第十五章:陣を破る帝王と天魔断罪の剣
第一幕:霧の散華と王の誇り
強敵が撤退していったあと、森を深く覆っていた重苦しい濃霧が徐々に散り始め、長い間閉ざされていたかのような眩い陽光が再び地上へと降り注いだ。
オフィーリアの身体を包み込んでいた熾烈な赤き狼の毛並みと血光がスーッと引き去り、彼女は元のシャープで美しい少女の姿へと戻った。だが、限界を超える体力を消耗した代償に、その場に片膝をついて荒い息を何度も切らせている。一方のリヴィアタンはといえば、先ほどの冷徹な帝王の面影など微塵も残さず、トコトコと小走りでメシアのもとへと駆け寄ると、倒れている少年の身体を優しく抱き起こし、ありとあらゆる細やかな気配りで甲斐甲斐しく看病を始めていた。
だが、その場で立ち尽くしていた小間使い令嬢——ディアブラだけは、ベルゼブブが消え去った空の彼方を見据えたまま、怒りのあまり全身をブルブルと震わせていた。
彼女の白く柔らかなお顔は熟したトマトの如く真っ赤に爆発し、両手で小さな拳をギュッと固く握りしめると、ベルゼブブが飛び去った雲の切れ目に向かって足をドタバタと地踏みしながら、捨て台詞を絶叫した。
「このメスバエめ! 本王は……本王はお前に食われてたまるか! 次に会ったときには、絶対にお前をハエ叩きにしてペチャンコにしてやるからな——!」
少年は、目の前でプンスカと怒りに身を焦がしているお嬢様と、心配そうに自分を覗き込んでくれる仲間たちの姿を見渡し、その口元に温かく柔らかな笑みをそっと浮かべた。神の島の試練はまだ始まったばかりだが、所羅門神殿へと続く道は、いま確実に彼らの目の前に開かれていた。
ベルゼブブの気配が完全に消失した後も、森のなかの濃霧はなおも周囲を重く包み込み、空気中には濃厚な魔素の波紋が立ち込めていた。
ディアブラは小さく息を深く吸い込むと、先ほど散々振り回されてふらふらになっていた足の恐怖を気力でねじ伏せ、少しよろめきながらも森の中央へと足を進めた。彼女はグッと奥歯を噛み締め、その白く端整な指先を自ら銀の歯で甘噛みし、真っ赤な鮮血の珠をじわりと滲ませた。
彼女は空中に、そして足元の地面に、一瞬にして複雑怪奇で古の魔王の刻印を次々と描き上げると、ゆっくりとその美しい双眸を閉じ、澄み切りながらも強烈な帝王の威厳を帯びた声で、難解な古魔界の呪文を唱え上げた。
——「我が名『ディアブロ』の名において命ず、万法は帰寂し、結界は今こそ破られよ!」
『ヴォォォォン————!』
彼女の体内に残されていた最後の微かな魔力をすべて絞り出した瞬間、真紅の魔法陣から凄まじい光芒が爆発し、周囲を何重にも取り囲んでいた濃霧の結界は、まるで太陽の光を浴びた雪の如く一瞬にして霧散していき、神殿へと直通する巍峨たる石板の大道がその全貌を現した。
「ふぅ……哼、たかが知れた小細工の陣など、この本王を縛れるとでも……」
言葉を言い終えるより早く、魔力を使い果たしたディアブラの足元がガクリと崩れ、顔面蒼白になった小柄な身体がそのまま前へと倒れ込んでいった。
「お嬢様ッ!」
メシアとオフィーリアが驚異的な反射神経で左右からサッと飛び出し、その身体をしっかりと支え止めた。限界を超えてボロボロになりながらも、なおも気丈に令嬢としてのプライドを保とうとしているこの傲嬌な少女を抱きかかえながら、メシアは苦笑いを浮かべると、彼女を船から持ち込んでいた馬車の中へとそっと横たえ、休息をとらせた。
第二幕:壊れた鉄剣と、新たなる宿命
馬車は所羅門神殿へと続く古の石板の上を静かに走り抜け、車内には車輪が転がるゴトゴトという低い音だけが響いていた。
ディアブラは柔らかいクッションにぐったりと体を預け、両腕を胸の前で組んだまま、向かい側の席に腰掛けている農村の少年を横目でツンと睨みつけた。彼女の視線がメシアの腰に差された——先ほどのベルゼブブとの激闘の中で完全にへし折られ、いまや半分しか残っていない無残な鉄剣の残骸にとらわれたとき、その紅い瞳のなかに複雑な光がちらりと揺らいだ。
「ふん……田舎者のガキ」
ディアブラはわざとらしく優雅に小さな顎をしゃくり上げ、すまし顔で口を開いた。
「ん? どうしました、お嬢様?」
メシアは顔を上げ、問いかけるような優しい笑みを彼女に向けた。
「本王が持っているあの『ソロモンの指輪』の他に、神殿の最奥には……もうひとつ、生前の本王が常に身に帯びていた愛用の佩剣——『天魔断罪の剣』が一緒に封印されている」
ディアブラは細やかな指先でメシアの腰の折れた剣を指し示し、気まずさを紛らわすようにツンと鼻を鳴らした。
「あの剣には極限の破壊の力が宿っているが、唯一の欠点は、使い手の魔力と体力を容赦なく吸い尽くし続けることだ。今の本王の、数匹の犬魔すら素手では倒せないようなか弱き肉体では到底扱えん……だが、お前のような不快なほど膨大な勇者の魔力を宿した奴なら、その吸い取りに対する耐久力もそれなりにあるはずだ」
彼女はプイと顔を窓の外へと背け、その耳たぶをうっすらと魅惑的なピンク色に染め上げながら、傲嬌にぶつぶつとつぶやいた。
「さっき……私を護衛するのにそこそこ頑張った褒美だ! その剣、特別にくれてやる! 神の島の底に置いてきたあの『主宰者の剣』の代わりにでも、せいぜい有難く使うがいい!」
一見するとどこまでも高慢ちきで、だがその実、底知れない思いやりと不器用な優しさに満ちたその言葉を聞き、メシアはわずかに呆気にとられたように動きを止めた。
彼は自分の手元にある、これまで長く苦楽を共にしてきたが、いまや見る影もなく折れ曲がった一本の鉄の棒に視線を落とし、その胸のなかに温かい波紋が広がっていくのを感じた。先ほどの暴食の幹部との戦いは、これからの敵がさらに規格外の次元へと突入していくことを彼に痛感させていた。もし彼の勇者の霊力を完璧に受け止め、その圧倒的な重圧に耐えうる神兵がなければ、この広大で危険に満ちた新世界で、目の前のか弱く、だが強がりな昔の宿敵を守り抜くという自らの「護衛の任務」を全うすることは、きっと容易ではないはずだ。
少年は壊れた剣の柄をギュッと力強く握りしめると、顔を上げて、ディアブラに向けてこの上なく温かく、誠実な笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、お嬢様。魔王様からの直接の御下賜品とあらば、ありがたく頂戴いたします……これからは、この『天魔断罪の剣』とともに、今まで以上にあなたをしっかりと守ってみせますね」
「だ、誰が田舎者のガキなどに守ってもらいたいと言ったのだ! 本王はただ、お前がいつまでもそんなボロ切れの折れた剣を持っていては、本王の顔に泥を塗ることになるから言っているだけだわ!」
ディアブラは自分の心の内を完璧に見透かされた小動物の如く、一瞬にして全身の毛を逆立て、近くにあった毛布を頭からすっぽり被って、真っ赤に染まった小顔を完全に隠してしまった。
馬車の外では、馬を引くオフィーリアと、手綱を握るリヴィアタンの二人が、車内から漏れ聞こえてくる微笑ましい言い争いのやり取りを聞きながら、互いに顔を見合わせてクスリと柔らかな笑みをこぼしたのだった。
そして、すぐ目の前に迫った霧の切れ目の向こう——古の歳月を超えていまなお神聖なる霊光を放ち続ける、荘厳な「所羅門神殿」の終着点が、静かにその雄大な姿を現していた……




