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第7話 かつて無料だった男

 朝食の前に、神代標は二十分だけ身体を動かすことにしていた。


 新しく購入した寝台の横。


 狭い学生寮の床へ両手をつき、腕立て伏せの姿勢を取る。


 身体を下ろす。


 持ち上げる。


 動作そのものは、ごく普通だ。


 ただし、標の全身には無属性魔法による抵抗がかかっている。


 腕を伸ばすときには、肘を曲げる方向へ。


 身体を下ろすときには、胸を床へ押しつける方向へ。


 肩や手首には余計な負荷がかからないよう、関節の角度だけを補正する。


 胸。


 肩。


 上腕。


 背中。


 腹部。


 一つの動作で、使う筋肉を意図的に切り替える。


「弱いな」


 十回を終えたところで、標は呟いた。


 転移後の肉体は、元の世界の自分とは比較にならない。


 魔力容量が少ないだけではない。


 筋力。


 持久力。


 反応速度。


 身体の頑丈さ。


 すべてが低い。


 転移能力が使えるからといって、このままでよいとは思わなかった。


 座標を捉えるまでの一瞬。


 転移を封じられた場合。


 意識を乱された場合。


 自分の足で走らなければならない状況。


 最低限の身体能力がなければ、そこで死ぬ。


 標は立ち上がり、今度はスクワットを始めた。


 身体を沈める際には重力方向へ負荷を追加。


 立ち上がる際には、さらに下向きの抵抗をかける。


 膝や腰は無属性魔法で支え、筋肉だけへ負荷を集中させる。


 普通に器具を使うより効率がよい。


 動作中に負荷の方向を変えられる。


 姿勢が崩れれば、自動的に重心を補正できる。


 軽い動作で、全身を限界近くまで使える。


 元の世界では、前線復帰を急ぐ兵士へ似た訓練を行わせていた。


 ただし、無属性魔法で負荷をかけたからといって、筋肉が一日で増えるわけではない。


 身体を作るには食事と睡眠が必要だ。


 今の標にとっては、どちらも苦ではなかった。


 むしろ歓迎すべきことだった。


「食べて寝るだけで太るのは損だからな」


 最後に、足元の摩擦を減らした状態で姿勢を維持する。


 体幹訓練。


 僅かに重心がずれただけで、足が滑る。


 標は腹部と背部へ力を入れ、姿勢を保つ。


 二十秒。


 三十秒。


 四十秒。


 身体が震え始める。


 元の世界の自分なら、片足でも数時間保てた。


「先は長いな」


 標は魔法を解除し、床へ座った。


 全身に適度な疲労感がある。


 悪くない。


 朝食を食べる理由が増えた。


 睡眠を取る理由も増えた。


 欲求を守りながら、身体も強くする。


 標にとっては、理想的な循環だった。


 ◇


 国家異能管理局による能力登録から、数日が経過していた。


 標が学校の正門を通ると、周囲の話し声が不自然に小さくなった。


 能力が発現する以前なら、誰も標を見なかった。


 見えていても、わざわざ視線を向ける価値がないと判断されていた。


 属性適性なし。


 固有能力なし。


 魔力容量E。


 卒業を目前にして、採用通知は一件もない。


 同じ学校へ八年間通いながら、名前を正しく覚えていない学生さえいた。


 呼ばれるときは、たいてい別の名前だった。


 無属性。


 空欄。


 荷物持ち。


 E級。


 企業実習の班員が一人足りないときだけ、神代と呼ばれた。


「お、おはよう、神代」


 見覚えの薄い男子学生が声をかけてきた。


 標は足を止める。


「誰だ」


「同じ魔法工学基礎を取ってるだろ。七年の頃から」


「知らない」


「そ、そうか」


 男子学生は引きつった笑みを浮かべた。


「先日の国家評価、すごかったらしいな。戦略指定候補なんだって?」


「ああ」


「今度さ、俺たちの実習班にも――」


「断る」


「まだ何も言ってないだろ」


「無料なら断る。有料なら六波羅を通せ」


 標はその横を通り過ぎた。


 背後で、小さな声が聞こえる。


「感じ悪くなったな」


「前はあんな奴じゃなかったのに」


 標は振り返らなかった。


 以前の自分は、どんな人間だったのか。


 頼まれれば引き受けた。


 断れば嫌われると思っていた。


 すでに嫌われていることに、気づかないふりをして。


 能力訓練用の器具を運び。


 他人の課題を写し。


 購買で飲み物を買い。


 返されない立替金を払い。


 危険な訓練では、最初に囮役へ立候補させられた。


 断らなかったのではない。


 断れなかった。


 この身体には、その記憶が残っていた。


 頭で思い出すというより、場所を見るたびに身体が勝手に反応する。


 正門脇の植え込み。


 濡れた鞄が捨てられていた場所。


 第一食堂裏の階段。


 昼食を取られた後、一人で座っていた場所。


 第四実技棟の器材庫。


 訓練事故という形で何度も閉じ込められた場所。


 標自身は、怒りを覚えていなかった。


 自分が受けたことではない。


 この世界にいた神代標が受けたことだ。


 だが。


 この身体は、覚えている。


 ならば、無視する理由もなかった。


 ◇


 標の個人用保管庫は、八年生棟の最も端にある。


 本来、学籍番号順に割り振られるはずだが、標だけは一年ほど前から場所が変わっていた。


 教室に近い保管庫を、別の学生が使いたいと言ったからだ。


 教師へ正式に申請した形跡はない。


 鍵だけを交換され、標の私物が端へ移された。


 当時の標は抗議しなかった。


 端の方が、人の邪魔にならない。


 そう思おうとした。


 保管庫の扉には、今も大きく傷がついている。


 刃物で刻まれた文字。


 **E**


 その下に、小さく。


 **廃棄物**


 学校は公共設備の損壊を把握していたはずだ。


 修理はされていない。


 標は扉へ触れた。


 零属性魔法を薄く流し、歪んだ金属を整える。


 傷を埋める。


 文字が消える。


 完全には元へ戻らない。


 だが、読めなくなれば十分だった。


「神代君」


 後ろから声がした。


 黒瀬千景が、測定端末を抱えて立っていた。


「何だ」


「今日の放課後、先日の転移残留値について――」


 千景の視線が、保管庫の扉へ向く。


 修復直後の金属。


 薄く残る傷。


 床には、削れた塗料の破片。


「それは」


「古い傷だ」


「誰かにされたんですか?」


「ああ」


「誰に?」


「今から来る」


 千景が振り返る。


 廊下の向こうから、三人の男子学生が歩いてきていた。


 中央にいるのは、南雲拓也。


 風属性。


 魔力容量C。


 実戦評価D。


 大企業との血縁はない。


 卒業後は、中堅警備会社への採用が内定している。


 目立つほど優秀ではない。


 落ちこぼれるほど弱くもない。


 自分より下の人間がいることで安心する、ごく普通の学生だった。


 その左右には、南雲とよく行動する柴崎と大戸。


 三人は標の前まで来ると、千景の存在を気にして一度足を止めた。


「神代」


 南雲が笑顔を作った。


「少しいいか?」


「有料なら」


「すぐ金の話をするなよ。同級生だろ」


「同級生は料金を払わない理由になるのか?」


「前はそんなこと言わなかったじゃないか」


「前は間違っていた」


 南雲の笑顔が僅かに固まる。


「能力が発現したって聞いた。しかも転移なんだろ? すごいじゃないか」


「ああ」


「昔から、お前なら何かやると思ってた」


「嘘だな」


「何でだよ」


「お前は俺を廃棄物と呼んでいた」


 南雲の視線が、保管庫の扉へ動いた。


 文字はすでに消えている。


「そんな昔の冗談、まだ気にしてるのか?」


「気にしていない」


「ならいいだろ」


「請求するだけだ」


「請求?」


 標は端末を開いた。


「六年間分だ」


「何の話だよ」


「未払い金」


 標の端末に、項目が並ぶ。


《購買立替金》


《昼食代》


《教材購入費》


《演習用消耗品》


《破損した制服》


《紛失した端末》


《無断使用された学生用交通費》


「記録に残っている分だけで、八万三千四百二十円」


 南雲の顔から笑みが消えた。


「待てよ。そんなの、昔の話だろ」


「金に昔も今もない」


「貸したとか、立て替えたとか、お前が勝手にやっただけだろ」


「返すと言った音声記録がある」


「は?」


 標は一つの記録を再生した。


《悪い、神代。今日だけ立て替えてくれ。明日返すから》


 過去の南雲の声。


 次。


《演習用の触媒、買っといて。後でまとめて払う》


 柴崎。


《お前の端末、どうせ古いからいいだろ。壊れたら弁償するって》


 大戸。


 標の記憶ではない。


 旧端末の自動保存領域に残されていた音声だった。


 以前の神代標は、誰かを訴えるために保存したのではない。


 忘れないように記録していただけだ。


 いつか返してもらえると、信じて。


「全部、整理しておいた」


 標が言う。


「元金八万三千四百二十円。利息は取らない」


「利息まで取るつもりだったのかよ!」


「取れるなら取る」


「こんなもの、いじめの仕返しか?」


 廊下にいた学生たちが、足を止め始めた。


 いじめ。


 その言葉が出た瞬間、周囲の空気が変わる。


 これまでは誰も、そう呼ばなかった。


 冗談。


 付き合い。


 神代が自分からやっていた。


 少し度が過ぎただけ。


 そう言い換えてきた。


 南雲自身が口にしたことで、初めて形が与えられた。


「仕返しではない」


 標は答える。


「返済請求だ」


「俺たちは、お前と仲良くしてやってただろ」


「金を払わせて?」


「お前、一人だったじゃないか」


「だから利用した」


「違う!」


「なら返せ」


 南雲は言葉に詰まった。


「八万円くらい、今のお前ならどうでもいいだろ。この数日で何十万も稼いだんだろ?」


「俺が稼いだ金と、お前の借金に何の関係がある」


「細かいんだよ!」


 南雲が標の胸元をつかもうとした。


 手が届く直前。


 小さな転移孔が開く。


 南雲の右手が孔へ入った。


「え?」


 出口は、南雲自身の左肩の横。


 勢いのまま伸びた右手が、自分の襟をつかむ。


 標は何もしていない。


 南雲が自分で自分を引き寄せ、体勢を崩した。


 床へ片膝をつく。


 周囲から小さな息が漏れる。


「暴力は追加料金だ」


 標が言う。


「ふざけるな!」


 南雲が立ち上がる。


 風属性の魔力が膨らんだ。


 同時に、千景が警報端末へ手を伸ばす。


 標は動かなかった。


「やるのか?」


 静かな声。


「先日の評価で、国内四十八位のA級戦闘員が、俺に二・四秒で負けた」


 南雲の魔力が止まる。


「お前は、何秒もつ」


 能力を使うまでもない。


 事実を伝えるだけで十分だった。


 南雲は歯を食いしばり、周囲を見た。


 見物している学生。


 黒瀬千景。


 廊下の監視端末。


 ここで攻撃すれば、自分の内定にも影響する。


「能力が出たからって、急に偉そうにしやがって」


「逆だ」


 標は南雲を見る。


「能力がなかったから、お前は偉そうにしていた」


 南雲は何も言えなかった。


「返済期限は七日」


「払わなかったら?」


「学校へ正式申告する。少額訴訟も起こす。内定先へは、事実関係の照会が入るだろうな」


「脅迫かよ」


「手続きを説明しただけだ」


「学校は、そんな昔のことで動かない」


「それは困りますね」


 綾音の声が廊下へ響いた。


 スーツ姿の六波羅綾音が、法務担当者とともに歩いてくる。


 彼女の手元には業務端末。


 学生としてではない。


 標の契約窓口としての姿だった。


「神代君に対する未払い債務と、継続的な嫌がらせですか」


「六波羅には関係ないだろ」


 南雲が言う。


「現在、神代君の外部契約管理を請け負っています。本人の信用や活動へ影響する問題は、無関係ではありません」


「学生同士の話だ!」


「では、学校の生活指導部へ提出しましょう」


「待て」


「何を待つんです?」


 綾音は標の端末から請求記録を受け取る。


 一つずつ確認。


「音声記録あり。電子決済履歴あり。購買履歴あり。破損端末については修理見積もりも残っていますね」


「前の神代が勝手に――」


「返済を約束した記録があります」


「冗談だよ」


「金銭契約を冗談だったと主張されるのであれば、第三者に判断してもらいましょう」


 綾音は淡々としている。


 怒ってはいない。


 標を可哀想だとも言わない。


 ただ、回収可能な債権として処理している。


「債権回収の委任契約を結びますか?」


 綾音が標へ尋ねる。


「手数料は」


「回収額の十五パーセント」


「高い」


「少額案件は手間がかかります」


「十」


「十三」


「十一」


「十二」


「成立」


 二人のやり取りを、南雲たちは呆然と見ていた。


 自分たちが責められている場で、手数料交渉が始まった。


 泣きながら謝罪を求めると思っていた。


 怒鳴り返すと思っていた。


 能力を使い、痛めつけるかもしれないと思っていた。


 標は、そのどれもしない。


 ただ金額へ変えた。


「契約書を送ります」


「ああ」


「回収対象は南雲拓也、柴崎浩平、大戸康平。元金合計八万三千四百二十円。過去の物品損害について追加資料が見つかった場合は別途協議」


「いい」


「生活指導部への申告は?」


「七日以内に全額返済すれば保留」


「返済されなければ提出」


「ああ」


 綾音が三人へ向き直る。


「正式な請求通知は、本日中に送ります」


「本気かよ」


「契約しましたので」


 南雲の顔が歪む。


「神代、お前、こんな奴だったか?」


 標は少し考えた。


「違うな」


 元の世界の神代標は、こんな人間ではなかった。


 金に興味がない。


 睡眠も食事も求めない。


 命令されれば、どれだけ危険でも従う。


 この世界にいた神代標も、別の意味で似ていた。


 拒否しない。


 怒らない。


 相手へ合わせる。


 自分の価値を、他人に決めさせる。


「だから、以前の俺は無料だった」


 標は言った。


「今は違う」


 南雲たちは、それ以上何も言わなかった。


 周囲の学生が道を開ける。


 三人は視線を下げたまま、廊下を去っていった。


 ◇


 騒ぎが終わっても、見物していた学生たちはすぐに動かなかった。


 誰もが気まずそうに標を見る。


 直接何かをした者だけではない。


 南雲が標へ荷物を押しつける姿を見た。


 昼食を奪う場面を見た。


 訓練後、標一人だけに器材を片づけさせる班を見た。


 笑った者。


 目を逸らした者。


 教師を呼ばなかった者。


 自分には関係がないと考えた者。


 全員が、何かしら覚えている。


 標が反抗しなかったから、問題ではないことにできた。


 今はできない。


「神代」


 真壁直人が、人垣の外から歩いてきた。


 顔が強張っている。


 南雲たちと入れ違いになったらしい。


「今の話、本当なのか」


「ああ」


「ずっと?」


「記録上は六年ほど」


「六年……」


 直人は周囲を見る。


「どうして、誰も」


「気づいていた奴はいる」


「俺は知らなかった」


「そうか」


「言ってくれれば――」


「以前の俺は言えなかった」


「でも」


 直人の手が強く握られる。


「俺は同じ学年だった。訓練も何度も一緒になった。それなのに、何も気づかなかった」


「お前は忙しかった」


「理由にならない」


「なら、何と言えば満足する」


 直人は言葉を失った。


 謝りたい。


 だが、自分が直接傷つけたわけではない。


 それでも、何もしなかった。


 知らなかったという事実そのものが、直人には耐えがたかった。


「すまなかった」


 直人が頭を下げた。


「なぜ、お前が謝る」


「見ていなかったからだ」


「謝罪はいらない」


「神代」


「お前の謝罪で、前の俺の金は戻らない」


 標は責めていない。


 慰めてもいない。


 ただ事実を言う。


「次に気づけ」


「次?」


「誰かが同じことをされていたら、今度は見落とすな」


 直人が顔を上げる。


「それでいいのか?」


「俺には関係ない」


「でも――」


「過去を変えられるのか?」


「変えられない」


「なら、次に使え」


 直人はしばらく標を見ていた。


 やがて、強く頷く。


「ああ」


「それから」


「何だ?」


「俺の代わりに南雲を殴るな」


「……考えていた」


「損害賠償が複雑になる」


「そこなのか?」


「他に何がある」


 直人は困ったように笑った。


 だが、その笑みはすぐに消える。


「神代。今までのこと、本当に何とも思っていないのか」


 標は保管庫の扉を見る。


 消した傷。


 残った凹み。


 この身体は覚えている。


 南雲の足音を聞いたとき、肩が僅かに強張った。


 胸元へ手が伸びたとき、反射的に身を引こうとした。


 元の世界の自分なら、あり得ない反応だった。


「俺は、何とも思っていない」


 標は答えた。


「ただ」


 扉へ指を触れる。


「この身体は、あいつらが嫌いらしい」


 直人には意味が分からない。


 標も説明しなかった。


「なら、その分は回収する」


 金で。


 拒否で。


 二度と無料で使わせないことで。


 それが以前の神代標にとって救いになるかは分からない。


 だが、少なくとも同じことは繰り返さない。


 ◇


 昼休み。


 標が第一食堂へ入ると、空いている席がいくつもあった。


 それでも、誰も標の近くには座っていない。


 以前とは理由が違う。


 かつては、関わる価値がないから。


 今は、どう接すればよいか分からないから。


 標は気にせず、最も高い肉料理を選んだ。


 窓際の席へ座る。


 数分後、六波羅綾音が正面へ座った。


「食事代はご自分でお願いします」


「分かっている」


「今日は会社の商談ではありません」


「それも分かっている」


 綾音は日替わり定食を置く。


「南雲さんたちへ、正式な請求通知を送りました」


「反応は」


「柴崎さんから、分割払いの相談が来ています」


「利息は」


「最初に取らないと言いましたよね」


「分割なら話が違う」


「では、支払期間が一か月を超える場合は年利三パーセント」


「五」


「法定範囲内でも、印象が悪いです」


「三でいい」


「大戸さんは、保護者へ相談するそうです」


「二十三歳だろ」


「本人に支払い能力がないのでしょう」


「南雲は」


「まだ返答なしです」


「七日待て」


「分かりました」


 綾音は味噌汁を飲む。


 標は肉を切る。


 会話が途切れる。


 気まずさはない。


 互いに、無理に話題を探さない。


「六波羅」


「何です?」


「お前は知っていたか」


「いじめのことですか」


「ああ」


 綾音は箸を置いた。


「正確には、知りませんでした」


「そうか」


「神代君が、他の学生の荷物を運んでいるところは見たことがあります」


「止めなかった」


「本人が引き受けた雑務だと思っていました」


「実際、引き受けていた」


「断れない状態だったことには、気づきませんでした」


 綾音は言い訳をしなかった。


「今なら止めるか?」


「内容によります」


「善意では動かないのか」


「神代君が一方的に不利益を受ければ、現在の契約事業に支障が出ます」


「利益のためか」


「はい」


 綾音は即答した。


「ただし」


 続ける。


「今後、神代君が不合理な条件を押しつけられていると分かれば、契約がなくても不快には思うでしょう」


「なぜ」


「知っている人間が不当に扱われるのは、気分が悪いからです」


「利益にならなくても?」


「その程度の感情はあります」


 標は綾音を見る。


「恋愛感情ではありませんよ」


「聞いていない」


「念のためです」


「俺もない」


「知っています」


 二人は同時に食事へ戻った。


 近くの席で聞き耳を立てていた学生が、何とも言えない表情をしている。


 綾音は気にしなかった。


「神代君」


「今度は何だ」


「今朝の件を知った生活指導部から、過去の状況について面談依頼が来ています」


「断る」


「学校側には、調査義務があります」


「八年間放置した後で?」


「だからこそ、記録に残すべきです」


「時間は」


「一時間程度」


「有料か」


「学校の手続きです」


「また無料か」


「請求額の回収に有利になる可能性があります」


「なら行く」


「本当に判断基準が一貫していますね」


「感情で決めるより安全だ」


 標は肉を食べ終える。


 空になった皿を見た。


 以前のこの身体は、昼食を取れない日が何度もあった。


 金を渡して。


 食券を奪われて。


 購買へ行かされ、戻る頃には休憩時間が終わっていた。


 今は違う。


 自分で選んだ料理を、自分で払って食べた。


 誰にも取られない。


「うまかった」


 標は小さく呟いた。


「今日も費用対効果は高かったですか?」


 綾音が尋ねる。


「ああ」


 それだけでいい。


 ◇


 午後の授業前。


 八年生全員が大講義室へ集められた。


 教壇には榊原宗一郎と、実習主任の教員。


 壁面には、都市郊外の航空映像が表示されている。


 中央には、巨大な戦闘跡。


 崩壊した建物。


 複数の防壁。


 黒く変色した地面。


 仮設の監視施設。


「来週予定されていた卒業実地訓練について、内容を変更する」


 講義室がざわつく。


「訓練場所は、茨城県第十七天穴管理区域」


 天穴管理区域。


 過去に天穴が発生し、外相種との戦闘が行われた地域。


 コア保持個体が討伐されたことで、天穴自体はすでに消滅している。


 残っているのは、戦闘跡と汚染。


 逃走した低位外相種。


 崩壊した地下設備。


 不安定な魔力反応。


 天穴が今も開いているわけではない。


 当然、人間が穴の中へ入る訓練でもなかった。


「当初は、区域外周部での救助・補給訓練を予定していた」


 画面が切り替わる。


 管理区域内の地下施設。


 旧避難通路。


 破壊された物流設備。


「しかし三日前、地下管理区画で空間歪曲反応が再検出された」


 学生たちの表情が変わる。


「新規天穴の発生は確認されていない。コア反応もない。現時点では、過去の外相汚染による残留現象と判断されている」


 天穴は、門を維持するコア保持個体を倒せば消える。


 穴だけが残り、内部を探索できるわけではない。


 だが、天穴が開かれていた土地には、空間の歪みや外相種の残骸が残ることがある。


「訓練は予定どおり行う。ただし、活動区域を外周から旧地下管理区画まで拡大する」


 訓練内容が表示される。


 残存外相種の捜索。


 汚染環境での行動。


 模擬負傷者の救出。


 補給経路の確保。


 空間異常の観測。


 撤退判断。


「現役天蓋士および教員が同行する。空間反応が規定値を超えた場合、訓練は即時中止する」


 新しい天穴が発生すれば、学生実習どころではない。


 専門部隊が出動し、降下する外相種を迎撃。


 コア保持個体を特定し、討伐する必要がある。


「班編成は、能力評価と安全性を考慮して再編する」


 学生たちの端末へ通知が届く。


 標も画面を見る。


《卒業実地訓練・第七班》


《神代標》


《真壁直人》


《鳳城麗華》


《冬月澪奈》


《南雲拓也》


 標の視線が、最後の名前で止まる。


 講義室の別の場所。


 南雲も端末を見て、顔を上げた。


「先生!」


 南雲が立ち上がる。


「この班編成は――」


「評価結果をもとに決定した」


 実習主任が答える。


「真壁が前衛。鳳城が火力と障壁。冬月が制圧。南雲が風属性による索敵。神代は空間移動と緊急離脱を担当する」


「俺は、神代と同じ班を希望していません」


「希望調査ではない」


 標も手を上げた。


「俺も断る」


「神代まで何だ」


「南雲の救助は、契約に含まれるのか?」


 講義室が静まる。


「班員を救助するのは当然だ」


「当然ではない」


「学校実習だぞ」


「そいつは俺に八万三千四百二十円の未払いがある」


「今は関係ないだろう!」


 南雲が叫ぶ。


「信用できない人間と、通信が不安定な汚染区域へ入る方が問題だ」


 榊原の表情が険しくなる。


 標の言い分は、単なる私怨ではない。


 閉鎖後の管理区域であっても、残存外相種や空間異常が存在する。


 班員同士の信頼が生死を決めることに変わりはない。


 過去に継続的な加害を行い、現在も解決していない相手。


 同じ班へ入れる判断そのものに問題がある。


「編成理由を説明しろ」


 標が言う。


「南雲の風属性索敵が、空間異常と残存個体の発見に有用だからだ」


「他にも風属性はいる」


「実習成績と班全体の均衡を考慮した」


「俺と南雲の関係は考慮したか?」


 実習主任が答えない。


 知らなかった。


 あるいは、知っていても学生同士の小さな問題だと判断した。


「今日、生活指導部へ報告が上がった」


 榊原が口を開く。


「班編成は、その前に決定されている」


「なら変えろ」


「代替要員と他班への影響を確認する」


「それまで保留だな」


「神代」


 実習主任が不快そうに標を見る。


「学校行事を、個人間の金銭問題で左右するつもりか」


「違う」


 標は端末を閉じる。


「安全の問題だ」


「南雲が過去に何をしたかは、今後調査する」


「調査中の人間を、被害申告者と外相汚染区域へ入れるのか?」


 反論はなかった。


 教室の後方。


 鳳城麗華が標を見ている。


 以前なら、規則に従うべきだと言ったかもしれない。


 だが今回は、標の主張が正しい。


「編成変更を支持します」


 麗華が立ち上がった。


「鳳城?」


 実習主任が驚く。


「管理区域では、意図的な妨害でなくとも、連携の遅れが致命的になります。信頼関係に重大な問題がある二名を、同じ班へ入れる合理性がありません」


「しかし、能力構成が――」


「人員配置の都合を、安全より優先するのですか?」


 鳳城家の人間としてではない。


 班員としての意見。


 それでも、国内第二位企業の令嬢の言葉には重みがある。


「私も変更した方がよいと思います」


 冬月澪奈も言った。


「通信障害や空間異常が起きる区域で、班内の対立まで抱えるべきではありません」


 真壁直人は南雲を見る。


 以前なら、仲直りすればいいと言ったかもしれない。


 今は言わなかった。


「俺も反対です」


 三人。


 班員の過半数が編成変更を求める。


 実習主任は表情を硬くした。


「分かった。南雲の配置は再検討する」


「俺は悪くない!」


 南雲が声を上げる。


「昔のことを、神代が急に持ち出しただけだ!」


 標は南雲を見る。


「返せば、一つは終わる」


「一つ?」


「借金は終わる」


「他は?」


「信用は戻らない」


「どうすれば戻るんだよ」


「知らない」


 標は興味を失ったように前を向く。


「考えるのは、お前の仕事だ」


 南雲は立ったまま、何も言えなかった。


 ◇


 講義終了後。


 榊原が標を呼び止めた。


「実地訓練そのものには参加するんだな」


「報酬は?」


「授業だ」


「また無料か」


「卒業要件に含まれる」


「なら仕方ない」


「緊急時には、他の班員も救助しろ」


「可能なら」


「可能でも、金を払わなければ放置するつもりか?」


 標は榊原を見る。


「死にそうなら助ける」


「無料で?」


「その場ではな」


「後から請求するのか?」


「考えていなかった」


 榊原は安堵しかける。


「今、思いついた」


「忘れろ」


「救命後払い制度」


「作るな」


「需要はありそうだ」


「人命救助を商売にするな」


「救助隊も給料をもらっている」


「お前は理屈だけは通すな」


 榊原は額を押さえる。


「今回の訓練場所は、すでに天穴が閉じた管理区域だ。教員と現役天蓋士が同行する。原則として、学生だけで危険へ対処する必要はない」


「それでも事故は起きる」


「ああ」


「現在の区域図は」


「地上部は最新。地下施設は崩落が多く、完全ではない」


「通信は?」


「地上では通じる。地下では不安定になる可能性がある」


「補給は」


「半日分を各自携行。予備物資は外周拠点に置く」


「魔力回復手段は?」


「回復剤を二本ずつ」


「少ないな」


「訓練だ」


「外相汚染は訓練に合わせない」


 標は管理区域の構造図を見る。


 低危険度。


 監視済み。


 教員同行。


 それでも、何かが起きる可能性はある。


 元世界では、「安全な区域」という言葉を信用した者から先に死んだ。


「神代」


「何だ」


「今回の実習で、お前の転移門を補給や撤退へ使えるか検証したい」


「追加業務だな」


「授業の一環だ」


「俺一人だけ役割が増える」


「能力を持つ学生は、それぞれ役割がある」


「鳳城は障壁を張る。冬月は敵を止める。真壁は前に立つ」


「ああ」


「俺は全員の退路と補給を担当する」


「そうなる」


「責任が重い」


 榊原は黙る。


 標の指摘は正しい。


 転移門が使えると分かれば、班員はそれを前提に動く。


 逃げられる。


 物資が届く。


 負傷しても、すぐ医療拠点へ送れる。


 その安心は、標一人へ責任を集中させる。


「別料金だ」


「学校と相談する」


「払う可能性があるのか?」


「お前を便利な無料設備として扱えば、過去と同じだろ」


 標は榊原を見る。


 教師は、保管庫の傷を知ったらしい。


 生活指導部から聞いたのだろう。


「気づくのが遅かったな」


「ああ」


 榊原は否定しなかった。


「教師として失格だ」


「謝罪はいらない」


「分かっている」


「金を払え」


「学校予算で検討する」


 標は少しだけ驚いた。


「本当に払うのか」


「契約額は常識的な範囲にしろ」


「一人一万円」


「高い」


「学生と教員を含めて二十人。補給と緊急撤退の待機料金だ」


「実際に門を使った場合は?」


「別料金」


「お前な」


「安く使うな」


 榊原は反論しようとして、やめた。


 能力が発現する以前の神代標は、優しかったのではない。


 自分を守ることを諦めていただけかもしれない。


「見積書を出せ」


「六波羅を通す」


「授業の見積書を企業経由で出す学生がいるか」


「今いる」


 標は歩き出した。


 その背中を見ながら、榊原は小さく息を吐く。


 人格が変わった。


 確かに変わった。


 だが、以前より悪くなったと、単純には言えなかった。


 ◇


 放課後。


 標の端末へ入金通知が届いた。


《柴崎浩平 返済金二万一千六百円》


 続いてメッセージ。


《今まで悪かった。残りは来月までに払う》


 標は数秒、文章を見る。


 謝罪へ返事はしなかった。


 代わりに綾音へ送る。


《一件入金》


 すぐに返信。


《確認しました。手数料を差し引き、残額を振り込みます》


《早いな》


《契約ですから》


 数秒後。


《神代君》


《何だ》


《過去の神代君が保存していた記録について、まだ未確認の領域があります》


《いくら増えそうだ》


《金額の問題だけではない可能性があります》


 標の指が止まる。


《どういう意味だ》


《企業実習の推薦枠に関する記録です》


 続いて、一つの古い文書が送られてくる。


 二年前。


 校内企業実習の候補者一覧。


 本来、神代標の名前が記載されていた枠。


 零属性魔法の基礎制御を評価した、九曜技研ホールディングスの短期研究補助実習。


 最終提出版では、標の名前が消えている。


 代わりに入っていたのは。


 南雲拓也。


《誰が変えた》


 標が送る。


 綾音からの返信には、少し時間がかかった。


《学生だけでは変更できません》


 教師。


 学校職員。


 あるいは企業との間を取り持つ誰か。


 単なる学生同士のいじめではない。


 以前の神代標は、就職通知を一件も得られなかった。


 能力がなかったから。


 適性が低かったから。


 それだけではない可能性が出てきた。


《調べろ》


《業務範囲外です》


《追加契約》


《成功報酬を希望します》


《何が成功だ》


《推薦枠を変更した人物と、目的の特定》


《いくら》


《基本調査費十万円。学校または企業の不正が確認され、金銭補償を得た場合は補償額の十五パーセント》


《高い》


《相手が学校内部の場合、通常の債権回収より面倒です》


《十パーセント》


《十三》


《十一》


《十二》


《成立》


 契約通知が届く。


 標は署名した。


《調査契約が成立しました》


 標は端末に表示された古い名簿を見る。


 過去の自分。


 能力なし。


 価値なし。


 誰も守らない。


 だから、機会を奪っても問題ないと思われた。


「なるほど」


 標の口元が、ごく僅かに上がった。


 南雲たちの八万円は、小さな話だった。


 推薦枠。


 就職。


 人生。


 それを奪った人間がいるなら。


「高くつくぞ」


 復讐がしたいわけではない。


 ただし。


 未払いは、回収する。


 金でも。


 地位でも。


 失わせた機会でも。


 かつて無料だった男は。


 もう、何一つ見逃すつもりがなかった。


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