第三章 彼女は誰を待っているのか
電話の音で、ダニエルは目を覚ました。
最初は、夢の中で鳴っているのかと思った。枕元の時計は午前七時二十三分を示している。カーテンの隙間から、薄い灰色の光が差し込んでいた。
電話は鳴り続けた。
ダニエルは手を伸ばし、受話器を取った。
「クロスだ」
「クロスさん、お願いです。起きてください」
サラ・カーターの声だった。
その声を聞いた瞬間、ダニエルの眠気は消えた。
「何があった?」
「エミリーが……娘が、目を覚まさないんです」
ダニエルはベッドから起き上がった。
「いつからだ?」
「今朝です。起こそうとしたんですけど、反応がなくて。呼吸はしています。でも、目を開けないんです」
「救急車は?」
「呼びました。でも、まだ……」
「もう一度言います。救急車を呼んでください。まだなら、今すぐです」
「はい。呼びました」
「わかった。俺も行きます」
電話を切る。
ダニエルは顔を洗い、シャツを着替えた。祈祷書と聖水を革鞄に入れる。昨日の仕事が終わったとき、彼は確かにそう判断した。
しかし、少女が意識を失ったというのなら、話は別だった。
車を走らせながら、彼は昨日の寝室を思い出していた。
悪魔祓いは成功した。憑依した存在は少女の身体から離れた。少なくとも、あの場にいた限りでは、疑う余地はなかった。
それなのに、なぜ。
カーター家に到着すると、救急車はまだ来ていなかった。サラが玄関のドアを開け、彼を中へ招き入れる。
「こちらです」
彼女の顔は青ざめていた。
ダニエルは階段を駆け上がった。
寝室には、エミリーがベッドに横たわっていた。昨夜の荒れた室内は片づけられていたが、壁の傷や壊れた家具はそのままだった。
少女の顔は白い。目を閉じ、静かに呼吸している。
ダニエルはベッドの横に膝をついた。
「エミリー。聞こえるか?」
反応はない。
彼は首筋に指を当て、脈を確認した。脈拍は安定している。呼吸も乱れていない。だが、呼びかけに対する反応がまったくなかった。
「昨夜は、普通に話せていたんですね?」
「はい。私と話して、泣いて……それから眠ったんです。朝になっても起きないから、声をかけたんですけど」
「何か変わったことは?」
サラは首を振った。
「わかりません。ただ、目を覚ます少し前に……」
彼女は言葉を切った。
「何か聞こえたんですか?」
「娘が、何かを言ったんです。寝言だと思いました。でも……」
「何と言ったんです?」
サラは唇を噛んだ。
「『あの人が来る』と」
ダニエルは顔を上げた。
「誰が来る、と?」
「わかりません。娘は目を閉じたまま、そう言ったんです。それから、急に動かなくなって……」
階下から、サイレンの音が聞こえてきた。
ダニエルは立ち上がり、救急隊員が到着するのを待った。
隊員たちはエミリーの状態を確認し、意識レベルを調べた。血圧も脈拍も、すぐに危険と判断されるほどではない。しかし、意識が戻らない以上、病院で検査を受ける必要がある。
サラは娘の手を握ったまま、何度も同じ質問をした。
「大丈夫なんですよね?」
隊員は、検査をしなければわからないと答えた。
ダニエルはその言葉に異議を唱えなかった。医師が調べるべきことは、医師に任せる。悪魔祓いができるからといって、すべての症状を超常現象のせいにするのは、仕事の放棄に等しかった。
エミリーが担架に乗せられる直前、彼女の瞼が動いた。
ダニエルはベッドの横へ戻った。
「エミリー?」
少女の目が、わずかに開いた。
焦点の合わない瞳が、天井を見つめている。
「聞こえるか?」
彼女の唇が動いた。
「……あなたじゃない」
ダニエルは身を屈めた。
「何が違う?」
「あなたじゃない人が……来る」
少女の目が閉じた。
それきり、反応は戻らなかった。
救急隊員たちはエミリーを病院へ運んでいった。サラも同行することになり、ダニエルは後から病院へ向かうと伝えた。
玄関に一人残されると、家の中はひどく広く感じられた。
ダニエルは階段を上がり、寝室へ戻った。
昨夜、黒い染みがあった場所を見る。
壁紙の一部が、周囲よりもわずかに暗くなっていた。だが、昨夜ほどはっきりした染みではない。指先で触れると、壁紙は乾いていた。
彼は手を離した。
悪魔は追い払った。
それは確かだ。
では、何が残ったのか。
ダニエルは、昨夜の祈祷を頭の中で再生した。悪魔の反応。少女の身体から立ち上った黒い影。消える直前の声。
お前には救えない。
あれは、悪魔が最後に吐き捨てた言葉だった。
それ自体に特別な意味はない。悪魔は、敗北を認めるよりも、人間を脅して消える方を好む。
だが、あの黒い染みは何だったのか。
彼は寝室を見回した。
壊れた家具。割れた鏡。壁の傷。どれも、昨夜の悪魔祓いで起きたこととして説明できる。
ただ一つ、黒い染みだけが説明できなかった。
ダニエルは携帯電話を取り出し、病院へ向かう前に、マーティン神父へ連絡を入れた。
電話は三回目の呼び出し音でつながった。
「マーティンだ」
「俺だ、ダニエル」
「こんな時間にどうした。誰かが悪魔に取り憑かれたか?」
「昨日、取り憑かれた少女を祓った。今朝、意識を失った」
電話の向こうで、沈黙があった。
「悪魔祓いは成功したのか?」
「成功したと思っている」
「思っている、か」
「確信している。少なくとも、憑依していたものは出ていった」
マーティンは息を吐いた。
「それで、何を調べたい?」
「悪魔祓いの後に、患者が昏睡状態になった事例はあるか?」
「いくつかはある。だが、ほとんどは別の原因があった。薬物、病気、あるいは精神的な問題だ」
「超常現象が原因だった可能性は?」
「君は、それを調べたいのか?」
「そうだ」
また短い沈黙があった。
「古い記録を調べる必要がある。数十年前に、似たような事件があった。複数の子供が意識を失い、何日も目を覚まさなかった」
「悪魔憑きだったのか?」
「当時はそう判断された。だが、記録には妙な証言が残っている」
「どんな?」
「悪魔を追い払った後にも、何かが残っていたという話だ」
ダニエルは、壁の黒い染みを見つめた。
「その記録を見せてくれ」
「今からか?」
「今からだ」
マーティンは呆れたように笑った。
「君は昔から、休むということを知らないな」
「休む時間があるなら、こんな仕事はしていない」
「それは違いない。教会に来い。資料室を開けておく」
電話が切れた。
ダニエルは携帯電話をポケットにしまった。
彼はもう一度、壁の染みを見た。
今度は、そこに触れなかった。




