第六章 父親の記憶
カーター家に戻ると、サラはリビングのソファに座っていた。
エミリーは病院で検査を受けている。医師たちは、現時点では原因を特定できていないという。生命に関わる異常は見つかっていないが、意識が戻らない以上、経過を観察する必要がある。
サラは病院から戻ったばかりだった。
「娘さんは?」
ダニエルが尋ねると、彼女は顔を上げた。
「まだ、目を覚ましません」
「そうですか」
「医師は、しばらく様子を見ると言っています。でも、何もわからないんです。検査をしても、異常が見つからない。どうして、あの子が……」
サラは言葉を詰まらせた。
ダニエルは彼女の向かいに座った。
「少し、話を聞かせてください。ご主人のことです」
サラは目を伏せた。
「マイケルの?」
「はい。彼が亡くなる前、何か変わったことはありませんでしたか?」
サラはしばらく考えていた。
「事故の数日前から、様子がおかしかったんです」
「どうおかしかった?」
「夜中に目を覚ますようになりました。窓の外を見て、誰かが道路に立っていると言うんです」
「誰か?」
「人影です。顔は見えないけれど、ずっとこちらを見ている、と」
ダニエルは黙って聞いていた。
「最初は、疲れているのだと思いました。仕事が忙しかったし、事故の前は残業も多かったんです。でも、何度も同じことを言うようになって……」
「警察や医者には相談しましたか?」
「いいえ。本人は、すぐに落ち着くと言っていました。私も、あまり深刻には考えなかったんです」
サラは手を組んだ。
「事故の前日、マイケルはエミリーに何かを言っていました。何があっても、お前は一人じゃない、と」
「それは、普段から言っていた言葉ですか?」
「いいえ。あのときだけです。エミリーは、何のことかわからないと言っていました」
ダニエルは、手帳の存在を思い出した。
「ご主人が残したものはありますか? 日記や手帳のようなものです」
「あります。書斎の引き出しに、仕事用の手帳が残っています」
サラは立ち上がり、階段を上がった。
数分後、彼女は薄い黒革の手帳を持って戻ってきた。
「これです。事故の後、整理しようと思ったんですが、読むのがつらくて……」
ダニエルは手帳を受け取った。
ページを開くと、仕事の予定や電話番号が並んでいた。途中から、走り書きのような文章が増えている。
――また見た。
――道路の向こうに立っていた。
――誰もいないと言われた。だが、確かに見えた。
ダニエルはページをめくった。
――エミリーを一人にしてはいけない。
――あれが何なのか、まだわからない。
――声が聞こえる。自分の声ではない。
彼は手帳を閉じた。
「これは、事故の前に書かれたものですか?」
「はい。日付を見る限り、そうだと思います」
「ご主人は、誰かに相談していましたか?」
「わかりません。ただ、事故の少し前に教会へ行ったことは知っています。何を相談したのかは、聞いていませんでした」
ダニエルは頷いた。
「お父さんの声が聞こえるようになったのは、いつ頃ですか?」
サラの表情が変わった。
「エミリーのことですか?」
「はい」
彼女はしばらく黙っていた。
「事故の後、しばらくしてからです。最初は夢の中で父親に会うと言っていました。よくあることだと思っていたんです。あの子は、父親が大好きでしたから」
「その後は?」
「だんだん、起きているときにも声が聞こえるようになりました。最初は、気のせいだと言っていたんです。でも、ある日、マイケルしか知らないはずのことを話し始めて……」
「例えば?」
「家族で旅行に行ったときのことです。エミリーが小さかった頃、マイケルと二人だけで海へ行ったことがありました。私には話していなかったことを、あの子が話したんです」
サラは、手元の指輪を触った。
「そのとき、私は思ったんです。もしかしたら、本当にマイケルが戻ってきたのかもしれない、と」
ダニエルは、すぐには答えなかった。
「それから、どうなりました?」
「最初は、あの子も喜んでいました。父親と話せると言って。でも、だんだん様子がおかしくなっていったんです。夜中に目を覚まして、誰かと話している。学校にも行きたがらない。父親の声が聞こえないと、ひどく不安になる」
「医師には?」
「相談しました。悲嘆が長引いているのかもしれないと言われました。でも、あの子は、父親が死んだことを理解しているんです。お墓にも行きますし、命日には花も供えます」
サラは目を伏せた。
「私は、どうすればいいのかわかりませんでした。父親を忘れなさいと言うこともできない。でも、あの子が声を聞くたびに、少しずつ遠くへ行ってしまうような気がして……」
彼女の声が震えた。
「だから、悪魔祓いを頼んだんです。あの子を助けたかった。ただ、それだけなんです」
ダニエルは、彼女を責めなかった。
「わかっています」
「本当に?」
「あなたは、娘さんを救おうとした。それは間違っていません」
サラは顔を上げた。
ダニエルは、手帳をテーブルに置いた。
「ただ、これからは、父親のことを話す必要があるかもしれません。娘さんが何を経験しているのかを理解するためにも」
「でも、あの子は……」
「父親のことを話すのがつらいのは、あなたも同じでしょう」
サラは何も言わなかった。
「忘れる必要はありません。思い出すことと、そこに閉じ込められることは違います」
ダニエルはそう言って、手帳を再び開いた。
最後のページに、短い文章が書かれていた。
――彼女を守ってくれ。
その下に、何度も同じ言葉が繰り返されている。
彼女を守ってくれ。
彼女を守ってくれ。
彼女を守ってくれ。
ダニエルは、その文章をじっと見つめた。
誰に向けた言葉なのかはわからない。
神に祈ったのか。誰かに助けを求めたのか。それとも、何かに命令したのか。
彼は手帳を閉じた。
「事故の記録を調べます。何かわかったら、また連絡します」
サラは頷いた。
ダニエルは立ち上がり、玄関へ向かった。
ドアを開ける直前、彼は振り返った。
「一つだけ、お願いがあります」
「何でしょう?」
「娘さんが目を覚ましたら、父親の話を聞いてあげてください。どんな話でも、途中で止めずに」
サラは、しばらく彼を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「わかりました」
ダニエルは家を出た。
車に乗り込み、手帳の内容を頭の中で整理する。
マイケルは、事故の前に何かを見ていた。
エミリーは、父親の死後に声を聞くようになった。
そして、彼女は今、意識を失っている。
偶然にしては、つながりすぎていた。
ダニエルはエンジンをかけた。
次に調べるべきなのは、マイケルが死んだ夜のことだった。




