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第五章 悪魔の知っていること

 午後一時四十分。ダウンタウンのカフェは、昼食を終えた客たちが帰り始める時間だった。


 窓際の席には、濡れた傘が何本も立てかけられている。コーヒーの匂いと、焼きたてのパンの匂いが混ざり合い、店内には低い話し声が漂っていた。


 ダニエルは奥の席に座り、携帯電話を見つめていた。


 ルシアンに電話をかけたのは、これで三回目だった。


 一度目は出なかった。二度目は留守番電話につながった。三度目に、ようやく返事が来た。


 ――カフェにいる。来るなら、何か食べるものを持ってきてくれ。


 ダニエルは返信しなかった。


 代わりに、店員にブラックコーヒーを注文した。


 五分後、ルシアンが現れた。


 彼はいつものように、周囲の人間から浮かない服装をしていた。濃い色のジャケットに、白いシャツ。髪は整えられ、靴には雨の跡もない。


「昼食は?」


 ルシアンが尋ねた。


「食べていない」


「それはよくない」


「お前のせいだ」


「私が君の昼食を奪った覚えはない」


「昨日、俺の食料を食べた」


「それは夕食だろう」


 ダニエルは目を閉じた。


「座れ」


 ルシアンは向かいの席に腰を下ろした。


 店員が水を運んでくる。ルシアンは礼を言い、グラスを手に取った。


「それで、何があった?」


 ダニエルは、昨夜の悪魔祓いと、今朝のエミリーの状態について説明した。教会で見つけた過去の記録についても話した。


 ルシアンは口を挟まずに聞いていた。


 話し終えると、ダニエルはコーヒーを飲んだ。


「お前は、こういう事例を知っているか?」


 ルシアンは少し考えた。


「似たような話なら、聞いたことがある」


「どんな話だ?」


「死者を失った人間が、その声を聞く。最初は夢の中だけだったものが、やがて現実にまで入り込んでくる。本人は、死者が戻ってきたと思い込む」


「それは、幻覚じゃないのか?」


「そういう場合もある」


「今回は違う」


「君は、そう考えているんだな」


 ダニエルは頷いた。


「少女の部屋に、黒い染みが残っていた。過去の事件でも同じような痕跡があった。しかも、悪魔祓いの後に症状が悪化している」


「興味深い」


「興味深いで済ませるな」


「では、何と言えばいい?」


「何か知っているなら、話せ」


 ルシアンは水を飲んだ。


「悪魔が人間の悲しみにつけ込むことは、君も知っているだろう」


「知っている」


「だが、悲しみそのものが、何かを引き寄せることもある」


 ダニエルは黙っていた。


「人間の記憶は、単なる過去の記録ではない。君たちは、失った人間を思い出すことで、その人間を今も存在しているかのように感じることがある」


「それは普通のことだ」


「そうだ。普通のことだ」


 ルシアンは、窓の外を見た。


「だが、時には、その感覚が人間の内側だけで完結しないこともある」


 ダニエルは身を乗り出した。


「どういう意味だ?」


「人間が何かを強く求めるとき、その願いに反応するものがいる。必ずしも悪魔とは限らない。君たちは、理解できないものをすべて悪魔と呼びたがるが、世界は君たちの分類表に従ってできているわけではない」


「お前は、何を知っている?」


「私は、そういう現象が存在する可能性を知っている。それだけだ」


「可能性?」


「今回の少女の中に何がいるのか、私にはわからない。君が話した内容だけでは、断定できない」


 ダニエルは、ルシアンの顔を見た。


 嘘をついているようには見えなかった。少なくとも、意図的に何かを隠しているという確信は持てない。


「昨夜、なぜ祓魔の結果を気にした?」


 ルシアンは目を戻した。


「何のことだ?」


「悪魔を追い払ったと話したとき、お前は妙な反応をした。まるで、それで何かが終わったかどうかを確かめているようだった」


 ルシアンはしばらく黙っていた。


「私は、悪魔が去った後にも何かが残る可能性を疑っていた」


「なぜ、俺に言わなかった?」


「確証がなかったからだ」


「可能性だけでも伝えるべきだった」


「君は、根拠のない警告を好まない」


「それでもだ」


「君は、すべてを疑い始めるだろう。壁の染み、患者の言葉、家族の証言。何もかもが別の意味を持って見えるようになる」


 ダニエルは反論しようとしたが、言葉が出なかった。


 それは、確かに自分がやることだった。


 彼は一度疑い始めると、何もかもを調べずにはいられなくなる。時には、それが正しい判断につながる。時には、必要のないものまで疑ってしまう。


「お前は、俺が自分で気づくべきだと思ったのか?」


「そういうわけではない」


「では、何だ」


 ルシアンは少しだけ笑った。


「君が助けを求める前に、私が答えを与える必要はないと思った」


「ずいぶん親切な考え方だな」


「君は、自分で考えることを好む」


「それと、情報を隠すことは違う」


「その通りだ」


 ルシアンは、あっさりと認めた。


「だから、次からはもう少し早く話すことにしよう」


 ダニエルは、その返事に何も言わなかった。


 店員が注文したコーヒーを運んできた。ルシアンは礼を言い、カップを手に取る。


「一つ聞きたいことがある」


 ダニエルが言った。


「何だ?」


「人間の記憶を模倣する存在がいるとしたら、そいつは何を目的にしている?」


 ルシアンはカップを置いた。


「目的があるとは限らない」


「何も考えずに、人間を苦しめるのか?」


「苦しめていると認識していないのかもしれない。君たちは、他の生き物が人間と同じように考えていると期待しすぎる」


「お前も、他の生き物の一種だろう」


「私は、少なくとも君の話を聞いている」


「聞いているだけだ」


「それでも、君よりは礼儀正しい」


 ダニエルは鼻で笑った。


 ルシアンはコーヒーを飲み、窓の外へ視線を向けた。


「人間は、理解できないものに名前をつけると安心する」


 ダニエルは、その言葉を頭の中で繰り返した。


「悪魔。霊。呪い。憑依。そういう名前をつければ、何が起きているのかを理解した気になる」


「名前をつけることが悪いとは思わない」


「悪くはない。ただ、それで理解したつもりになるのは危険だ」


 ダニエルは、教会で読んだ手紙を思い出した。


 すべての異常を悪魔の仕業と決めつけるのは、信仰ではなく怠慢だ。


「お前は、そいつに名前をつけられるか?」


 ルシアンは首を振った。


「今の情報では無理だ」


「そうか」


「だが、君が調べるべきことはわかる」


「何だ?」


「少女が何を失ったのか。そして、何を失いたくないと思っているのか」


 ダニエルは、しばらく黙っていた。


 エミリーは父親を失った。


 そして、父親の声を聞き続けていた。


 それが単なる悲しみなのか、何か別のものを引き寄せているのか。


 彼は、まだ答えを持っていなかった。


「ありがとう」


 ダニエルが言うと、ルシアンは少し驚いたように目を上げた。


「珍しいな」


「何が?」


「君が礼を言うことだ」


「今のうちに感謝しておけ。次はないかもしれない」


「その言葉は、昨日も聞いた」


 ダニエルは立ち上がった。


「俺はカーター家に戻る。父親のことを調べる必要がある」


「そうするといい」


「お前は?」


「私は、もう少しここにいる」


「何をする?」


「コーヒーを飲む」


「それだけか?」


「それ以上に、何をする必要がある?」


 ダニエルは首を振り、店を出た。


 外では、雨が止んでいた。


 雲の切れ間から薄い日差しが差し込み、濡れた道路を照らしている。


 彼は車に乗り込み、エンジンをかけた。


 少女が何を失ったのか。


 何を失いたくないと思っているのか。


 その答えを知るためには、父親の死について調べる必要があった。

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