第七章 死の瞬間に見たもの
午後四時を過ぎると、空は再び暗くなり始めた。
ダニエルは警察署の記録窓口で、マイケル・カーターの交通事故に関する公開記録を入手していた。詳細な捜査資料までは閲覧できなかったが、事故報告書と当時の新聞記事は確認できた。
事故が起きたのは、二年前の十月二十二日。夜十時四十分頃。マイケルは仕事帰りに車を運転しており、郊外の道路で中央分離帯に衝突した。
路面は乾いていた。飲酒の形跡もなく、車両に重大な故障は見つからなかった。
事故の原因は、運転中の急な進路変更とされていた。
報告書には、マイケルが何かを避けようとした可能性があると記されている。しかし、現場にいた目撃者はおらず、道路脇に人影があったという証拠もなかった。
ダニエルは書類を閉じた。
人影を見たというマイケルの記述は、手帳に残っている。だが、それが実在したのか、疲労による幻覚だったのかはわからない。
ただ、事故の前から何かを恐れていたことは確かだった。
彼は車を走らせ、カーター家へ戻った。
サラは、リビングでエミリーの学校の教材を整理していた。娘が戻ってきたときに備えて、部屋を片づけているのだという。
「何かわかりましたか?」
彼女が尋ねた。
「事故の原因は、はっきりしていません。ご主人が何かを避けようとした可能性はありますが、証拠はありません」
サラは目を伏せた。
「やっぱり、わからないんですね」
「ただ、事故の前から何かを見ていたという記録は残っています」
ダニエルは、マイケルの手帳をテーブルに置いた。
「この記述について、何か心当たりはありませんか?」
サラは手帳を開いた。
「彼が何かを見たという話は、何度も聞きました。でも、どこに立っていたのか、何をしていたのか、詳しいことは話してくれませんでした」
「その人影について、娘さんに話したことは?」
「いいえ。マイケルは、エミリーを怖がらせたくなかったんだと思います」
ダニエルは頷いた。
彼は手帳を見つめた。
――自分の声ではない。
その記述が、気になっていた。
「ご主人は、事故の前に誰かの声を聞いていたんですか?」
サラは考え込んだ。
「そう言えば……一度だけ、夜中に目を覚ましたとき、マイケルが誰かと話しているように見えたことがあります」
「誰かと?」
「でも、部屋には誰もいませんでした。私が声をかけると、彼は、誰かが自分を呼んだと言ったんです」
ダニエルは、手帳を閉じた。
過去の事件の記録が、頭の中に浮かんだ。
死者の声を聞いているのではない。死者の声を必要としているのだ。
彼は、エミリーの部屋で聞いた声を思い出した。
お前は誰を呼んだ?
この子は私を望んでいる。
悪魔は、確かにそう言った。
しかし、あの存在は、本当に悪魔だけだったのだろうか。
ダニエルは、今までの考えを一度捨てて、もう一度組み立て直した。
最初の悪魔祓いで、少女の身体から出ていったものは何だったのか。
あの黒い影は、悪魔の姿だったのか。それとも、悪魔に便乗していた別の何かが、一時的に形を取ったものだったのか。
確かなことは一つだけだった。
エミリーの中には、悪魔とは別の存在が残っている。
そして、その存在は、父親の記憶を利用している。
ダニエルは携帯電話を取り出し、ルシアンに電話をかけた。
今度は、すぐにつながった。
「どうした?」
「一つ確認したい」
「聞こう」
「人間の記憶を模倣する存在が、人間の意識を閉じ込めることはあるのか?」
ルシアンはしばらく黙っていた。
「可能性はある」
「その場合、どうすればいい?」
「私は、具体的な対処法を知らない」
「お前は、何でも知っているような顔をしているくせに」
「何でも知っている者がいるとしたら、そいつは人間ではないだろうな」
「お前は人間じゃない」
「だからこそ、知らないこともある」
ダニエルはため息をついた。
「わかった。もう一つ。そいつが人間を苦しめるのは、悪意からなのか?」
「必ずしもそうではない」
「では、何のために?」
「人間が何を求めているかによる。あるいは、そいつ自身が何を必要としているかによる」
ダニエルは窓の外を見た。
夕暮れが近づいていた。
「エミリーは父親を求めている」
「そうだろうな」
「なら、その存在は父親を再現することで、彼女を満たそうとしているのかもしれない」
「そうかもしれない」
「だが、それが彼女を昏睡状態にしている」
「君は、そう考えているんだな」
ダニエルは答えなかった。
彼はまだ、すべてを理解したわけではない。
しかし、今までの手がかりをつなげれば、そこに一つの仮説が浮かび上がる。
エミリーの中にいるものは、父親本人ではない。
父親の記憶を模倣し、彼女の喪失感に結びついた存在だ。
それは彼女を慰めるために、父親の声を再現しているのかもしれない。
だが、その存在は、エミリーが父親を失った現実から離れるほど強くなっていく。
彼女が現実に戻ろうとするたびに、存在は彼女を引き止める。
その結果、エミリーは意識を失ったまま、父親の記憶の中に閉じ込められている。
ダニエルは、携帯電話を耳から離した。
「ルシアン。もし、俺の考えが正しいなら、どうすればいいと思う?」
ルシアンはすぐには答えなかった。
「君は、何をするつもりだ?」
「存在を追い払う」
「力ずくで?」
「必要なら」
「それでは、同じことを繰り返すかもしれない」
ダニエルは眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「その存在が、少女を守るためにそこにいるのなら、無理に排除しても、別の形で戻ってくる可能性がある」
「なら、どうする?」
「君が考えるべきことだ」
ダニエルは、少しだけ笑った。
「お前は本当に、役に立たない悪魔だな」
「それでも、君は私に電話をかけてくる」
「他に相談できる相手がいないからだ」
「それは光栄だ」
電話が切れた。
ダニエルは携帯電話をポケットにしまった。
サラが、心配そうに彼を見ていた。
「何かわかったんですか?」
「まだ、確かなことは言えません」
ダニエルは立ち上がった。
「ただ、娘さんを救う方法はあると思います」
「本当ですか?」
「ええ。ただし、もう一度、儀式を行う必要があります」
サラは息を呑んだ。
「また、あの子に苦しい思いをさせるんですか?」
「苦しませないために、やるんです」
ダニエルは、できるだけ静かな声で答えた。
「今度は、悪魔を追い払うためではありません。娘さんが、自分の記憶に戻れるようにするためです」
サラは、しばらく彼を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「お願いします」
ダニエルは頷き返した。
窓の外では、日が沈み始めていた。
今夜、すべてを終わらせる。
彼はそう決めた。




