」
二通目は、三田綱秀から。
「高幡城の件は、大石方家臣の独断が発端である。近藤らは無益な争いを望んでおらず、和睦の道を探るべきである」
三通目は、金剛寺から。
「近藤らは石田散薬を寄進し、民を救わんとする志を持つ者たちである。軽々しく賊と断ずるべきではない」
そして四通目は、近藤からの書状だった。近藤は丁重な筆致で、自らの行動を説明していた。
「我らは北条家に敵対する意思は毛頭ございませぬ。 ただ、正当な商いを武力で奪おうとした者に対し、自らを守るため戦ったのみ。 民を苦しめるつもりはなく、この地を豊かにしたいと願っております。 何卒、公正なるご裁断を賜りたく存じます」
執務室で、北条氏康は四通の書状を静かに机へ並べた。
「……困ったものだ」
氏康は小さく息をつく。
大石氏は代々北条家に従う国衆である。
その訴えを無視するわけにはいかない。
しかし、三田綱秀や金剛寺の書状を読めば、大石方にも非があることは明らかだった。
さらに近藤自身の書状からは、無法者とは思えぬ礼節と覚悟が感じられる。
氏康は腕を組んだ。
「この近藤という男……。一体、何者なのだ」
その時、一人の老人が静かに部屋へ入ってきた。
北条家の長老、北条幻庵である。
氏康は席を勧めると、四通の書状を差し出した。
「大叔父上、この件をどう見る」
幻庵は一通ずつ丁寧に目を通す。
やがて書状を置くと、静かに口を開いた。
「大石方に落ち度がある」
氏康も頷く。
「余もそう思う」
「だが、それだけでは裁けぬ」
幻庵は続けた。
「近藤らの素性が分からぬ」
「武勇があり、礼を知り、民を思う。そのような者が、なぜ今まで我らの耳に入らなかったのか」
氏康も同じ疑問を抱いていた。
「敵と決めつけるには惜しいが、味方と決めるには早い」
幻庵は静かに笑みを浮かべる
「ならば、まずは見極めることです。事実を知らずして裁けば、後々まで禍根を残します」
幻庵の言葉に氏康は深く頷いた。
「そのとおりだ。まずは近藤という男を知る」
そう言うと氏康は立ち上がった。
「大叔父上。近藤らを調べてもらいたい」
幻庵は静かに一礼した。
「承知いたしました」
こうして北条家は、武力ではなく情報によって近藤らを見極める道を選ぶ。
その調査を担う者こそ、関東にその名を轟かせる風魔衆であった
小田原城の一室、灯火だけが静かに揺れていた。
部屋にいるのは、北条家の長老・北条幻庵ただ一人。
氏康から命を受けた幻庵は、障子の外へ静かに声を掛けた。
「……入れ」
音もなく障子が開く。
現れたのは、一人の男。
全身を黒装束に包み、その姿は影のように静かだった。
男は片膝をつく。
「お呼びでしょうか」
幻庵は穏やかな口調で言う。
「小太郎」
名を呼ばれた男は、静かに頭を下げた。
関東一円に名を馳せる風魔衆の頭領、風魔小太郎である。
幻庵は机の上に置かれた四通の書状へ目を向けた。
「武蔵国多摩郡、高幡城を近藤という男が城を奪った。」
「知っております」
「では話は早い」
幻庵は小太郎の目を見据えた。
「この近藤、土方、沖田の三人を調べよ」
「ただし――」
少し間を置く。
「監視ではない。見極めよ」
小太郎は静かに聞いていた。幻庵は言葉を続ける。
「氏康様は敵とも味方とも決めておられぬ」
「三田綱秀は近藤を評価し、金剛寺も味方しているが、一方で、大石綱周は救援を求めてきた。ただ四通の書状だけでは、人は分からぬ」
小太郎が口を開く。
「何を調べればよろしいでしょう」
幻庵は即座に答えた。
「すべてだ。人柄・兵の規律・領民への接し方・石田散薬」
「そして……」
幻庵は少し笑みを浮かべた。
「天下を望む者かどうか」
部屋に静寂が流れる。
やがて小太郎は深く頭を下げた。
「承知。正体を暴くのではなく、その本質を見極めてまいります」
幻庵は満足そうに頷いた。
「その言葉を待っていた」
「決して争うな。そして姿を見られるな」
「近藤らが真に民を思う者なら、敵に回すべきではない。だがもし野心だけの者なら、その時は氏康様が裁く」
小太郎は静かに立ち上がる。
「風のように入り、風のように去ります」
その言葉を残すと、障子がわずかに揺れた。
次の瞬間には、もう姿はなかった。
幻庵は夜空を見上げ、小さく呟く。
「近藤勇……おぬしらが何者か、この目で確かめさせてもらうぞ。」
その夜、一陣の風が小田原を発った。
行き先は――武蔵国、高幡城。
近藤、土方、沖田の運命を左右する密命が、静かに動き始めた




