第九章 今夜は眠れる
午後十時十二分。
ダニエルは自宅の玄関を開けた。
家の中は暗かった。リビングの照明をつけると、ソファとテーブル、テレビ、読みかけの新聞が目に入った。朝と同じ場所に置かれたコーヒーカップが、流し台の横に残っている。
彼は革鞄を床に置き、コートを脱いだ。
長い一日だった。
朝、少女が意識を失ったという電話で目を覚まし、教会の資料を調べ、ルシアンと話し、父親の手帳を読み、最後にはもう一度祈りを捧げた。
それでも、事件は終わった。
エミリーは目を覚ました。サラも、娘を抱きしめることができた。
ダニエルはキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
チーズは、昨日よりさらに減っていた。
「……あの野郎」
彼は冷蔵庫を閉めた。
代わりにビールを取り出し、栓を開ける。ソファに腰を下ろし、テレビをつけた。
ニュース番組では、明日の天気予報が流れていた。司会者は、週末にかけて気温が下がると説明している。
ダニエルはビールを飲んだ。
そのとき、玄関がノックされた。
彼は天井を見上げた。
「鍵は開いている」
ドアが開き、ルシアンが入ってきた。
「こんばんは」
「何の用だ」
「君の様子を見に来た」
「俺は元気だ」
「そうか。それならよかった」
ルシアンは靴を脱ぎ、リビングへ入ってきた。
彼はソファの端に座り、テレビを見た。
「事件は解決したのか?」
「した」
「少女は?」
「助かった」
ルシアンは、短く頷いた。
「それはよかった」
ダニエルは、ビールを飲んだ。
「お前は、最初から何かを疑っていたんだな」
「何のことだ?」
「悪魔祓いの後にも、何かが残る可能性を知っていた。だから、昨夜、俺に結果を尋ねた」
ルシアンは、否定しなかった。
「可能性を知っていた。それだけだ」
「その可能性を、もっと早く話すべきだった」
「その通りだ」
ダニエルは、少しだけ笑った。
「今日は素直だな」
「君が疲れているようだからな」
「俺が疲れていなかったら?」
「いつもどおり、君を苛立たせる」
「最低だな」
「悪魔だからな」
ルシアンは、テレビの音量を少し下げた。
「少女は、父親の記憶を失わずに済んだのか?」
「ああ」
「それなら、よかった」
ダニエルは、グラスをテーブルに置いた。
「お前は、人間が死者を忘れないことをどう思う?」
ルシアンは、しばらく考えた。
「興味深いと思う」
「興味深い?」
「人間は、死者の写真を飾る。墓を作る。記念日を祝う。死者の好きだった食べ物を食べ、死者の言葉を繰り返す。いなくなった人間を、いなくなった後も生活の中に残そうとする」
「それが悪いことか?」
「そうは言っていない」
ルシアンは、ソファの背にもたれた。
「人間は、死者を忘れないために、さまざまな方法を考える。だが、時には、死者を忘れないことと、死者を手放さないことの区別がつかなくなる」
ダニエルは、黙って聞いていた。
「今日の少女は、その違いを理解したのだろう」
「そうだな」
「父親を忘れたくなかった。だが、父親を失った現実から逃げ続けることはできなかった」
ルシアンは、テーブルの上に置かれたビールを見た。
「君は、それを教えたのか?」
「俺だけじゃない。母親もだ」
「なるほど」
ダニエルは、少し考えた。
「人間は、死者を忘れないために記念碑を建てる。写真を飾る。物語を語る。それでも、死者が戻ってくるわけじゃない」
「そうだな」
「それでいいんだろう」
ルシアンは、静かに笑った。
「君は、以前より少し賢くなったようだ」
「お前に言われたくない」
「私は褒めている」
「それが問題だ」
ルシアンは立ち上がった。
「もう帰るのか?」
「遅くなる前にな」
「最初から、そうすればよかったんだ」
「君は、客に対する態度を学ぶべきだな」
「お前は客じゃない」
「では、何だ?」
ダニエルは、しばらく考えた。
「厄介な知り合いだ」
ルシアンは笑った。
「それは光栄だ」
玄関へ向かい、靴を履く。
ドアを開ける前に、ルシアンは振り返った。
「今夜は、よく眠れるといいな」
ダニエルは、ビールを飲んだ。
「お前が勝手に入ってこなければな」
「努力はする」
「約束しろ」
「考えておこう」
ルシアンは、雨の止んだ夜の街へ出ていった。
ドアが閉まる。
ダニエルは、しばらく玄関を見つめていた。
それから鍵をかけ、リビングへ戻った。
テレビでは、明日の天気予報が終わり、別のニュースが始まっていた。彼は音量を下げ、ソファに深く座り直した。
ビールは、まだ半分ほど残っている。
ダニエルはグラスを手に取り、ひと口飲んだ。
少女は助かった。
父親の記憶も、母親の愛情も、失われずに済んだ。
それだけで、今夜は十分だった。
彼はテレビを消した。
リビングが暗くなる。
窓の外では、遠くを走る車の音が聞こえていた。
ダニエルは目を閉じた。
今夜は、誰も助けを求めてこない。
少なくとも、朝までは。
彼はソファから立ち上がり、寝室へ向かった。
家の中は静かだった。
そして今度こそ、夜は終わった。




