第四章 悪魔が残したもの
聖アグネス教会は、ダウンタウンの北側にあった。
建物は百年以上前に建てられたもので、外壁には黒ずんだ石が使われている。尖塔の時計は数分遅れており、正面の階段には雨水が溜まっていた。
ダニエルが最後にここを訪れたのは、二か月前だった。
教会の扉を開けると、蝋燭と古い木材の匂いがした。礼拝堂には数人の信者が座っていたが、ダニエルに気づく者はいなかった。
彼は奥の事務室へ向かった。
マーティン神父は、机の上に書類を広げていた。白髪交じりの髪を短く刈り、丸い眼鏡をかけている。六十代半ばの男だが、声にはまだ力があった。
「君が朝から来るとは、相当なことだな」
「昨日の夜から、あまり寝ていない」
「それは見ればわかる」
マーティンは椅子から立ち上がった。
「コーヒーは?」
「いらない。先に資料を見せてくれ」
「相変わらずだ」
彼は机の上の書類をまとめ、ダニエルを地下へ案内した。
階段を下りると、空気が冷たくなった。地下の資料室には、金属製の棚が並んでいる。棚には、古い祈祷書、手書きの報告書、新聞記事の切り抜きなどが収められていた。
マーティンは一番奥の棚から、灰色のファイルを取り出した。
「これだ。事件が起きたのは、今から四十年ほど前だ」
ファイルを開く。
最初のページには、タイプライターで打たれた報告書が挟まっていた。紙は黄ばんでおり、角が擦り切れている。
事件の発端は、郊外に住む八歳の少年だった。
少年は母親の死後、夜になると誰かと話すようになった。家族は最初、悲しみのせいだと考えていたが、少年は次第に食事を拒み、眠らなくなった。
地元の司祭が呼ばれ、悪魔祓いが行われた。
儀式の最中、少年は激しく暴れ、司祭の腕に噛みついた。数時間後、悪魔らしき存在は身体から離れたと報告されている。
しかし、少年は目を覚まさなくなった。
その後、同じ地域で似た症状を示す子供が三人見つかった。全員が、身近な人間を亡くしていた。
「四人全員が、同じような症状だったのか?」
ダニエルが尋ねた。
「細かい違いはある。だが、共通していたのは、悪魔祓いの後に意識を失ったことだ」
「その後は?」
「三人は回復した。一人は、昏睡状態のまま亡くなった」
ダニエルは報告書を読み進めた。
担当司祭の記録には、悪魔が去った後にも異常な現象が続いたと書かれていた。患者の部屋に黒い染みが現れ、家族の声が聞こえ、誰もいない場所から物音がしたという。
ダニエルはページを戻した。
「黒い染み?」
「何か思い当たることがあるのか?」
「昨日、悪魔祓いをした部屋に残っていた」
マーティンは眼鏡を外した。
「それは、最初からあったのか?」
「いや。儀式の後に気づいた」
「なら、記録と一致する可能性はある」
ダニエルは、報告書の末尾に挟まれた手紙を見つけた。
手書きの文字は乱れていた。筆圧が強く、ところどころインクが滲んでいる。
手紙の最後には、短い一文が記されていた。
――悪魔は去った。しかし、子供たちはまだ誰かを待っている。
ダニエルは、その文章を二度読んだ。
「誰かを待っている、か」
「当時の司祭は、患者たちが亡くなった家族を求めているのだと考えたらしい」
「それで、どうした?」
「さらに悪魔祓いを行った。だが、症状は改善しなかった。結局、事件は原因不明として処理された」
ダニエルはファイルを閉じた。
彼の頭の中で、昨夜の出来事が再びつながり始めた。
悪魔は去った。
それでも、少女は意識を失った。
部屋には黒い染みが残っていた。
そして、少女は「あの人が来る」と言った。
「他に記録はないのか?」
「ある。だが、ここから先は少し厄介だ」
マーティンは別の棚を開けた。
「当時の担当司祭は、事件の後、教区を離れた。彼が残した資料の一部は別の場所に保管されていたが、数年前に整理されて、こちらへ移された」
彼は薄い封筒を取り出した。
中には、数枚の手紙と、新聞記事の切り抜きが入っていた。
ダニエルは一枚ずつ目を通した。
新聞記事には、子供たちの昏睡事件について短く記されていた。警察は犯罪の可能性を否定し、医師たちは原因を特定できなかった。教会が悪魔祓いを行ったことは報じられていない。
手紙には、担当司祭が事件の後に書いたと思われる文章が残っていた。
――彼らは、死者の声を聞いているのではない。死者の声を必要としているのだ。
ダニエルは手紙を机に置いた。
「これは、どういう意味だと思う?」
「私にはわからない」
マーティンは正直に答えた。
「当時の司祭も、最後まで理解できなかったのだろう」
「それでも、彼は何かを見ていた」
「そうかもしれない」
ダニエルは、手紙の続きに目を落とした。
――悪魔は人間の弱さを利用する。しかし、すべての異常を悪魔の仕業と決めつけるのは、信仰ではなく怠慢だ。
彼は顔を上げた。
「この事件の記録は、どこまで残っている?」
「これがほぼすべてだ。患者の名前と、当時の司祭の報告書。詳しい医療記録は残っていない」
「家族の証言は?」
「一部だけだ」
マーティンは、ファイルの最後に挟まれた紙を指した。
「生存者の一人が、目を覚ました後に話した内容が記録されている」
ダニエルはその紙を取り出した。
そこには、短い証言が書かれていた。
――母の声が聞こえた。母が私を呼んでいた。でも、母はそこにいなかった。
――私は、母が死んだことを知っていた。それでも、声が聞こえると、そこへ行かなければならないと思った。
――あれは母ではなかった。
ダニエルは紙を見つめた。
その証言は、昨夜のエミリーの様子と重なっていた。
彼女は父親を求めていた。父親の声を聞いていた。そして、何かが来ると言った。
しかし、父親本人が戻ってきたわけではない。
ダニエルは、資料を机の上に戻した。
「マーティン。今回の少女の父親について調べたい」
「父親?」
「二年前に交通事故で亡くなったらしい。事故の前に、何か異常な体験をしていた可能性がある」
マーティンは考え込んだ。
「名前は?」
「マイケル・カーター」
マーティンの表情が変わった。
「カーター?」
「知っているのか?」
「いや、名前を見たことがある気がする」
彼は棚の奥から別のファイルを取り出した。
「数年前、教会に相談に来た男性がいた。家族のことで悩んでいたらしい。正確な記録は覚えていないが……」
マーティンはファイルを開き、ページをめくった。
やがて、指が止まった。
「これだ」
そこには、マイケル・カーターの名前が記されていた。
相談内容は、家族の安全に関するものだった。具体的な記述は少なく、担当者の署名もなかった。ただ、相談日が事故の数週間前であることは確認できた。
ダニエルは、その記録をじっと見つめた。
「何を相談したのか、わかるか?」
「詳しい内容は残っていない。ただ、彼は何かに怯えていたようだ」
「それは、誰かに話していたのか?」
「わからない。記録が不十分なんだ」
ダニエルはファイルを閉じた。
少女の父親は、死ぬ前に何かを見ていた。
そして、その何かが、娘の中に残っているのかもしれない。
まだ確証はない。
だが、今までの情報をつなげると、そう考えるのが自然だった。
「マーティン、助かった」
「君は、これからどうするつもりだ?」
「本人の家族に話を聞く。父親が何を見たのか、何を恐れていたのかを調べる」
「気をつけろ、ダニエル」
マーティンの声が低くなった。
「君が扱っているものが、悪魔ではない可能性があるなら、なおさらだ」
ダニエルは頷いた。
「わかっている」
資料室を出る前に、彼はもう一度、古い手紙を見た。
悪魔は去った。しかし、子供たちはまだ誰かを待っている。
その言葉が、頭から離れなかった。




