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第八章 最後の祈り

 夜八時四十分。


 カーター家の寝室には、薄い明かりが灯っていた。


 エミリーは、病院から自宅へ戻っていた。医師たちは、生命に関わる異常が見つからないことを確認したうえで、家族が付き添うことを条件に帰宅を認めた。意識は戻っていないが、呼吸や脈拍は安定している。


 サラは娘のベッドの横に座り、手を握っていた。


 ダニエルは部屋の中央に立ち、祈祷書を開いた。


 今夜の儀式は、昨夜とは違う。


 悪魔祓いではない。


 少なくとも、単に悪魔を追い払うためのものではなかった。


 彼は、少女の中にいる存在が何を求めているのかを理解しなければならない。存在がエミリーを守ろうとしているのなら、力ずくで排除するだけでは、問題は解決しないかもしれない。


 しかし、存在が彼女の意識を侵食している以上、放置することもできなかった。


「始めます」


 ダニエルはサラに告げた。


 彼女は頷いた。


 ダニエルは祈りを始めた。


 低い声が、静かな部屋に響く。


 最初は何も起こらなかった。


 エミリーは目を閉じたまま、静かに呼吸していた。窓の外では、車が通り過ぎる音が聞こえる。家の中には、時計の針が進む音だけが響いていた。


 数分後、室温が下がり始めた。


 サラが身震いした。


「寒い……」


 ダニエルは祈りを続けた。


 窓ガラスが曇り始めた。カーテンが、風もないのにゆっくりと揺れる。


 そして、声が聞こえた。


「エミリー」


 男の声だった。


 穏やかで、優しい声。


 サラが顔を上げた。


「マイケル……?」


 ダニエルは、彼女を見た。


「聞こえますか?」


 サラは頷いた。


「夫の声です。間違いありません」


 声は続いた。


「もう、起きなくていい。ここにいればいい」


 エミリーの指が動いた。


 サラは娘の手を強く握った。


「エミリー?」


「ここにいれば、何も失わない」


 声は、寝室のあちこちから聞こえていた。壁の中から、窓の外から、ベッドの下から。


 ダニエルは祈祷書を閉じた。


「お前は、マイケルじゃない」


 声が止まった。


 数秒の沈黙。


 それから、男の声が答えた。


「私は、この子を守っている」


「何から?」


「喪失から」


 ダニエルは、ゆっくりと息を吐いた。


「お前は、この子が父親を失ったことを知っている。だから、父親の姿を再現している」


「この子は、父親を求めている」


「そうだろう」


「この子は、一人では生きられない」


「違う」


 ダニエルは、はっきりと言った。


「この子は一人ではない。母親がいる。友人もいる。これから出会う人間もいる」


「それでも、父親はいない」


 その言葉に、サラの顔が歪んだ。


 ダニエルは、すぐには答えなかった。


 存在は、嘘をついているわけではない。


 マイケルは、もういない。


 エミリーがどれだけ父親を求めても、その事実は変わらない。


 しかし、それを理由に、少女の人生を止めていいはずがなかった。


「父親がいないことと、娘が生きられないことは違う」


 ダニエルは言った。


「お前は、彼女を守ろうとしているのかもしれない。だが、彼女を守るために、彼女の人生を奪うことはできない」


 部屋の温度が、さらに下がった。


 窓ガラスに霜が広がる。


 エミリーの身体が震えた。


 サラは娘の手を握りしめた。


「エミリー、聞こえる?」


 返事はなかった。


「お母さんはここにいるよ」


 サラの声は震えていた。


「あなたが何を見ていても、何を聞いていても、ここにいるから」


 男の声が、低くなった。


「この子は、私を望んでいる」


「いいえ」


 サラは顔を上げた。


「娘は、父親を望んでいるの。あなたじゃない」


 声が消えた。


 ダニエルは、サラを見た。


 彼女は涙を流していた。しかし、目を逸らさなかった。


「エミリーは、父親が死んだことを忘れたくなかったんです。私も、同じでした。だから、あの子が父親の声を聞くようになったとき、止められなかった」


 彼女は娘の手を握り直した。


「父親の話をすると、あの子が泣くから。私も泣いてしまうから。だから、話さないようにしていたんです」


 サラは、目を閉じた。


「でも、あの子を守るために、父親を忘れさせる必要はなかったんですね」


 ダニエルは頷いた。


「そうです」


 彼は祈りを再開した。


 今度は、悪魔を追い払うための言葉ではなかった。


 エミリーが、自分自身の記憶を取り戻せるように。


 父親を失った悲しみを、誰かに預けるのではなく、自分の中に抱えられるように。


 ダニエルは、静かに祈った。


 そのとき、エミリーの瞼が動いた。


「……お父さん?」


 少女の声だった。


 ダニエルは、すぐに答えなかった。


 エミリーは目を閉じたまま、何かを探すように顔を動かした。


「どこにいるの?」


 男の声が聞こえた。


「ここにいるよ」


 エミリーの唇が震えた。


「本当に?」


「もちろんだ」


 ダニエルは、少女の顔を見つめた。


 その声は、マイケルのものだった。


 少なくとも、エミリーが記憶している父親の声に、よく似ていた。


「お父さん、会いたかった」


「私もだ」


 声は優しかった。


「もう、何も心配しなくていい。ここにいればいい」


 エミリーの顔が、わずかに緩んだ。


 彼女は、その声を信じようとしていた。


 父親が戻ってきたのなら、もう悲しまなくていい。もう寂しくない。もう、誰かを失うこともない。


 その願いが、彼女をここに留めていた。


 ダニエルは、一歩近づいた。


「エミリー」


 少女の眉が動いた。


「聞こえるか?」


 返事はなかった。


「お前が聞いている声は、お前の父親じゃない」


 サラが息を呑んだ。


 男の声が低くなった。


「黙れ」


「お前は、父親の記憶を使っているだけだ」


「黙れ!」


 部屋の中で、何かが弾けた。


 窓ガラスに亀裂が走り、机の上に置かれていた本が床に落ちた。


 ダニエルは動かなかった。


「お前は、彼女を守ろうとしている。だが、彼女が何を必要としているのか、理解していない」


「私は、この子を守っている!」


「なら、彼女に選ばせろ」


 声が止まった。


 ダニエルは、エミリーの顔を見た。


「エミリー。お前は、父親を忘れる必要はない。声を忘れる必要も、思い出を捨てる必要もない」


 彼は、一度息を吸った。


「でも、お前はここから出なければならない。お父さんがいない世界で、生きていかなければならない」


 エミリーの頬を、涙が伝った。


「……いや」


 少女が呟いた。


「お父さんがいないのは、いや」


「そうだな」


 ダニエルは答えた。


「俺だって、そう思う」


 その言葉に、サラが顔を上げた。


 ダニエルは、少女から目を逸らさなかった。


「でも、いないものは、いない。どれだけ願っても、戻ってこない人間はいる」


 声が、静かになった。


「それでも、お前は生きていける」


 エミリーは泣いていた。


 声を上げることもなく、ただ、涙を流していた。


 ダニエルは、祈りを続けた。


 存在が、ゆっくりと形を取り始めた。


 ベッドの足元に、男の姿が浮かび上がる。


 茶色の髪。穏やかな目。口元に浮かぶ、懐かしい笑み。


 マイケル・カーターの姿だった。


 サラが口元を押さえた。


 エミリーは目を開いた。


「お父さん……」


 男は、少女を見つめた。


「エミリー」


 その声は、確かに父親の声だった。


「大きくなったな」


 少女は泣きながら笑った。


「お父さん、どこに行ってたの?」


「少し遠くに」


「帰ってきてよ」


 男は、答えなかった。


 ダニエルは祈りを止めずに、二人を見つめていた。


 この存在は、父親本人ではない。


 それでも、エミリーが覚えている父親の声や仕草を再現している。彼女の記憶を使って、彼女が最も望んでいる姿になっている。


 だからこそ、彼女はそれを手放せなかった。


「お父さん、私……」


 エミリーは言葉を詰まらせた。


「私、ずっと会いたかった」


「知っている」


「忘れたくなかった」


「わかっている」


「でも、もう……」


 彼女は、目を閉じた。


「もう、疲れた」


 男の姿が、わずかに揺らいだ。


 エミリーは涙を拭った。


「お父さんのこと、忘れたくない。でも、もう、ここにはいられない」


 男は、静かに頷いた。


「そうだな」


 その声は、優しかった。


「お前は、もう一人で歩ける」


 エミリーは、何度も頷いた。


「……うん」


 男の姿が薄くなり始めた。


 サラが娘の手を握り、泣きながら笑った。


「エミリー。お母さんはここにいるよ」


「うん」


「ずっと、そばにいるから」


「うん」


 男の姿は、光の中へ溶けるように消えていった。


 最後に、エミリーは小さく呟いた。


「さよなら、お父さん」


 その言葉を最後に、部屋の中の異常現象が止まった。


 窓ガラスの霜が消える。カーテンが静かに垂れ下がる。空気の温度が、ゆっくりと戻っていった。


 エミリーは、ベッドの上で目を閉じた。


 ダニエルは祈りを終え、祈祷書を閉じた。


 数秒後、少女が目を開いた。


 今度は、焦点が合っていた。


「……お母さん?」


 サラは、娘の顔を覗き込んだ。


「エミリー!」


 彼女は娘を抱きしめた。


 エミリーは母親の胸に顔を埋め、泣き始めた。


 ダニエルは、その様子をしばらく見つめていた。


 少女は助かった。


 だが、彼が追い払ったのは、悪魔ではなかった。


 少女の中に残っていたものは、父親の記憶を模倣し、彼女を守ろうとしていた存在だった。


 その目的は、彼女を苦しめることではなかったのかもしれない。


 それでも、彼女を生きた世界から遠ざけていた。


 ダニエルは、祈祷書を革鞄にしまった。


「もう大丈夫です」


 彼はサラに告げた。


 サラは涙を拭い、何度も頷いた。


「ありがとうございます……」


「礼はいいです。今は、娘さんと一緒にいてあげてください」


 ダニエルは寝室を出た。


 階段を下り、玄関へ向かう。


 外では、雨が止んでいた。


 濡れた道路に街灯の光が映り、遠くで車の走る音が聞こえる。


 ダニエルは車に乗り込んだ。


 エンジンをかける前に、彼はしばらくハンドルを握ったまま座っていた。


 悪魔祓いは、悪魔を追い払う仕事だ。


 しかし、悪魔を追い払うことが、人を救うことと同じとは限らない。


 それを、彼は今夜、改めて理解した。


 ダニエルはエンジンをかけた。


 帰る場所がある。


 それだけで、十分だった。

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