9. 私から離れたくないと思わせてみせる
四角く切り取られた月の光が床に落ちていた。ベッドに腰掛けてそれを眺める。
どうしてシャルル様は怒ったのか。先ほどからずっと考えている問いの答えは未だに見つからない。
あの後少しして執務室に戻ったシャルル様とは言葉を交わすことなく、また目すらも合うことはなかった。いつもだったら誘われる食事にも誘われず、久しぶりに夕食を一人で摂った。
あの時、わたくしが犯した失敗は何だったのかしら。何度思い返しても原因は見つからない。
胸がざわつく。
「……少しだけ、外に出てもいいかしら?」
明かりの落ちた部屋の中で尋ねると、侍女の戸惑いを含んだ声が返って来た。
「今、でしょうか……?」
「ええ、外を歩きたいの。本当に少しだけ……ダメかしら?」
顔を隠しているおしろいはもう落としてしまったし、夜着にも変えてしまったけれど、こんな時間だからきっとほとんど人に会うこともない。少し歩いて帰ってくるだけ。
少しして、分かりました、と返事があった。
月に照らされた城の裏庭は明かりがなくとも困らないほどに明るかった。ゆっくりと歩く後ろから、侍女の足音がついて来る。一人でも平気だと言ったのだけど、それはいけないと引かなかった彼女。こんな時間に付き合わせることに対して申し訳なさを感じたが、少しだけありがたかった。
「月が綺麗ね」
「ええ、本当に」
人の気配が近くにあるだけでざわついた心が少し静かになるような気がする。
ほとんど話もしないまま歩き、そろそろ部屋に戻ろうかしら、と思った時だった。わたくし達以外の足音が背後で聞こえた。
振り向くと、わたくしを庇うように立つ侍女の背中が見えた。しかし彼女はすぐに地面に膝をついた。それでその相手が誰か、顔を見なくても分かり、反射的に顔を背けた。
足音が止まる。誰も言葉を発することなく、わずかな風が葉を揺らす音だけが辺りを包んでいた。
こんな時間にこんな場所で会う。偶然とは考えにくい。
「……信用している、とおっしゃりながら、わたくしを見張ってられたのですね」
他国の貴族であるわたくし。警戒も当然。だけど口から出たのはまるで責めるような言葉だった。
コッと小さな足音が鳴った。顔を背けたままそれを聞く。自分でもどうしてそんなことを言ってしまったのか分からない。
「……下がれ。リズは私が責任をもって部屋まで送る」
「……っ! しかし、このようなお時間に」
侍女の声。シャルル様は静かに返す。
「分かっている。だがニコラスもいる。他の者の目も気を付ける。リズの部屋には一歩も入らない」
左側で振り向いて視線を向けると確かにシャルル様の後ろにはいつものようにニコラスの姿も見えた。
「すまない。だが、今日でなければならないのだ」
侍女は膝をついたまま戸惑うようにわたくしを見る。大丈夫よ、と小さな声で言うと、躊躇いを見せながらも去って行った。
コツ、コツ、と足音が近づく。それはわたくしのすぐ後ろで止まった。
「……見張っていたわけではない。私はあなたを信用している」
あなたと話をするタイミングをうかがっていたのだ、と続けられた言葉。それを見張っている、と言うのでは、と思ったけれど口にはしなかった。シャルル様がわたくしを信用しているのは知っているから。
「分かっております」
吐息と共に漏れた声は小さかった。
「ならば何故私を見てくれない」
醜い顔ですから。背中を向けたまま心の中で答えた。
「怒っている、のか……?」
躊躇いがちな声に、いいえ、と答える。
「怒っておられるのはシャルル様でしょう?」
わたくしの顔を見ず、食事にも誘わず。それが本来の距離感なのだろうけど、あまりにシャルル様らしくない態度。怒っているのはわたくしではない。わたくしはシャルル様の言葉の通りにするだけ。
すまない、と小さな謝罪があった。
「怒っていたわけではない。……少し拗ねていただけだ」
「拗ねて?」
予想していなかった言葉。シャルル様が左隣に並ぶ気配があった。視線は風に揺れる葉に向けたまま。
「あなたが今ここにいるのはあなたの意思ではなく私が望んだからなのか、と思うと」
一瞬、思考が止まった。まさかそんなふうに思われているとは思わず。しかし間違いでもない。
「私と共に食事をするのも、私の執務室で共に仕事をするのも。全て王太子である私が言うからだと、それを突き付けられたような気がした。よく考えると初めからそうだったというのに」
そう言ってシャルル様はふっと笑った。その表情は見ていないけれど、それが自嘲の笑みだということは声音から分かった。
「すまなかった。あなたに当たってしまった」
「それをおっしゃるためにこんな時間にわざわざこちらへ?」
「今日言っておかなければいけないような気がしたんだ」
許してくれるか、とシャルル様の伺うような声が聞こえた。ぬるい風が髪を揺らし、頬を撫でる。
つい先程までざわついていた心が、今は驚くほどに静かになっていた。きっとシャルル様から謝罪を受けたからではない。シャルル様本人の存在がわたくしの心に平穏をもたらすのだ。
ええ、と小さな声で答える。月明かりに照らされた葉が闇の中にその緑を浮かび上がらせている。
「ですが、あまりわたくしに構わないでくださいませ。シャルル様はこの国の未来を担うお方。他国の人間であるわたくしなど、本来はおそばにあることも許されません」
シャルル様が怒った理由がなんとなく分かった。ならばわたくしのこの言葉はまた怒らせてしまうかもしれない。それでも言わなければならない。
シャルル様の執務室で働く人たちはわたくしを受け入れてくれている。だけど他の貴族からわたくしがよく思われていないことも知っている。
わたくしがここにいることでーーシャルル様の近くにいることで、シャルル様の汚点になってしまうから。
「何を、言っている……」
視線は下げたまま、左側から聞こえる声に答える。
「シャルル様は本当にお優しい方です。そんなあなたの隣にいるべきはわたくしではありません」
グイ、と左腕が引かれた。強い力に体がそちらへ向く。シャルル様の美しい金の髪が月明かりに煌めいていた。
「あなたが好きだ!」
シャルル様は静かな、だけど強い声で言った。シャルル様から視線が離せなかった。
いつもよりも乱れた髪。楽な格好。月明かりに浮かび上がる真っ直ぐな瞳。何かに耐えるように弾き結ばれた口元。
その全てが『王太子』ではないシャルル様を表していて。
「知っているだろう? 私はあなたさえ頷いてくれるのなら、あなたを私の妻にしたい」
握られたままの左腕をそれとなく解く。
知っている。この右頬にこれがあることで、この方はわたくしを手放せないのだと。
「シャルル様もご存知でしょう? わたくしは同情も償いも欲しておりません。シャルル様がわたくしを気にかける理由などございません」
唇の端を上げると右頬が引き攣った。きっと醜い笑顔だろう。こんな時に美しく笑えることができたら、と少しだけ思った。
シャルル様はわたくしから視線を逸らさない。その手がゆっくりとあがり、こちらへ伸ばされる。どうしてだろう。避けることができなかった。
「……あなたが笑わなくなった理由を知っている」
静かな声。伸ばされた手はわたくしの右頬を撫でる。触れるか、触れないかのギリギリのところ。シャルル様の少し硬い指先から体温が伝わり、ズクリと痛んだ。
「あなたが姉上やフィリップと会うことを拒む理由も分かっているつもりだ」
少しだけ驚いた。仕事や体調など、出来るだけ自然な理由を探して断っていたのに。まさか鈍感なシャルル様に気が付かれているとは。
カトリーヌ様はお優しい方。フィリップ様もご立派な方。だからこそ、わたくしの顔を見る度にお二人がご自分を責める。
おしろいをはたいても引き攣った表情や歪んだ笑顔までは隠せない。
それなら会わない方がいい。そう思ったから。
「子供を庇って熱湯へ飛び込み、大きな火傷の原因となった人間を恨むことなく、反対に気遣いまで見せることができる」
シャルル様の手はゆっくりと頬を撫で、蝋のような皮膚をなぞりながら首へと降りていく。
「そんなあなただから私は好きになったのだ。情でも償いでもない。私はあなたを愛していて、あなたが欲しいと心の底から思っている」
鼻がツンとした。込み上げてきたものをこくりと飲み込む。見上げた瞳から目を逸らすことができなかった。
今口を開いたら声と一緒に涙も出てしまいそうで何も言うことができない。
不意にシャルル様の手が引かれた。そのまま勢いよく踵を返すと、そこに立っていたニコラスの方へ歩く。
「ニコラス、リズを部屋まで送ってくれ」
「シャルル様は?」
ニコラスの落ち着いた声に、先に部屋に戻る、と少し強い語気で返事があった。急な様子の変化に、わたくしはただシャルル様の背中を見ることしかできない。
くるりとシャルル様は振り向き、やはり少しだけ荒さを含んだ声で言った。
「勘違いするな。私は怒っていない。だがこれ以上あなたと一緒にいたら抱き締めたい衝動が抑えられない。だから部屋まではニコラスに送ってもらってくれ」
「え、ええ……」
「それから、私は命令であなたを手に入れても嬉しくない。私は私の力であなたの心を変えてみせる。私から離れたくないと思わせてみせる。覚悟しておけよ」
一息でそう言うと、わたくしが返事をする間も与えずにシャルル様は歩いて行ってしまった。
ポカンとしてその背中を見る。ニコラスがこちらへ歩きながら、ふふ、と笑う気配があった。
「本当に怒ってはおられません。声が荒かったのはただの照れ隠しですので」
「……そう、なのね」
行きましょう、とニコラスに促されて歩く。人気のない夜の中。暗くてよかったわ、と思った。
「……私には、シャルル様が変えるまでもないように見えますが」
ポツリとこぼされた言葉。そうね、と頷いた。
命令には従うけれどわたくしにも意思がないわけではない。
シャルル様から離れたくない。
その心はもう既にここにある。だけど……
「シャルル様には言わないで」
夜に溶ける小さな呟き。シャルル様の熱につられるように、火傷の痕が痛んだ。




