8. 私はあなたが国へ帰ることを許さない
月がふたつ巡り、本格的な暑さの半ばの頃だった。
「この書状はリズ宛だ」
手元の封書を処理しながら、シャルル様が封筒を見ていた。城に届いた書状はそれぞれに割り振られるが、わたくしがシャルル様の執務室にいることでシャルル様の元へと割り振られたのだろう。
「他国からの書状でしたらまずシャルル様が改めてくださいませ」
自ら立ち上がってこちらへ持って来ようとしたシャルル様にそう言葉をかけたが、シャルル様は足を止めずにわたくしの机の前に立った。
「送り主は見ていないが必要ない。私はリズを信用している」
ふっといくつかの笑い声が聞こえた。お熱いですね、と揶揄う声もあった。シャルル様の執務室内は気心の知れた人しかいないからか、シャルル様も王太子らしくあろうとしない。
だからだろうか。ここで仕事をする方々が、シャルル様がわたくしに熱を上げていると思っているのは。だけどわたくしは知っている。シャルル様のわたくしへの気持ちは恩や罪からくるものだということ。だから皆が思うような関係でもない。
目を通していた途中の書類を脇に避け、シャルル様の手から書状を受け取る。裏返してみればそこにはバックナー公爵家の印があった。
「……セドリック様です」
「なんだと?」
その名を聞いた途端、シャルル様は眉をひそめ、こちらへ伸ばした。しかしその手はすぐに引かれる。が、視線はわたくしの手元に注がれており、シャルル様がこの書状の中身が気になって仕方ないことが分かった。
ここへ来てもうふた月になるのだから、シャルル様のこともよく分かってきた。
「やはり先に読まれますか?」
「い、いや、いい。リズへ来た書状だ。あなたが読むんだ」
わざとらしく視線を逸らしたシャルル様。それでもチラチラとこちらを見ているのは無意識だろうか。
個人的な書状でしょうから仕事が終わった後に部屋で読もうと思ったのだけど……。
机の端に置いていた紙用のナイフで一気に開ける。並ぶ文字は懐かしいそれだった。一つ一つは整っているのに文章になると何故かあまり綺麗に見えない。まごうことなきセドリック様の手跡。
ざっと目を通す。わたくしの机の前に立ったままのシャルル様の視線を一身に浴びて。
「ど、どうだ? 何と書いてあった?」
わたくしの視線で最後まで読んだことが分かったのか、シャルル様はかがみ込むようにわたくしの方へ顔を寄せた。
「……結論だけ申しますと、戻ってきて欲しい、というものでした」
「何!?」
「どうやらセドリック様は相当キャシーに手を焼いているようです」
読み終えたそれをシャルル様へ差し出すと、いいのか? と遠慮がちに聞かれた。頷くとシャルル様もそれに目を通す。
セドリック様は器用な方ではなく、一つのことしかできない。だからわたくしが予定の管理から仕事の手伝い、困った時の助言まで幅広くサポートしてきた。それをセドリック様は婚約者として当たり前のことだと思っていた。だから当たり前のようにキャシーにも同じものを求めたのだろう。
書状にはこの先が綴られていた。
キャシーはニコニコするだけで碌に仕事ができない。字は綺麗だが文章は支離滅裂でとても提出できる物ではなく、助言を求めても何も答えられない。答えても明後日な方向のものが返ってくる。翌日の予定を聞けばどこへ遊びに行くか、という話にしかならず、次から次へと物をねだってくる。しかもとても婚約者へ日常で贈るようなものでない、高価な物を。
文字を追うシャルル様の表情が段々と困惑に変わっていく。読み終えた頃にはすっかり眉が下がっていた。
「どうでした?」
「いや、なんとなく分かってはいたが、あなたの妹は……その、あなたと似ていないのだな」
選びに選ばれた言葉。思わず笑いそうになってしまい、わずかな皮膚の引き攣りに唇を引き結んだ。
顔はよく似ていたと思う。でも性格は正反対。
自らの望む物事しか目に入らず、思い込みが激しい。どこかずれていて、だけど自分が他とずれていることにすら気が付かない。人の気持ちに鈍感で、誰かの怒りを買っても気付くことなく更に怒らせる。
どちらかというとわたくしはお母様似、キャシーはお父様似だけれど、キャシーはお父様よりももっとずっと手に負えない。
「あなたは驚いていないようだが」
「ええ、まあ……こうなるだろうなとは思っておりましたので」
家を出ることが決まったあの日から、セドリック様とキャシーが婚約を結んだあの日から。お父様もセドリック様もわたくしを『顔だけ』と評したけれど、本当に『顔だけ』なのはキャシーの方。
わたくしの代わりをキャシーが務めるなどできるはずがない。と、必要ないと言われたわたくしは思っていた。
シャルル様はわずかな驚きを顔に浮かべてわたくしを見た。
「それで、戻るのか? 妹との婚約を解消してもう一度あなたと婚約を、と書いてあるが……」
「どうすればよろしいですか?」
戻るか戻らないか、それを決めるのはわたくしではない。尋ねるとシャルル様は訝しげにわたくしを見た。
「何故私に聞く?」
「何故と問われましても……」
ここへわたくしを連れて来たのはシャルル様。仕事を与えてくれたのも、衣食住を用意してくれたのも全てシャルル様。
「シャルル様がわたくしの雇い主ですから」
気が付けば執務室の誰もがこちらを見ていた。決して面白い話をしているわけではないのに。こうも注目されているとなんだか居心地が悪い。
この話は仕事の後にしたい。せめて場所を変えたい。しかしシャルル様は一切気にした様子を見せずに話を続ける。
座ればいいのに。それともわたくしが立つべき?
「よく分からないのだが、あなたは戻りたいのか?」
「どちらでも。シャルル様が戻れとおっしゃるなら戻ります」
「戻って、どうするんだ?」
シャルル様の眉間に深い皺が刻まれる。それをじっと見て考える。これは不快か、困惑か。
「役割を果たします。望まれるままに」
「あのクズのような男の元でか?」
クズ、とは……。予想していなかった言葉に思わずポカンとしてしまった。
「あなたを必要ないと言った父親や、あなたを馬鹿にするような妹の元でか?」
「ええ、まあ」
言葉にすると随分と酷い人たちだな、と思ったが、実物の方がもっと酷かったのだとすぐに思い出した。
「戻りたいのか?」
声の端にわずかな苛立ちが見えたような気がした。だけどその理由が分からない。
「どちらでも。わたくしはわたくしの役割を果たすだけです」
もう一度同じ答えを返した。シャルル様の目に鋭さが宿る。
「役割、か……。前も言っていたな。あなたの意思はないのか?」
失敗したのだ、と悟った。シャルル様を怒らせてしまった。だけどその理由が分からず、なんと答えればいいのかもなんと謝罪をすればいいのかも分からない。
「……ありますが、関係ありません」
「あるだろう」
静かな声。だけど怒りは確かに混ざっていて、周りの官達が戸惑うように視線を巡らせるのが見えた。扉の前に立つニコラスは困ったような笑みを浮かべる。
なんと言うのが正解なのだろう。分からない。だからわたくしはわたくしの言葉を語る他にない。
「シャルル様は王太子殿下です。それは嫌だと言って辞めることができるものですか?」
座ったままシャルル様を見上げる。引き結ばれた唇は動かず、わたくしは言葉を続けた。
「そこに意思は関係ありません。わたくしはわたくしに与えられた役割を果たすまでです」
バン! と目の前で大きな音が鳴った。シャルル様の手がわたくしの机を叩いたのだ。驚きはなかった。セドリック様がよく立てていた音だったから。
「ならば、私があなたに王太子妃になれと命令したら、あなたはそれに頷くのか?」
低い声だった。
こちらへ向くいくつもの視線。そこに混ざる感情は何なのだろう。シャルル様の怒りの理由は何なのだろう。
「命令でしたら」
それに否と答えることなどわたくしにできるはずがない。分かりきった質問だというのに。
シャルル様はギリ、と歯を噛み締め、やはり低い声で言った。
「私はあなたが国へ帰ることを許さない」
勢いよく踵を返したシャルル様は、休憩だ! と荒く言い、持っていたままのセドリック様からの書状をニコラスへ渡した。
「燃やしておけ」
それから、扉の前で一度振り返り、
「書状の返事を出すことも禁ずる」
出て行った。
音を立てて閉まった扉を見て、シャルル様も怒ることがあるのね、なんて思った。
火傷の痕がピリ、と痛んだ。




