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第一章 午前0時17分

 午前零時十七分。雨は、カーター家の屋根を叩き続けていた。


 郊外の住宅街は眠っていた。濡れたアスファルトに街灯の光が滲み、並んだ家々の窓はほとんど暗い。通りの向こうでは、風に揺れる街路樹が枝を擦り合わせている。どこかの家で犬が一度だけ吠え、それきり静かになった。


 ダニエル・クロスは、玄関前に車を停めたまま、ワイパーの動きを眺めていた。


 依頼を受けたのは三時間前だった。


 電話をかけてきた女は、最初、自分の娘が精神的に不安定なのだと言った。医者にも相談した。薬も処方された。それでも症状は悪化している。娘が夜中に叫ぶようになり、部屋の家具を動かし、誰もいない場所に向かって話しかけるようになった。


 そして今夜、娘が自分の首を絞め始めた。


 そこまで話したところで、女はようやく悪魔という言葉を口にした。


 ダニエルは、ダッシュボードの上に置いた古い革鞄を手に取った。中には祈祷書、聖水の小瓶、銀製の十字架、それから仕事には直接関係のない鎮痛剤が入っている。最後のものが、ここ数年で最も頻繁に使われていた。


 彼は車を降りた。


 雨がコートの肩を濡らす。玄関までの短い道を歩き、呼び鈴を押した。しばらくして、ドアが開いた。


 女は三十代の終わりくらいに見えた。髪は後ろで雑に束ねられ、目の下には濃い隈がある。何日もまともに眠っていない顔だった。


「クロスさん?」


「そうです。サラ・カーターさんですね」


「来てくださって、ありがとうございます」


 サラは彼を家の中へ招き入れた。礼を言う声には安堵があったが、その奥にあるものは恐怖だった。誰かが来てくれたことに安心している一方で、これから何を見せることになるのかを恐れている。


 ダニエルは、そういう顔を何度も見てきた。


「娘さんは?」


「二階です。寝室にいます。今は……静かなんです」


「静かなら、いいことじゃありませんか」


 サラは彼を見た。


 ダニエルはコートの水滴を手で払った。


「すみません。職業病です。静かすぎる家には、だいたい何かあります」


 笑うべき場面ではなかった。サラも笑わなかった。


 玄関ホールには、家族写真が飾られていた。若い夫婦と、小さな女の子。海辺で撮影されたらしく、三人とも眩しそうに笑っている。写真の男は明るい茶色の髪をしていて、娘の肩に手を回していた。


 その写真の下には、小さな木製の十字架が置かれていた。


 ダニエルはそれを一瞥し、家の中へ視線を戻した。


「ご主人は?」


 サラの表情が固まった。


「二年前に亡くなりました。交通事故です」


「失礼しました」


「いいえ。大丈夫です」


 大丈夫だと言う人間が本当に大丈夫だった試しは、あまりない。もっとも、ダニエル自身も、何かを聞かれたときには同じ返事を使うことがあった。


 サラは廊下の奥へ歩き始めた。


「娘はエミリーといいます。十六歳です。あの子は、ずっと父親の死を受け入れられなくて……でも、こんなことになるなんて」


 階段を上がるにつれて、家の中の空気が変わっていった。


 暖房は入っているはずなのに、二階は妙に冷えていた。壁紙の端が剥がれ、廊下の床には何かを引きずったような傷がついている。壁に掛けられた家族写真の一枚は、ガラスが割れていた。


 ダニエルは足を止めた。


「この傷は?」


「エミリーが……家具を動かしたときに」


「家具を?」


「一人では動かせないようなものまで。ベッドも、タンスも。最初は、あの子が怒っているのだと思いました。でも、あの子はそんな子じゃありません」


 ダニエルは傷の上に指を滑らせた。


 木材の表面が深く抉れている。爪で引っかいた程度ではない。工具を使ったような傷でもなかった。


 彼は何も言わず、階段を上がりきった。


 廊下の突き当たりに、白いドアがあった。


 ドアの向こうから、何かを擦る音が聞こえた。


 サラが息を呑む。


「エミリー?」


 返事はなかった。


 代わりに、低い声が聞こえた。


「帰って」


 少女の声だった。


 しかし、ひどく低い。喉の奥に別の人間の声が重なっているように聞こえた。


 サラがドアノブに手を伸ばす。


「エミリー、お願い。クロスさんが来てくれたのよ」


「帰って!」


 今度は廊下の壁が震えた。


 サラの手が止まる。


 ダニエルは彼女の前に立った。


「ここから先は、俺がやります。あなたは一階にいてください」


「でも……」


「何が起きても、呼ぶまで入ってこないでください。娘さんを助けるためです」


 サラは何かを言いかけたが、やがて小さく頷いた。


 ダニエルは革鞄を床に置き、祈祷書を取り出した。表紙は擦り切れ、背表紙の縫い目が一部ほつれている。長年使い込まれた本だった。


 彼はドアノブを握った。


 金属が、氷のように冷たかった。


 扉を開ける。


 寝室の中央にはベッドがあり、その上に少女が横たわっていた。エミリー・カーター。細い腕を身体の横に伸ばし、目を閉じている。


 部屋は荒れていた。


 机は横倒しになり、椅子の脚が一本折れている。壁には引っかき傷がいくつも走り、床には割れた鏡の破片が散らばっていた。窓は内側から曇り、カーテンは風もないのにゆっくりと揺れている。


 壁に掛けられていた十字架は、床に落ちていた。


 ダニエルは部屋へ入り、ドアを閉めた。


 少女の目が開いた。


 瞳は濁った灰色をしていた。照明の下でも、光をほとんど反射していない。


「ダニエル・クロス」


 少女が言った。


 ダニエルは足を止めた。


「俺の名前を知っているのか」


「知っている」


 声は少女のものだった。だが、その言い方には、年齢も性別も感じられない冷たさがあった。


「お前のことは聞いている。教会を捨てた男。神の名を使って、汚れた仕事をする男」


「紹介してくれた人間の趣味が悪いな」


 少女の口元が歪んだ。


「お前は神を信じていない」


「信じているさ」


 ダニエルは祈祷書を開いた。


「ただ、神が俺の仕事を気に入っているかどうかは知らない」


 少女が笑った。


 その笑い声は、寝室の壁を伝って広がった。小さな部屋の中で、何人もの人間が同時に笑っているように聞こえる。


 ダニエルは、ベッドの足元で立ち止まった。


 少女の呼吸は浅かった。手首には赤い痕があり、首元にも皮膚が擦れた跡が見える。昨夜までなら、彼女は普通の十六歳だったはずだ。今、その身体の中にいるものは、少女の年齢も、痛みも、恐怖も理解していない。


「エミリー」


 ダニエルは呼びかけた。


「俺の声が聞こえるなら、目を閉じていろ。何が聞こえても、俺の声だけを聞け」


 少女の表情が変わった。


「この子はお前を望んでいない」


「何を知っている?」


「お前は、この子の中にいるものじゃない」


「この子は私を望んでいる」


 少女の身体が、ゆっくりと起き上がった。


 その動きは不自然だった。背中の筋肉が動いていないように見える。見えない糸で吊り上げられた人形のように、上半身だけが垂直に立ち上がった。


「この子は、私を呼んだ」


「誰を呼んだ?」


「私を」


 少女は首を傾けた。


 骨が軋むような音がした。


「お前にはわからない。お前は、誰かを失ったことがない」


 ダニエルの手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 少女の口元が、さらに深く歪む。


「失ったことがある。だが、お前は忘れたふりをしている」


 ダニエルは祈祷書を閉じなかった。


 こういうことを言う存在は珍しくない。人間の記憶を覗き、傷を探し、そこを突いてくる。悪魔が人間の弱さを利用する方法は、昔から驚くほど単純だった。


「お前は誰だ」


「お前が追い払うものだ」


「それは職業上の分類であって、名前じゃない」


 少女の顔が、急に無表情になった。


「私は、ここにいる」


 部屋の照明が明滅した。


 ダニエルは聖水の小瓶を取り出し、栓を開けた。


「それなら、出ていってもらおう」


 少女が叫んだ。


 声は、寝室の窓ガラスを震わせた。カーテンが大きく膨らみ、床の破片が一斉に跳ね上がる。ベッドが壁際へ滑り、木製の脚が床を削った。


 ダニエルは目を細め、祈りを始めた。


 言葉は静かだった。声を張り上げる必要はない。祈りは怒鳴り声の競争ではなかったし、神が大声の人間を優遇するという話も聞いたことがなかった。


 少女は両手で耳を塞いだ。


「やめろ!」


「お前の声は聞こえている」


「やめろ!」


「だが、聞く必要はない」


 ダニエルは祈りを続けた。


 聖水を少女の額に振りかける。


 少女の身体が跳ねた。


 皮膚の下で何かが動いたように、首筋から頬にかけて黒い筋が浮かび上がる。少女は歯を剥き出しにし、ベッドの上で身体を捩った。


「この子は私を必要としている!」


「違う」


「この子は一人だ!」


「違う」


「誰もこの子を守らない!」


「お前が守っているつもりなのか?」


 ダニエルは一歩踏み出した。


「それとも、守るものがなければ、お前がここにいられないだけか?」


 少女の顔から笑みが消えた。


 次の瞬間、彼女はベッドから飛び降りた。


 人間の動きではなかった。


 少女の身体は床に触れる寸前で向きを変え、四肢を使って壁を駆け上がった。天井近くで身体を折り曲げ、頭を下にしてダニエルを見下ろす。


 その瞳の奥で、何かが光った。


 ダニエルは十字架を掲げた。


「主の名において命じる。お前はこの身体から離れろ」


 少女が歯を鳴らした。


「神などいない」


「それなら、恐れる必要もないだろう」


 少女の身体が天井から落ちた。


 ダニエルは横へ身を投げた。少女は床に着地し、そのまま四つん這いで彼に向かってきた。指先が床板を掻き、爪が割れる音がした。


 ダニエルは後退しながら祈りを続けた。


 少女の口から、複数の声が漏れ始めた。


 男の声。女の声。老人の声。そして、最後に、幼い少女の声。


「助けて」


 ダニエルの足が止まった。


 その声は、今までとは違っていた。


 エミリー自身の声だった。


 彼は少女の目を見た。濁った灰色の瞳の奥に、一瞬だけ、別の光が戻っていた。


「エミリー?」


 少女の唇が震えた。


「助けて……」


 ダニエルは十字架を下ろさなかった。


「聞こえている。俺がいる」


 少女の身体が激しく痙攣した。


 次の瞬間、喉の奥から、獣の唸り声のような音が響いた。


「この子は私のものだ!」


「違う」


 ダニエルは、はっきりと言った。


「この子は誰のものでもない」


 祈りの言葉が、静かな部屋に響いた。


 少女の身体から、黒い煙のようなものが立ち上った。煙は人間の形を取ろうとしながら、何度も崩れた。顔のようなものが浮かび、口が開く。そこから、聞き取れない言葉が漏れた。


 ダニエルは最後の祈りを唱えた。


 黒い影が、少女の身体から引き剥がされた。


 それは部屋の中央で一度だけ膨張し、天井まで届くほどに伸びた。壁に掛けられた写真が揺れ、窓ガラスに細い亀裂が走る。


 影は、ダニエルの方を向いた。


「お前には救えない」


 ダニエルは十字架を掲げたまま答えた。


「それもよく聞く台詞だ」


 影が叫んだ。


 音は聞こえなかった。


 ただ、部屋の中の空気が一瞬で押し潰されたように感じられた。ダニエルの耳が痛み、視界が白く弾ける。


 次の瞬間、影は消えた。


 床に落ちていた十字架が、乾いた音を立てた。


 部屋は静かになった。


 ダニエルは数秒間、その場から動かなかった。呼吸を整え、周囲の気配を確かめる。異常な冷気は薄れ、窓の曇りも消え始めていた。


 エミリーは床に横たわっていた。


 ダニエルは膝をつき、少女の首筋に指を当てた。脈はある。呼吸もしている。


「エミリー。聞こえるか?」


 少女の瞼が震えた。


 ゆっくりと目が開く。


 今度の瞳は、普通の茶色だった。


「……お父さん?」


 少女は掠れた声で呟いた。


 ダニエルは答えなかった。


 彼女は天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。それから、何かを思い出したように顔を歪めた。


「お父さん、どこ?」


「ここにはいない」


 ダニエルは、できるだけ静かな声で答えた。


「今は、お母さんを呼ぼう」


 少女の目から涙が流れた。


 ダニエルはドアへ向かい、廊下にいるサラを呼んだ。


 サラは駆け込んできて、床に座り込むと娘を抱きしめた。エミリーは母親の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。


 ダニエルは二人から少し離れた場所に立ち、祈祷書を閉じた。


「もう大丈夫なんですか?」


 サラが顔を上げた。


 ダニエルは、すぐには答えなかった。


「今夜は終わりました。ただ、しばらくは様子を見てください。体調に異変があれば、すぐに医師に診せること。俺にも連絡してください」


 サラは何度も頷いた。


「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」


 ダニエルは軽く頷き、床に落ちた革鞄を拾い上げた。


 仕事は終わった。


 少なくとも、彼はそう判断した。


 階段を下りる途中、ダニエルはふと足を止めた。


 寝室のドアは開いたままだった。部屋の中から、サラが娘に何かを囁く声が聞こえてくる。泣き声はまだ続いていたが、先ほどまでの異常な気配は消えていた。


 それでも、ダニエルは振り返った。


 床に散らばった鏡の破片。その向こうにある壁の隅。


 黒い染みが残っていた。


 手のひらほどの大きさだった。煤を擦りつけたようにも見えるが、輪郭は妙に滑らかで、壁紙の表面に浮かび上がっているようだった。


 ダニエルは階段を戻り、しゃがみ込んだ。


 指先で触れる。


 冷たかった。


 ただの染みなら、ここまで冷たくはならない。


 彼はしばらくそれを見つめた。悪魔が去った場所に痕跡が残ること自体は珍しくない。だが、今まで見てきたものとは何かが違っていた。


「クロスさん?」


 背後からサラの声がした。


 ダニエルは立ち上がった。


「何でもありません。壁の傷です」


 そう答え、彼は再び階段を下りた。


 玄関でコートを着る。外ではまだ雨が降っていた。


「今夜は、できるだけ娘さんのそばにいてあげてください」


「はい」


「それと、今夜のことを誰かに話す必要はありません。少なくとも、娘さんが落ち着くまでは」


 サラは頷いた。


 ダニエルは玄関を出た。


 雨の中を車まで歩きながら、彼は先ほどの黒い染みを思い返した。何かが引っかかっていたが、それを言葉にすることはできなかった。


 車に乗り込み、エンジンをかける。


 時計は午前零時五十二分を示していた。


 ダニエルは暖房を入れ、革鞄を助手席に置いた。


「終わりだ」


 誰に言うでもなく呟く。


 それから車を発進させた。


 彼は、その言葉が間違っていたことを、まだ知らなかった。

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