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第二章 冷蔵庫のチーズ

 ダニエルの家は、街の中心部から少し離れた古い住宅街にあった。


 かつては教会の所有地だったらしい。近所には古い石造りの建物がいくつか残っており、道路は狭く、駐車場も少ない。家そのものは二階建ての小さな一軒家で、外壁の塗装はところどころ剥がれていた。


 ダニエルはその家を気に入っていた。


 家賃が安い。近所の人間は他人に興味がない。何より、壁が厚い。


 悪魔祓いの仕事をしていると、隣人との距離は重要だった。


 車をガレージに入れ、玄関の鍵を開ける。


 中は明るかった。


 リビングの照明がついている。テレビからは、陽気な音楽と、料理番組の司会者が笑う声が聞こえてきた。


 ダニエルは玄関で立ち止まった。


「……おい」


「おかえり」


 ソファに座っていた男が、振り返りもせずに言った。


 ルシアンだった。


 濃紺のシャツに黒いスラックス。髪はきちんと整えられ、靴は玄関で脱いだらしい。片手にはマグカップを持ち、もう片方の手でテレビのリモコンを操作している。


 テーブルには、ダニエルが昨日買ったばかりのチーズが置かれていた。


「何をしている」


「テレビを見ている」


「どうやって入った」


「玄関から」


「鍵はかかっていた」


「そうだったか?」


 ルシアンはようやく振り返った。整った顔に、悪びれた様子はまったくない。


 ダニエルは玄関の鍵を確認した。壊された形跡はない。窓も閉まっている。


「お前、鍵を開けたのか」


「そういうこともある」


「鍵を持っていたのか?」


「持っていない」


「では、どうやって入った」


「その質問はさっきも聞いた」


 ダニエルは目を閉じた。


 長い夜だった。


「冷蔵庫を開けたな」


「開けた」


「俺のチーズを食ったな」


「少し」


「包装が半分なくなっている」


「人間の食料は、思ったより量が少ない」


「お前は悪魔だろう。食わなくても生きていけるはずだ」


「生きていくために食べるとは限らない」


 ルシアンはチーズを一切れつまんだ。


「これは悪くない」


「返せ」


「もう食べた」


「残りをだ」


 ルシアンは、手元のチーズを見た。それからダニエルを見た。


「君は、悪魔祓いの直後に帰宅した男とは思えないほど、食料品への執着が強いな」


「悪魔は追い払えても、食費は戻ってこない」


「人間の世界は厳しい」


「お前が言うな」


 ルシアンは笑った。


 ダニエルはコートを脱ぎ、椅子の背に掛けた。革鞄を床に置き、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けると、チーズ以外にもいくつかの食材が減っていた。


 卵が二個。牛乳が半分。作り置きのスープもなくなっている。


 彼は冷蔵庫の中を見つめた。


「お前、夕食まで食ったのか」


「夕食というのは、時間によって定義されるのか?」


「そういう話じゃない」


「なら、答えはイエスだ」


 ダニエルは冷蔵庫を閉めた。


「次に来るときは、何か持ってこい」


「何を?」


「食料だ」


「私は悪魔だぞ」


「だから何だ」


「人間の食料を持ってくる悪魔がいると思うか?」


「少なくとも、勝手に食う悪魔よりはましだ」


 ルシアンは考え込むような顔をした。


「なるほど。次回は何か持ってこよう」


「次回があることを前提にするな」


「君はいつもそう言う」


「毎回、同じことが起きるからだ」


 ダニエルはコーヒーメーカーのスイッチを入れた。


 その間、ルシアンはテレビを消し、マグカップをテーブルに置いた。画面が暗くなると、リビングは急に静かになった。


「仕事はどうだった?」


 ルシアンが尋ねた。


「いつもどおりだ」


「いつもどおり、というのは?」


「悪魔が人間の身体を使って暴れた。俺が祈った。悪魔が怒った。俺がもう少し祈った。悪魔が出ていった」


「ずいぶん簡単に聞こえる」


「実際はもっと面倒だ」


 コーヒーが落ち始めた。


 ダニエルはカップを取り出し、ブラックのまま注いだ。ひと口飲む。苦みが舌に広がった。


「少女だった」


「少女?」


「十六歳。母親が依頼してきた。数週間前から様子がおかしかったらしい」


 ルシアンは黙って聞いていた。


「憑依そのものは、珍しいものじゃなかった。本人の記憶を使って揺さぶってくる。よくある手口だ」


「よくある手口、ね」


「何だ」


「いや。君がそう判断したのなら、それでいい」


 その言い方が、わずかに引っかかった。


 ダニエルはカップを置いた。


「何か言いたいことがあるのか?」


「特には」


「なら、妙な顔をするな」


「私の顔は生まれつきこうだ」


「悪魔の生まれつきなんて、知りたくもない」


 ルシアンは肩をすくめた。


 しばらく、二人は黙っていた。


 窓の外では雨が降り続いている。時計の針が進む音が、静かな部屋に聞こえた。


「その少女は、今どうしている?」


 ルシアンが尋ねた。


「母親と一緒にいる。悪魔は追い払った」


「そうか」


 ルシアンは短く答えた。


 それから、マグカップを手に取った。


「それなら、よかった」


 ダニエルは彼を見た。


 今の返事には、何かがあった。


 単に安堵したというより、確かめていたことが確認できたような口調だった。


「何がよかったんだ?」


「少女が助かったことだ」


「まだ助かったと決まったわけじゃない」


「君は、悪魔を追い払ったと言った」


「悪魔は追い払った。だが、治療が必要かもしれない。憑依の後遺症は珍しくない」


「なるほど」


 ルシアンはコーヒーを飲んだ。


 ダニエルは、その横顔をしばらく見つめた。


「お前、何か知っているのか?」


「何について?」


「今の質問だ」


「君の仕事について、興味を持ってはいけないのか?」


「お前が俺の仕事に興味を持つときは、大抵ろくなことがない」


「失礼な評価だ」


「事実だ」


 ルシアンは微笑んだ。


「君は疲れている。今夜は休むべきだ」


「話を逸らすな」


「逸らしていない。君の健康を気遣っている」


「悪魔に健康を気遣われる人間が、世界に何人いると思う?」


「少なくとも一人はいる」


 ダニエルは返事をしなかった。


 ルシアンは立ち上がり、マグカップをキッチンへ持っていった。蛇口をひねり、カップを洗い、布巾で水気を拭き取る。


 その行儀のよさが、かえって腹立たしかった。


「帰るのか?」


「もう遅い」


「最初から帰れ」


「君は客に対する態度を学ぶべきだな」


「客は普通、勝手に家に入らない」


「私は普通の客ではない」


「それは知っている」


 ルシアンは玄関へ向かった。


 靴を履き、ドアノブに手をかける。そこで、ふと思い出したように振り返った。


「そういえば、君は最近、よく眠れているか?」


 ダニエルは眉を寄せた。


「何だ、急に」


「質問しただけだ」


「眠れている」


「そうか。それならいい」


 ルシアンはドアを開けた。


「おやすみ、ダニエル」


「二度と勝手に入るな」


「努力はする」


「努力じゃなくて、約束しろ」


 ルシアンは笑い、雨の中へ出ていった。


 ドアが閉まる。


 ダニエルはしばらく玄関に立っていた。


 それから鍵をかけ、念のため、もう一度確認した。


 キッチンへ戻り、照明を消す。寝室に入る前に、時計を見た。


 午前一時三十八分。


 明日は報告書を書く必要がある。教会にも顔を出さなければならない。車の修理代も払わなければならない。


 人間の生活は、悪魔を追い払ったところで終わらない。


 ダニエルはベッドに横たわった。


 目を閉じると、エミリーの声が浮かんだ。


 助けて。


 彼は寝返りを打った。


 少女は助かった。悪魔は消えた。母親もそばにいる。


 それ以上、考える必要はなかった。


 ダニエルはそう自分に言い聞かせ、眠りについた。

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