第三章:プライドの砕けた魔王と呆れ顔の勇者
林を吹き抜ける風が、僅かに濃密な魔物の血臭を連れ去っていく。
メシアは少し眉をひそめると、鉄の剣を納め、無意識のうちに令嬢の元へと二、三歩歩み寄った。しかし鼻を突く血の匂いのほかに、空気中にはどこか気まずい、貴族の令嬢という身分にはおよそ似つかわしくない……微かな尿の匂いが漂っていた。
少年は澄んだ蒼い瞳をパチクリさせ、困惑の色を浮かべた。視線を震える令嬢の身体から下へと滑らせ、最終的に血みどろになりながらも激しく痙攣するように揺れる豪華なドレスの裾へと落とした。
「お嬢様……まさか、あなた……」
メシアが探るように声をかけた。その声には信じられないという思いが満ちていた。
その声を聞いた瞬間、うつむいたままその場で石化していたディアブラの小さなお顔が、「ドカン!」と音でも立てそうなほど、熟しきって破裂寸前のトマトみたいに真っ赤に爆発した!
彼女はガバッと顔を上げると、悔しさと恥ずかしさの入り混じった涙を瞳に浮かべ、小さな拳をギューッと握りしめた。今にも焼き切れそうな真っ赤な顔で強引に最後の尊厳を維持しながら、ヤケクソ気味にツンと叫んだ。
「本王はおしっこを漏らしたのだ!! 悪いか?! 貴様に何の関係があるというのだ!?」
「……は?」
メシアはその場に固まり、口を卵が丸ごとひとつ入るほどポカンと開けた。
かつて天地を滅ぼし、指先ひとつで幾千幾万の屍の山を築き、全世界の生ける者を恐怖に陥れた至高の魔王ディアブロが……まさか下級の『ブラッドハウンド・デビル』一匹に怯えておもらしをしただと?!
千年前、もし誰かが勇者に「魔王は犬に怯えておしっこを漏らすぞ」と言ったなら、勇者は絶対にそいつの頭がおかしくなったと思ったはずだ。
◇
世界観が粉々に砕け散るほどの衝撃からメシアが立ち直る間もなく、ディアブラは理不尽にも白く小さなお手をスッと差し出し、帝王のごとく横柄な命令を下した。
「何を見ている! 本王の失敗を見たことがないのか?! さっさとこちらに来て、本王の服を脱がせて川で洗ってこい! 聞こえなかったのか、下等な人間め!」
「……はぁ!?」
メシアは先ほどよりもさらにでかい声を張り上げ、自分の唾液でむせ返りそうになった。彼はまるで疫病神でも避けるかのように手をブンブン振りながら半歩後ずさりし、顔一面に黒筋を浮かべた。
「自分で洗いに行ってくださいよ! 男女の分別ってものを知らないんですか? それに、なんで僕があなたの服を洗わなきゃいけないんですか!?」
「洗い方など知らん!」
ディアブラはぷくーっと頬を膨らませ、両腕を当然と言わんばかりに胸の前で組み、まるで世の理を語るかのように不満をぶちまけた。
「人間は面倒なことばかりだな! なぜ服などというものを着なければならんのだ!? いつも公爵邸では十数人の使用人が本王の着替えも洗濯もやっておったのだぞ! 本王が洗濯の仕方など知るはずなかろう! 脱がせと言ったら脱がせばいいのだ、無駄口を叩くな! これは本王が貴様に与えた至高の恩寵なのだぞ!」
全身から血の臭いとおもらしの匂いを漂わせ、服の洗い方すら知らないくせに毛を逆立てた野良猫のように高飛車な元魔王様を見つめながら、メシアは深々とため息をつき、頭を抱えた。
(こいつ……一体なにを根拠にこんなに堂々としてやがるんだ……)
◇
「お嬢様……」
少年は体に付いた埃を払い落とすと、顔を上げて少し離れた場所から涼やかな水音が聞こえる渓流の方向を指差し、老父親のような哀愁漂うトーンで言った。
「あなたはいま魔王でもなければ、公爵邸でかしずかれているお嬢様でもないんです。僕たちは逃亡と冒険の真っ最中なんですよ。頼むから現実を見てください」
メシアはそう言いながら、自分の麻の袖をたくし上げ始めた。
「服は洗ってあげますけど、脱ぐのだけは自分でやってください! 血がついていない一番下の薄いシャツだけは残して、それ以外は全部脱いで僕に渡してください。川に行って洗ってきますから。急いでくださいね、血が完全に乾いたら、その天文学的なお値段のドレスは本当に台無しになりますよ」
ディアブラは下唇をぎゅっと噛み締め、自分の着ているベタベタで臭う貴族ドレスを見つめた。口では相変わらず「フン、下等な人間が本王に命令するなど……力を取り戻したら一番にカエルに変えてやす(変えてやる)」とぶつぶつ文句を言っていたが、体は正直に手忙しく動き始めた。
彼女はその華奢で不器用な手で、身についたあまりにも複雑なレースのボタンやコルセットの帯をバタバタと外していった。解きながら服に対して怒りをぶつけるその姿は、可哀想でありながらもどこか笑いを誘うものだった。
メシアは無念そうにため息をつくと、彼女に背を向け、バッグの中から予備の麻布のローブを放り投げた。
「……ほら。脱いだら風邪をひかないようにまずこれを羽織ってください。僕は先に川辺に行って火を熾してお湯を沸かしておきますから。解き終わったら声をかけてくださいね」




