第8話 消された名前の値段
進路指導部との面談は、生活指導室では行われなかった。
場所は、第一能力評価棟の地下にある特別協議室。
窓はない。
壁には魔力吸収材が埋め込まれ、外部通信も制限されている。
扉には三重の認証錠。
学校内で起きた推薦記録の改変について話し合うだけなら、明らかに過剰な設備だった。
「なぜ、ここなんだ」
神代標が尋ねる。
答えたのは、担任の榊原宗一郎だった。
「今回の面談は、学校内の進路問題だけではなくなったからだ」
「俺が転移能力者になったからか」
「ああ」
榊原は不機嫌そうに答える。
「学校側の不正が疑われる面談に、国家戦略指定候補の能力者が出席する。関係者の一人が動揺して、何をするか分からない。逆に、お前が腹を立てて能力を使う可能性も、形式上は考慮しなければならん」
「俺が学校を襲うと?」
「私は思っていない」
榊原の声が低くなる。
「だが、安全管理の手続きを省略すれば、後から面談そのものの正当性を攻撃される。お前に不利な記録を残さないためでもある」
「なるほど」
標は室内を見回した。
面談に出席する学校職員。
国家異能管理局の監督官。
六波羅運輸の法務担当者。
九曜技研ホールディングスの研究者。
話し合いというより、すでに企業間紛争に近い。
「そのため、面談中は魔力抑制環を装着してもらいます」
管理局の職員が、銀色の環を差し出した。
「学校側の出席者にも、攻撃魔法の使用を制限する抑制具を装着しています。神代君だけに求める措置ではありません」
標は周囲を見る。
榊原の手首。
進路指導部長。
副主任。
全員に、形の違う抑制具がついている。
「固有能力も止まるのか?」
職員が僅かに間を置いた。
「魔力供給を阻害することで、出力の低下が見込まれます」
「止まるとは言わないんだな」
「固有能力は、通常魔法とは発動機構が異なります」
管理局職員は慎重に言葉を選ぶ。
「現在の抑制技術では、すべての固有能力を完全に封じることはできません」
「未完成か」
「はい」
職員は否定しなかった。
「一般的な魔法犯罪には対応できます。魔力循環を止めれば、属性魔法や身体強化の大部分を抑制できますから。しかし強力な固有能力者を拘束する場合は、その能力に適した対策と、専門天蓋士の監視が必要です」
「警察だけでは無理か」
「能力によります」
標は銀色の環を受け取った。
手首へ巻く。
環が閉じた瞬間、冷たい感覚が腕から胸へ広がった。
体内を循環していた魔力が淀む。
指先へ集めようとしても、途中で流れを崩される。
零属性魔法。
身体強化。
慣性制御。
普段行っている魔力循環。
どれも大きく制限される。
標は目を閉じた。
学生寮の自室を思い浮かべる。
購入した寝台。
最高級の枕。
机。
窓。
部屋の空間そのものを記憶から拾い上げる。
転移先として認識できる。
能力の感覚も消えていない。
門を開けば、普段より荒くはなるだろう。
それでも、この部屋から逃げる程度なら問題ない。
やはり、魔力を封じるだけでは転移能力までは止まらない。
標が国家に対して強気なのは、単に反抗的だからではなかった。
現在の技術では、国家も標を確実には拘束できない。
意識があり。
転移先を認識できるなら。
警察施設でも。
収容室でも。
少なくとも、閉じ込めておくだけでは足りない。
国家が標へ命令ではなく、協議という形を取る理由の一つだった。
「問題は?」
管理局職員が尋ねる。
「魔法は使いにくい」
「転移能力は」
「試していない」
「発動しない可能性はありますか?」
「ないだろうな」
標は平然と答えた。
職員の眉が僅かに動く。
「根拠を伺っても?」
「経路が消えていない」
「経路?」
「詳しい説明は別料金だ」
六波羅綾音が即座に端末へ記録する。
「国家異能管理局から、魔力抑制下における転移能力調査の打診が来る可能性がありますね」
「値段を上げろ」
「重要情報ですから、当然です」
「今は面談を始めてよろしいですか」
管理局職員が疲れたように言った。
「構わない」
標は椅子へ座った。
右隣には綾音。
その隣に六波羅運輸の法務責任者。
左隣には榊原。
机の向こうには、学校長、進路指導部長、進路指導部副主任の矢島恒一が並んでいる。
二年前。
神代標の名前を、九曜技研の推薦枠から外した人物だった。
学校側とは別に、灰色の研究服を着た男性が同席している。
「九曜技研ホールディングス、零属性基礎研究室主任の賀茂理人と申します」
三十代後半。
細身。
姿勢はよいが、威圧的な雰囲気はない。
「今回、弊社が募集した実習枠に関係するため、学校へ同席を求めました」
「最初に、以前の俺を選んだのは賀茂さんですか?」
標の口調が変わった。
綾音が僅かに標を見る。
標は、相手が年上だから無条件に敬うわけではない。
だが、まともな態度で接してくる者にまで不遜に振る舞うつもりもなかった。
「いいえ。当時の研究室長です」
賀茂が答える。
「私は選考資料の技術評価に参加していましたが、最終判断者ではありません」
「今日は、何を確認しに来られたんですか」
「弊社が実習へ招こうとした学生と、実際に派遣された学生が違った理由です」
賀茂の視線が矢島へ向く。
「そして、弊社が評価した技術の作成者が、本当に神代君だったのか」
「資料を見れば分かるでしょう」
「現在のあなたの魔力波形と照合し、ほぼ確実だと判断しています」
「それなら結構です」
標は賀茂から視線を外した。
話が通じる。
責任を曖昧にしない。
少なくとも、最初から敵として扱う必要はなさそうだった。
「調査結果を説明します」
進路指導部長が端末を操作した。
壁面へ、二年前の記録が表示される。
《九曜技研ホールディングス》
《零属性基礎研究補助実習》
《募集人数 一名》
《選考方式 匿名技術資料および学校推薦》
続いて表示されたのは、応募時に提出された技術資料。
零属性魔法による微細な魔力制御。
放出した魔力を複数の経路へ分け、再び一つへ戻す実験。
現在の標から見れば、初歩的な訓練だった。
だが、転移能力の発現以前。
魔力容量E。
固有能力なし。
属性適性なし。
その状態で行った技術としては、明らかに異常だった。
「資料は匿名化されていました」
進路指導部長が説明する。
「九曜技研は内容のみを審査し、作成者を学校推薦枠へ入れるよう求めました」
《第一次推薦候補 神代標》
標の名前。
その下に、学校内部の評価が並ぶ。
《魔力容量E》
《属性適性なし》
《対外実習経験なし》
《協調性に懸念》
《企業対応能力が低いと予想》
「協調性に懸念」
榊原が低い声で読み上げた。
怒りを抑えている。
「誰が書いた」
「私です」
矢島が答えた。
「根拠は」
「他の学生との交流が少なく、班活動でも消極的だったためです」
「本人に聞いたのか」
「複数の教員評価を総合しています」
「本人と面談したのかと聞いている!」
榊原の声が、会議室へ響いた。
魔力を抑制されているにもかかわらず、空気が震えたように感じられた。
「榊原先生」
学校長が制止する。
「今は事実確認を――」
「事実確認?」
榊原が学校長を見る。
「私は、こいつがどれだけ就職先を探していたか知っています」
榊原の拳が机の下で握られている。
「能力がない。属性もない。それでも一般魔導職でいい、補助職でもいいから働きたいと言っていた。私も何とか一社だけでも話をつなげられないか、進路指導部へ何度も相談した!」
標は榊原を見る。
転移前の神代標の記憶にもある。
企業の資料を探してきた。
適性が低くても応募できる職種を教えた。
面接練習にも付き合った。
榊原は、標の就職をどうにかしようとしていた。
「その一方で」
榊原の視線が矢島を射抜く。
「学校が、こいつの名前を勝手に消していたのか」
「当時の神代君では、実習へ適応できないと判断しました」
「本人へ伝えもせずにか!」
「学校推薦枠を有効に――」
「有効に使う?」
榊原が立ち上がった。
「九曜技研が神代の技術を見て、神代を呼んだんだろうが!」
「形式上は、作成者を優先してほしいという要望で――」
「言葉遊びをするな!」
学校長が再び榊原を止めようとする。
だが、今度は榊原も止まらなかった。
「こいつは、採用通知が一件も来ないことを、自分に価値がないからだと思っていた」
榊原の声が震える。
「どれだけ勧めても、自分では無理だと言うようになった。何度落とされても、次を探していた。それを私は、能力が低いから仕方がないと思っていた」
一度、息を吸う。
「まさか学校側が、機会そのものを奪っていたとは思わなかった」
室内が静まり返る。
標は榊原を見た。
謝罪はいらない。
怒ってほしいとも思っていなかった。
だが、少なくとも榊原の怒りは、自分の保身のためではない。
以前の神代標のためのものだった。
「先生」
標が呼ぶ。
「何だ」
「今は座ってください」
「しかし」
「話が進みません」
榊原は数秒、矢島を睨んだ。
やがて椅子へ戻る。
「……すまん」
「俺に謝る必要はありません」
標は矢島を見る。
「続けろ」
矢島の顔が引きつった。
「第一次候補者の神代君について、対外実習への適応が難しいと判断しました」
「俺に確認せずに」
「学校推薦である以上、最終的な推薦者は学校が決定します」
「それで南雲を選んだ」
最終推薦記録が表示される。
《最終推薦者 南雲拓也》
《変更承認者 矢島恒一》
《変更理由 候補者本人の適応能力不足》
《学校推薦枠の有効活用》
「本人には、どう伝えた」
綾音が尋ねる。
以前の神代標へ送信された通知が表示される。
《企業側の都合により、実習選考は中止となりました》
榊原の呼吸が再び荒くなる。
「企業側の都合」
標が賀茂を見る。
「九曜技研側は、中止していないんですね?」
「していません」
賀茂の声は先ほどより硬い。
九曜技研側の記録が提示される。
《匿名資料作成者の派遣を希望》
《該当学生の派遣が困難な場合は、理由の説明を求める》
学校側の回答。
《作成者本人が対外実習を辞退》
《同等以上の適性を持つ学生を推薦》
「辞退した事実は?」
標が尋ねる。
「確認できませんでした」
進路指導部長が答える。
「本人との面談記録もありません」
賀茂は、表示された文章をしばらく見ていた。
匿名資料の作成者。
当時、研究室内でも話題になった。
容量Eにもかかわらず、異様な精度で魔力を分岐・統合していた学生。
完成度は低い。
理論も未整理。
それでも、技術の根に常識とは違うものがあった。
実習へ来れば、零属性制御研究の人材として育てられるかもしれない。
そう考えていた。
だが学校からは、本人が辞退したと伝えられた。
代わりに送られてきた学生は、資料の内容を何一つ再現できなかった。
九曜技研は、学校推薦の失敗として処理した。
それから二年。
資料の作成者は、門型空間転移能力者として国家登録された。
もし、あのとき。
神代標を実習へ迎えられていたなら。
発現前から、彼の制御技術を研究できた。
能力発現の兆候を観測できた可能性もある。
九曜技研が、世界初の門型転移能力者と最初に研究契約を結んだ組織になっていたかもしれない。
輸送。
空間障壁。
座標技術。
生体転移。
今後生まれるであろう莫大な研究成果と特許。
その入口に、二年前の九曜技研は立っていた。
学校から送られた、一通の虚偽回答によって。
自分たちは、その機会を失った。
「……今では、門型空間転移能力者だったというのに」
賀茂の口から、低い声が漏れた。
誰に聞かせるつもりでもなかった。
だが、室内にははっきりと響いた。
矢島が身を固くする。
賀茂は怒鳴らなかった。
研究者として、感情的な非難をすることもなかった。
ただ、失ったものの大きさを理解した顔をしていた。
「失礼しました」
賀茂は標へ頭を下げる。
「あなたの価値を、現在の能力だけで語るべきではありませんでした。弊社が評価したのは、発現前の技術です」
「賀茂さんが謝ることではないでしょう」
標は丁寧に答えた。
「学校の説明を信じるのは普通です」
「それでも、資料作成者本人の辞退意思を直接確認する方法を探すべきでした」
「企業実習の学生一人です。そこまで追わないのも普通だと思います」
「普通で済ませた結果が、今です」
賀茂は壁面の記録を見る。
「研究者としては、悔やんでも悔やみきれません」
標は少し考えた。
「今から契約すればいいでしょう」
賀茂が標を見る。
「過去には戻れませんが、今の俺はいます」
「……ありがとうございます」
「ただし、当時の値段では受けません」
「承知しています」
賀茂の返答は早かった。
標は僅かに口元を緩めた。
少なくとも、話の分かる人間だった。
◇
南雲の実習記録が表示される。
《提出資料の再現試験》
《結果 再現不能》
《資料との技術的不一致》
《本人は資料作成への関与を否定》
「南雲本人は、資料を自分が作ったとは言っていないんですね?」
標が賀茂へ尋ねる。
「はい。学校から推薦されたため参加した、と説明しています」
「なら資料の盗用まではしていない」
「その認識です」
「実習は?」
「三日目に研究補助から一般企業見学へ変更されました」
「完全に無駄だな」
「弊社にとっても、南雲君にとってもです」
賀茂は矢島を見る。
「弊社は必要な学生と接触できなかった。神代君は機会を奪われた。南雲君は自分には再現できない技術を期待され、評価を下げた」
「学校としては、より将来性のある学生へ――」
「誰にとっての将来性ですか?」
賀茂の声は静かだった。
「弊社は、魔力容量の大きい学生を求めていませんでした。対人印象のよい学生も求めていない」
壁面に表示された技術資料を指す。
「これを作った人間を求めたのです」
矢島は答えられない。
「学校の就職実績を守ろうとして、企業側の選考まで勝手に変更した」
賀茂の言葉に、進路指導部長も目を伏せた。
「結果として、誰も得をしていません」
標は資料を見る。
自分の名前。
消された記録。
本人へ送られた虚偽通知。
怒りはない。
ただ、損失はある。
「いくらだ」
標が尋ねた。
「何がですか?」
学校長が聞き返す。
「俺が失ったものの値段だ」
「金銭だけの問題ではありません」
「だから、金銭以外も戻せ」
標は指を一本立てる。
「実習手当」
綾音が資料を確認する。
「二十八万円です」
「次」
賀茂が答える。
「実習修了者は、九曜技研の特別採用試験へ進むことができました。ただし、採用を保証する制度ではありません」
「当時の合格率は」
「四十二パーセントです」
「研究室から直接契約を提案する可能性は?」
賀茂は慎重に考える。
「資料の技術を本人が再現できれば、学生研究補助員として契約を提案した可能性は高いです」
「報酬は?」
「月額二十五万から四十万円ほどです」
「二年間」
綾音が端末へ入力する。
「確定損害と期待利益を分けます」
六波羅運輸の法務責任者が続ける。
「実習手当二十八万円。特別採用試験の受験機会。研究補助契約を得る可能性。技術資料への記名と研究実績」
「それだけではありません」
綾音が別の資料を表示する。
「神代君について、《協調性に懸念》《企業対応能力が低い》という評価が、他企業にも送られています」
標の視線が止まる。
「何社だ」
進路指導部長が答える。
「十二社です」
榊原が椅子を蹴るように立ち上がった。
「十二社?」
「榊原先生」
「私が紹介を頼んだ企業にも送ったのか!」
進路指導部長は答えない。
「私は、神代が能力面で落とされたと思っていた」
榊原の声が震える。
「少しでも可能性のある職種を探して、資料を渡した。その裏で学校が、協調性に問題があると書いていたのか!」
「複数の教員評価をもとに――」
「どの教員だ!」
榊原が机を叩く。
魔力は抑制されている。
それでも音は大きく響いた。
「こいつが一人だったのは、周囲から何年も嫌がらせを受けていたからだろうが!」
学校長が榊原を見る。
「その件は現在調査中です」
「保管庫に廃棄物と刻まれていた。何年も金をたかられていた。推薦枠まで奪われていた。それでもまだ調査中か!」
「榊原」
標が呼ぶ。
「何だ」
「怒るのは後にしてください」
「だが」
「今は回収が先です」
榊原の表情が歪む。
「お前は……」
「先生が怒っても、俺の記録は戻りません」
「分かっている」
「なら座ってください」
榊原は深く息を吸い、椅子へ戻った。
だが、矢島を見る目から怒りは消えていない。
「続けろ」
標が言う。
綾音が学校側へ向き直る。
「いじめによって孤立させられた学生を、協調性不足と評価した可能性があります」
「当時は、いじめを把握していませんでした」
矢島が答える。
「把握しなかった責任と、存在しなかったことは別です」
「学校推薦では、集団適応も評価項目になります」
「では、本人面談記録を示してください」
沈黙。
「班員への聞き取りは?」
記録なし。
「嫌がらせの有無を確認した記録は?」
なし。
「根拠のない印象を、十二社へ事実として送ったのですか?」
「総合的な教育評価です」
「便利な言葉ですね」
綾音は感情を見せずに言った。
「集団から排除された側へ、集団に適応できないという評価をつける。そうすれば、排除した側ではなく、排除された側の問題にできます」
「六波羅君。表現に注意してください」
学校長が言う。
「事実関係を整理しています」
「学校として、神代君へ正式に謝罪します」
「謝罪はいらない」
標が即答した。
「神代君」
「名前を戻せ」
壁面の記録を指す。
「本人が辞退したという記録を消せ。学校が推薦者を変更したと書け」
「過去の推薦を戻すことはできません」
「なら、奪った事実を残せ」
標の声は静かだった。
「十二社へ送った評価書も訂正しろ」
「訂正によって、採用判断が変わるとは限りません」
「結果は企業が決める」
標は矢島を見る。
「お前たちが勝手に決めるな」
綾音が要求事項を文書化する。
「一つ。九曜技研実習について、本人辞退の記録を削除し、学校判断による推薦者変更と訂正する」
「二つ。神代君に関する協調性、対外適応力の評価を再調査。根拠が確認できない記述を削除する」
「三つ。過去に評価書を送付した十二社へ、学校側から正式な訂正文書を送る」
「四つ。九曜技研および神代君へ、推薦変更の全経緯を開示する」
「五つ。経済的損害について補償協議を行う」
「六つ。推薦変更に関与した職員について、外部委員を含む調査を行う」
「外部委員まで必要ですか」
学校長が尋ねる。
「学校内部で起きた記録改変を、学校内部だけで調査するのですか?」
「監督機関へ報告します」
「その旨を書面へ」
学校長は頷くしかなかった。
「七つ目」
標が加える。
「この面談の拘束時間」
学校長が標を見る。
「学校側の不正を調べるために、俺が時間を使っている」
「学生として必要な手続きです」
「俺が問題を起こしたわけではない」
「神代」
榊原が額へ手を当てる。
「ここでも金を取るのか」
「先生は、俺を無料で使うなと言ったでしょう」
榊原が黙る。
「……言ったな」
「一時間十万円」
「高い」
「九曜技研との面談なら、それ以上になる」
賀茂が口元を僅かに緩めた。
「その点は、否定できません」
「賀茂さん」
学校長が困ったように見る。
「弊社の相場とは関係ありませんが、神代君の時間に価値があることは事実です」
「面談費そのものは、学校規定上支払えません」
「補償へ加算しろ」
「協議事項へ入れます」
「記録しておけ」
綾音がすでに入力していた。
◇
面談は、学校側の内部協議のため一度中断された。
魔力抑制環が外される。
環が開いた瞬間、止められていた魔力が全身へ流れ込む。
標は指を動かし、乱れた魔力経路を零属性魔法で整えた。
「問題ありませんか」
綾音が尋ねる。
「ああ」
「魔力を封じられた状態でも、転移できたんですか?」
「おそらくな」
「試してはいないんですね」
「ああ」
「国家側には、どこまで伝えます?」
「何も」
「分かりました」
綾音は、それ以上聞かなかった。
彼女は標の独自鍛錬法も、能力の正確な発動経路も知らない。
知っているのは、標が一般的な零属性使いとは比較にならない制御技術を持つことだけだ。
国家へ渡す情報と、渡さない情報。
そこを判断するのは標本人だった。
「神代君」
管理局職員が近づく。
「抑制環の装着中、固有能力が使用可能だったとの発言について、後日正式な調査を依頼する可能性があります」
「六波羅を通せ」
「承知しました」
「無料では受けません」
「その点も承知しています」
職員は予想していたらしい。
「警察や管理局にとって、能力者の抑制は重要な課題です」
「今の道具では、俺を閉じ込められないな」
「それを公言するのは、あまり賢明ではありません」
「事実だろ」
「国家を刺激します」
「できないことを、できるふりをされる方が困る」
標は職員を見る。
「お互いに、できることとできないことを把握していた方が安全だ」
職員は少し黙り、頷いた。
「その点については、同意します」
◇
休憩時間の終わり際。
賀茂理人が標へ近づいた。
「神代君。少しお時間をいただけますか」
「構いません」
標は丁寧に応じた。
賀茂が端末へ資料を表示する。
「九曜技研として、正式な研究協力をお願いしたいと考えています」
「二年前の実習の代わりですか?」
「代わりにはなりません」
賀茂は即答した。
「失った二年間は戻せない。現在のあなたへ、現在の価値に応じた契約を提示します」
《転移門および零属性制御に関する予備共同研究》
《期間 三日》
《拘束時間 合計十二時間以内》
《基礎協力費 三百万円》
《追加実験 別途契約》
「悪くありませんね」
「ただし、能力そのものの所有権、独占使用権は求めません」
「当然です」
「研究成果の権利は、双方の寄与率に応じて配分します」
「その寄与率は、誰が決めますか?」
「神代君側と弊社側から同数の委員を出し、外部専門家を一名加えます」
「こちらの専門家の費用は?」
「初回契約に限り、弊社が負担します」
「まともですね」
標は正直に言った。
賀茂が少し目を瞬く。
「ありがとうございます」
「二年前のことを利用して、安く契約しようともしていない」
「それをすれば、また同じことになります」
賀茂は標を見る。
「私たちは、あなたの価値をこちらの都合だけで決めたくありません」
標は数秒、資料を読む。
「黒瀬千景も参加させられますか?」
「黒瀬さんを?」
「今回の記録を見つけたのは彼女でしょう」
賀茂の表情が僅かに変わる。
「ご存じだったのですか」
「先ほど聞きました」
「九曜側へ照会を行ったのも、黒瀬さんです。過去の匿名資料と、現在の神代君の魔力波形が似ていると」
「本人からは聞いていません」
「研究上の確認を優先したのでしょう」
「参加させたい」
「弊社としては問題ありません。ただし、本人の同意が必要です」
「報酬も払ってください」
「記録担当として?」
「波形比較、実験監視、資料照合。仕事でしょう」
賀茂は頷く。
「そのとおりです。補助研究員として、別途契約を提示します」
「話が早くて助かります」
標は資料へ視線を戻した。
「こちらの協力費ですが」
「はい」
「三百二十万円で」
「二年前の補償は、学校側との協議になると思いますが」
「それは分かっています」
「では、増額理由を伺っても?」
「今後、他社からの依頼が増えるからです」
賀茂は少し笑った。
「合理的ですね。三百十万円では?」
「三百二十」
「三百十五万円」
「成立です」
綾音が口を挟む。
「金額のみの仮合意です。契約書の精査はこれから行います」
「もちろんです」
賀茂が端末へ記録する。
「二年前は、書面に神代君の名前が残りませんでした」
賀茂の声から笑みが消える。
「今回は、最初から最後まで残します」
「お願いします」
賀茂が標へ手を差し出しかける。
だが途中で止めた。
「契約書の確認後にしましょう」
「その方がいいですね」
標は答えた。
相手が契約を重んじるなら。
こちらも相応の礼儀を示す。
◇
再開された面談で、学校側から暫定案が提示された。
「記録訂正については、神代君の要求を受け入れます」
学校長が説明する。
「本人辞退の記録を削除し、学校判断による推薦者変更だったことを明記します」
「十二社への訂正は?」
「学校側から正式な訂正文書を送ります」
「いつまでだ」
「五営業日以内に」
「遅い」
「事務処理に必要です」
「俺の就職活動は、あと何日残っている」
学校長が黙る。
「三営業日以内に送ります」
「いい」
「経済的補償については、確定損害として実習手当二十八万円を支払います」
「他は?」
「期待利益については、採用が確実ではなかったため、全額を損害として認定することは困難です」
「失ったのは採用だけではない」
綾音が資料を提示する。
「研究実績。特別採用試験への参加資格。九曜技研研究者との接触機会。十二社へ送付された不利益評価」
「因果関係をすべて立証することは困難です」
「だから協議している」
標が言う。
「学校として提示できる慰謝および解決金は、二百万円です」
「安い」
「神代君」
「九曜技研は三日で三百十五万円を払う」
「現在の能力価値と、過去の損害は別です」
「今の価値になる前の技術を、九曜は評価していた」
賀茂が学校側を見る。
「その点は、弊社としても明確に申し上げます」
「神代君の転移能力発現を、二年前に予測できたとは主張しません」
賀茂は続ける。
「しかし、少なくとも零属性制御の研究人材として、弊社は価値を認めていました」
学校長が苦い顔をする。
「五百万円」
標が言った。
「高すぎます」
「虚偽記録を十二社へ送った」
「故意に就職を妨害したわけではありません」
「結果として妨害した」
「三百万円」
「四百八十」
「刻み方が細かいな」
榊原が呟く。
「俺の金ですから」
「知っている」
榊原はもう止めなかった。
むしろ、学校側を見る目はまだ冷たい。
「四百五十万円。それとは別に、実習手当二十八万円」
学校長が提示する。
「面談拘束費については、五万円を補償へ加算します」
「十万だ」
「学校規定上、これが限界です」
「規定を作ったのは学校だろ」
「神代」
榊原が口を挟む。
「五万で折れろ」
「なぜ」
「私が残りを払う」
標が榊原を見る。
「先生が?」
「お前のために怒って、面談を長引かせた分だ」
「先生の金はいりません」
「なら五万で受けろ」
「理由になっていない」
「担任命令だ」
「命令権は契約していません」
「面倒な奴だな!」
榊原が頭を抱える。
標は少し考えた。
「分かりました。五万でいいです」
榊原が顔を上げる。
「折れるのか」
「先生が怒った分を値引きします」
「何だそれは」
「感情には金銭価値がないと思っていましたが、今回は少し役に立ちました」
「お前な……」
榊原は怒るべきか、安堵するべきか分からない顔をした。
「補償金四百五十五万円、未支給実習手当二十八万円。合計四百八十三万円」
学校長が確認する。
「記録訂正、十二社への通知、外部委員を含む調査は別に実施」
「矢島副主任の処分を取り下げる条件ではないな」
「ありません」
「秘密保持は?」
「学校内部資料の無断公開についてのみ、一定の制限を求めます。本件の存在や、自身が受けた扱いについて話すことは制限しません」
「なら受ける」
基本合意書が作成される。
標。
綾音。
六波羅運輸の法務責任者。
賀茂。
それぞれが内容を確認する。
本人辞退記録の削除。
推薦変更経緯の明示。
十二社への訂正。
外部調査。
補償額。
秘密保持の範囲。
標が署名する。
《学校記録訂正および暫定補償合意が成立しました》
数秒後。
《国立関東第三魔法学校より入金》
《補償金 四百五十五万円》
《未支給実習手当 二十八万円》
《合計 四百八十三万円》
「増えたな」
標が残高を見る。
「喜ぶところか?」
榊原が尋ねる。
「損失の一部が戻った」
「全部ではないだろ」
「だから記録も戻させた」
標は端末を閉じる。
「謝罪より役に立ちます」
学校長が立ち上がった。
「神代君」
「何ですか」
「学校として、改めて謝罪させてください」
「必要ありません」
「それでもです」
学校長が頭を下げる。
「君の技術と適性を正しく評価せず、本人の意思を確認しないまま機会を奪ったこと。そして、学校内での不適切な扱いを把握できなかったことを、深くお詫びします」
進路指導部長も頭を下げる。
矢島は数秒遅れて従った。
榊原は頭を下げなかった。
彼は学校側として謝るより、矢島を睨んでいる方が正直だった。
標は三人を見る。
胸が晴れるわけではない。
以前の神代標が救われたとも思わない。
本人が何を望んでいたかは、もう分からない。
「終わったなら帰ります」
「それだけですか?」
進路指導部長が思わず尋ねる。
「他に何を」
「許す、とか」
「許す契約はしていません」
標は席を立つ。
「記録を直す。金を払う。調査する。合意したのはそれだけです」
許すか。
恨むか。
謝罪を受け入れるか。
それは契約に含まれていなかった。
◇
会議室を出ると、廊下で黒瀬千景が待っていた。
標を見るなり、少し姿勢を正す。
「終わりましたか」
「ああ」
「記録は訂正されますか?」
「十二社にも訂正が行く」
千景は小さく息を吐いた。
「よかったです」
「資料を見つけたのは、お前だと聞いた」
「過去の匿名資料と、現在の魔力波形が似ていたので」
「なぜ俺に言わなかった」
「先に九曜技研へ確認した方が、事実関係を確定できると思いました」
「研究者らしいな」
「怒っていますか?」
「いや」
標は千景を見る。
「結果として四百八十三万円になった」
「また金額ですか」
「他に分かりやすい基準がない」
「推薦記録が訂正されたことの方が重要です」
「それも分かっている」
標は端末を取り出す。
「九曜との共同研究に、お前も参加しろ」
千景の目が大きくなる。
「私が?」
「記録担当が必要だ」
「九曜技研の研究者がいます」
「俺側の人間も必要だ」
「六波羅さんでは?」
「技術が分からない」
少し離れた場所にいた綾音が眉を上げる。
「聞こえていますよ」
「事実だろ」
「否定はしません」
綾音は、自分が知らない標の技術について、知っているふりはしなかった。
「黒瀬さんの方が適任です」
千景は少し迷う。
「研究へ参加できるだけでも、私には利益があります」
「無料で働くな」
標が即答した。
「ですが、学生の補助参加です」
「波形比較。記録。異常検知。十分仕事だ」
「いくらが適切でしょうか」
標は綾音を見る。
「相場は」
「研究補助の内容と拘束時間によります」
綾音が答える。
「一日五万円を基準に、九曜側と交渉しましょう」
「高くないですか?」
千景が戸惑う。
「仕事の範囲を明確にすれば、法外ではありません」
「分かりました」
千景は端末を開いた。
「交渉してみます」
「素直だな」
「神代君が、無料で働くなと言ったので」
「命令ではない」
「提案として受け取ります」
千景の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
◇
その日の放課後。
卒業実地訓練の班編成が更新された。
《卒業実地訓練・第七班》
《神代標》
《真壁直人》
《鳳城麗華》
《冬月澪奈》
《御影士門》
南雲拓也の名前は消えている。
代わりに入ったのは御影士門。
旧軍人・天蓋士家系の出身。
企業一族ではない。
対外相種戦術と射撃成績で、学年上位に位置する学生だった。
「神代標」
背後から低い声がする。
振り返る。
背の高い男。
短く整えた黒髪。
制服にも乱れがない。
標の顔ではなく、立ち方と手の位置を見ている。
「御影士門だ。第七班へ移った」
「知っている」
「南雲との件も聞いた」
「それで?」
「借金のある相手と、外相汚染区域で背中を預け合う必要はない」
「話が早いな」
「感情ではない。部隊運用の問題だ」
士門は標へ握手を求めなかった。
代わりに端末を出す。
「訓練前に、互いの能力と役割を確認したい」
「有料なら」
「班員全員が情報を開示する。情報を対価とする」
標は少し考える。
金銭ではない。
だが、情報と情報。
対価としては成立する。
「いい」
「明日、放課後。第四演習室」
「三十分までだ」
「十分だ」
士門はそれだけ言い、去っていった。
綾音が隣から標を見る。
「珍しいですね」
「何が」
「金銭なしで話し合いを受けるなんて」
「情報を払うと言った」
「現物取引ですか」
「ああ」
「御影君とは、相性がよいかもしれませんね」
「まだ分からない」
標は班編成を見る。
真壁直人。
鳳城麗華。
冬月澪奈。
御影士門。
能力も思想も違う。
だが、少なくとも借金を踏み倒している人間はいない。
「前よりはいい」
標は端末を閉じた。
新しい通知が届く。
《九曜技研ホールディングス》
《予備共同研究・仮合意》
《協力費 三百十五万円》
続いて。
《国家異能管理局》
《魔力抑制下における転移能力調査の打診》
さらに。
《東海道国際物流機構》
《初回面談報酬 二百万円への増額提案》
標は三件を順番に見る。
「今日はよく増えるな」
「何か買う予定が?」
綾音が尋ねる。
「運動器具」
「運動をするんですか?」
「ああ」
「意外ですね」
「今の身体は弱い」
標は自分の腕を見る。
「転移だけに頼ると、封じられたときに困る」
「普通の訓練器具でよいのですか?」
「使い方は自分で考える」
標が零属性魔法を使って、どのように負荷を調整しているのか。
綾音は知らない。
一般的な筋力訓練だと思っている。
「食べて寝るだけではなかったんですね」
「食べて寝るだけで体型が崩れるのは困る」
「体型を気にするんですか」
「戦場で腹が邪魔になるのは損だ」
「結局、戦闘基準ですね」
「見た目も悪い」
「そちらが先なら、人間らしいと思います」
「どちらでもいい」
標は歩き出した。
消された名前は戻った。
失った機会の一部は金になった。
過去そのものが消えるわけではない。
それでも。
これから先、誰かが神代標の名前を勝手に消すなら。
相応の値段を払うことになる。




