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第5話 百二十キロ先の手術室

 三十八万円の仕事には、往復六時間の下見が含まれていた。


「長いな」


 六波羅運輸の社用車に乗り込んだ神代標は、座席を倒しながら呟いた。


「片道二時間半です。途中で休憩も取ります」


 隣に座った六波羅綾音が端末を開く。


「移動中に、今回の契約内容を確認します」


「俺は寝る」


「仕事中ですよ」


「現地に着くまで、俺にできることはない」


「打ち合わせがあります」


「昨日終わった」


「輸送手順の最終確認が残っています」


 標は座席の感触を確かめた。


 六波羅運輸の社用車は、学校の送迎車よりは上等だった。振動制御も悪くない。


 ただし、最高級枕はない。


「一時間三千円」


「何がです?」


「移動中の打ち合わせ料金」


「移動費として八万円を追加しています」


「移動に対する金だ。会話は別だ」


「業務内容の確認は、契約に含まれています」


 標は端末を取り出し、契約書を開いた。


 数秒読む。


「……入っているな」


「当然です」


「なら聞く」


「最初からそうしてください」


 車が学校前を離れる。


 前方には六波羅運輸の運転手。


 後続車には、事業企画部の社員と技術担当者が乗っている。


 今回の仕事は、六波羅運輸にとって単なる試験輸送ではない。


 百二十キロ離れた二つの医療施設を、転移門で接続する。


 成功すれば、同社が門型転移を商業利用した最初の企業になる。


「転移元は、白鷺医療生命機構の関東医療物流センターです」


 綾音が地図を表示する。


「輸送対象は、人工血液製剤四箱。合計重量は二十八キログラム。輸送温度は二度から六度。強い振動と急激な気圧変化は禁止」


「軽いな」


「製剤の価格は一箱八百万円です」


「全部で三千二百万か」


「はい」


「俺の報酬は三十八万」


「運ぶ距離と時間に対する報酬です。積荷の価値に連動させる契約にはしていません」


「次からは連動させる」


「破損時の責任も連動しますよ」


「やめておく」


 標は即座に撤回した。


「判断が早いですね」


「利益より危険が大きい」


「守銭奴というより、リスク管理ですね」


「金を守るから守銭奴なんだ」


 綾音は次の資料を開く。


「転移先は、白鷺医療生命機構東関東中央病院。地下の医療搬入口です」


「手術室へ直接送らないのか?」


「衛生区画の問題があります。搬入口で製剤を検品し、院内物流担当者が手術部へ運びます」


「無駄だな」


「病院には病院の手順があります」


「門の両側を清潔区域にすればいい」


「今回は初回です。既存の手順を変えません」


「時間がかかる」


「通常輸送よりは十分早いです」


 標は地図を見る。


 物流センターから病院まで百二十キロ。


 現在は、小規模な天穴の発生によって高速道路の一部が閉鎖されている。


 迂回すれば五時間以上。


 航空路も規制中。


 だからこそ、六波羅運輸は標の転移門を提案した。


「手術開始は三日後の午前十時」


「製剤の到着予定は九時」


「八時半に門を開き、九時までに検品を終えます」


「遅れる可能性は?」


「神代君が寝坊しなければ」


「起こせ」


「目覚ましを使ってください」


「業務責任者だろ」


「私は目覚まし係ではありません」


「責任放棄だな」


「業務範囲外です」


 綾音は平然と答えた。


 標は少しだけ口元を緩める。


 曖昧な善意ではなく、契約範囲で返してくる。


 扱いやすい。


「現地で確認するのは?」


「転移先の座標、障壁、搬入口の広さ、警備術式、周囲の魔力密度」


「病院側への説明は?」


「新型の空間輸送技術とだけ伝えています。神代君個人の能力であることは、現場責任者以外には開示しません」


「隠し通せるか?」


「無理でしょう」


「正直だな」


「門を開けば分かります。今回は、公開されるまでの時間を稼いでいるだけです」


 東海道国際物流機構。


 鳳城総合産業。


 天城重工連合。


 すでに複数の大企業が標の能力を探り始めている。


 正式登録が終われば、政府も動く。


 六波羅運輸に残された先行期間は短い。


「その間に実績を作るのか」


「はい」


「俺を逃がさないために?」


「逃げられても、最初の実績は残ります」


「乗り換えてもいいと?」


「止められませんから」


 綾音は窓の外へ視線を向けた。


「ですが、他社へ移るより、六波羅と組む方が得だと思わせるつもりです」


「できるのか?」


「私の仕事です」


「なら働け」


「言われなくても働いています」


 標は目を閉じた。


「着いたら起こせ」


「打ち合わせは?」


「終わっただろ」


「まだ途中です」


「必要なことは聞いた」


「こちらからの確認が残っています」


「俺は寝る」


 数分後、本当に寝息が聞こえ始めた。


 綾音は標の横顔を見る。


 昨日までとは別人。


 尊大。


 金に細かい。


 働かない。


 だが、自分が引き受けた仕事に関しては、細部まで確認する。


 信用できないようで、契約相手としては信用できる。


 少なくとも、善意を理由に条件を変える者よりは。


「よく眠れますね」


 綾音は小さく呟いた。


 標は答えなかった。


 ◇


 東関東中央病院は、地方都市の中心部に建つ巨大医療施設だった。


 白い建物が複数連結され、屋上には救急用航空艇の発着場がある。


 敷地外周には、外相種の襲撃を想定した防護障壁。


 地下には災害時にも稼働できる独立魔力炉。


 白鷺医療生命機構が運営する、地域最大の基幹病院だった。


 標たちは、地下医療搬入口へ案内された。


「ここへ門を開きます」


 綾音が病院側の責任者へ説明する。


 対応に出たのは、医療物流部長の坂東と、魔導設備主任の女性だった。


 二人とも、標を見て困惑を隠せていない。


「この学生が、新型輸送設備を操作するのですか?」


 坂東が尋ねる。


「設備ではなく、能力です」


「能力者個人による輸送?」


「詳細は機密契約に含まれます」


「安全性は」


「学校内で、精密機器の転送試験に成功しています」


「百二十キロは初めてでしょう」


「はい」


 綾音は嘘をつかない。


「失敗する可能性があるということですか?」


「既存の陸路輸送にも事故の可能性があります」


「同列には扱えません」


 坂東の反応は当然だった。


 未知の能力。


 初めての長距離転移。


 しかも運ぶのは高価な医療物資。


「失敗した場合は、六波羅運輸が契約上の責任を負います」


「患者への影響は、金銭で補償できません」


「だから下見に来ています」


 綾音の声は落ち着いている。


「無理だと判断した場合、契約は中止します」


 坂東は標を見る。


「あなた自身は、成功すると思っていますか?」


「する」


「根拠は?」


「短いからだ」


「百二十キロが?」


「ああ」


 坂東が眉を寄せる。


「昨日まで、転移能力を使っていなかったと聞きました」


「この身体ではな」


「この身体?」


「言い間違いだ」


 標は会話を切り上げ、搬入口の中央へ歩いた。


 天井高は四メートル。


 幅は大型搬送車両が二台通れる程度。


 床には振動吸収材。


 周囲の警備術式は、空間変動を感知すると自動で隔壁を閉鎖する。


「この警報を止めろ」


 標が魔導設備主任へ言う。


「防護術式を停止することはできません」


「止めなければ、門を開いた瞬間に隔壁が閉じる」


「空間異能を検知した場合の安全装置です」


「今回は、その空間異能を使う」


「警報だけ解除し、封鎖機能は残せます」


「それでいい」


 設備主任が端末を操作する。


 標は床へ手を触れた。


 空間の位置。


 建物の魔力配線。


 地下魔力炉の振動。


 周囲の質量。


 転移先として必要な情報を記憶する。


 その途中、別の魔力が感覚へ触れた。


 病院の上階。


 異常なほど強い治癒属性。


 同時に、ひどく不安定。


 巨大な力を、枯れる寸前まで使い続けている。


「上に何がいる」


 標が尋ねる。


「何の話です?」


 坂東が答える。


「強い治癒術師だ」


 坂東と設備主任が一瞬、顔を見合わせた。


「白峰様が、現在こちらで治療支援に入っています」


「白峰?」


「白峰アリエル。聖女のことを知らないのですか?」


「知らない」


 坂東が信じられないものを見るような顔をする。


 綾音が標へ小声で説明した。


「世界最高峰の治癒能力者です。白鷺医療生命機構の特別管理対象。重症患者や大規模災害への派遣を担当しています」


「管理対象?」


「所属職員とは少し違います」


「所有物か」


「言い方を選んでください」


 標は上階へ意識を向ける。


 魔力が薄い。


 能力そのものは強大だが、燃料が残っていない。


 それでも術式を止めず、身体の内側から何かを削っている。


「補給しないのか」


「治癒術師用の魔力回復剤は使用しているはずです」


 綾音が答える。


「薬か」


「他に何があるんです?」


 標は黙った。


 この世界には、まだないのか。


 元の世界なら、前線の治癒術師へ魔力を供給する手段はいくつもあった。


 蓄魔器を転移させる。


 補給担当者ごと送り込む。


 魔力伝送能力者が作ったパスを、転移門で前線へつなぐ。


 術者自身の魔力を消耗させ続けるなど、補給計画の失敗だった。


 だが、今ここで話す意味はない。


 蓄魔器が存在しないなら、説明してもすぐには使えない。


 何より、その情報には価値がある。


「どうしました?」


「何でもない」


 標は立ち上がる。


「座標は取った」


「これだけで?」


 設備主任が尋ねる。


「ああ」


「測定装置は使わないのですか?」


「俺が覚えた」


「人体の記憶だけで、百二十キロ先と接続するつもりですか?」


「そうだ」


 坂東の顔から、さらに不安が増える。


「六波羅さん。本当に大丈夫なのですか?」


 綾音は標を見る。


「神代君」


「何だ」


「大丈夫ですか?」


「ああ」


「根拠は?」


「十一年、一度も座標を間違えていない」


 綾音が僅かに目を細めた。


 また十一年。


 標の年齢とは合わない経歴。


 ただし、今は追及しない。


「大丈夫だそうです」


「それを信じるのですか?」


 坂東が問い返す。


「契約相手としては」


 綾音は答えた。


「少なくとも、自信がない仕事を安く引き受ける人ではありません」


「褒めているのか?」


 標が尋ねる。


「半分ほどは」


 ◇


 輸送当日。


 午前八時二十分。


 関東医療物流センターの清潔搬送室に、四箱の人工血液製剤が並べられていた。


 室温。


 気圧。


 空気中の微粒子。


 すべて規定範囲内。


 六波羅運輸の社員が、箱の識別番号と温度記録を確認している。


 標は部屋の中央で椅子に座り、朝食のパンを食べていた。


「開始十分前ですよ」


 綾音が言う。


「だから食べている」


「緊張感はないんですか?」


「百二十キロだぞ」


「一般人にとっては長距離です」


「転移に距離は関係ない」


「魔力消費は増えるのでは?」


「増える。だが、この程度ならほとんど変わらない」


 標は最後の一口を食べ、水を飲む。


「遠い場所へ飛ばすから難しいわけではない」


「では何が難しいんです?」


「正確な座標がないこと。転移先が動くこと。空間障壁があること。門の途中へ別の空間が干渉すること」


「距離は優先順位が低い?」


「ああ」


「昨日までの物流理論が泣きますね」


「泣かせておけ」


 午前八時二十九分。


 病院側から準備完了の連絡。


 清潔搬送室の映像が、壁面へ表示される。


 転移先の地下搬入口。


 坂東。


 設備主任。


 医療物流担当者。


 さらに複数の警備員が待っている。


「契約条件を確認します」


 綾音が記録端末を起動する。


「人工血液製剤四箱を、東関東中央病院の指定区画へ転移輸送。輸送中の温度変化一度未満。衝撃値は規定範囲内。午前九時までに引き渡し完了」


「報酬三十万円」


「現地下見費八万円。合計三十八万円」


「支払い時期は」


「完了確認後、即時」


「いい」


 標が立ち上がる。


《契約作業を開始します》


 右手を上げる。


 清潔搬送室の空気が、僅かに揺れた。


 黒い線が縦に走る。


 昨日より大きい。


 高さ三メートル。


 幅二・五メートル。


 線が左右へ開く。


 その向こうに、百二十キロ離れた病院の地下搬入口が現れた。


 映像ではない。


 病院側の空気が、わずかに流れ込んでくる。


 百二十キロという距離が消え、二つの部屋が一枚の扉で接続された。


 初めて実物を見た六波羅運輸の社員たちが、言葉を失う。


 病院側でも、坂東が動けずにいた。


「圧力差、〇・二」


 標が呟く。


 無属性魔法を門の境界へ流し、両側の空気を調整する。


「温度差、三・四度。通過中だけ隔離する」


 門の内側に、薄い魔力膜を形成。


 外気は混ざらない。


 人と物だけが通る。


「搬送開始」


 綾音が指示を出す。


 六波羅運輸の社員が、専用台車を押す。


 一箱目。


 門を通過。


 二箱目。


 三箱目。


 四箱目。


 百二十キロの移動に要した時間は、二十三秒。


「全品到着」


 病院側の担当者が箱を確認する。


「温度変化、〇・一度未満」


「衝撃記録、基準値以下」


「封印、異常なし」


「識別番号、一致」


 標が門を閉じようとしたとき。


 病院側の奥から、一人の看護師が駆け込んできた。


「坂東部長!」


「どうした」


「手術患者が急変しました。予定を繰り上げ、すでに手術室へ入っています」


「製剤は到着した。すぐ運べ」


「それが……」


 看護師が息を整える。


「人工血液だけでは足りない可能性があります。術前検査で想定されていなかった抗体が判明しました」


 坂東の顔色が変わる。


「適合製剤は」


「中央センターに二箱あります。ただし、こちらへ届いている四箱とは種類が違います」


 全員の視線が、開いたままの門を通じて物流センター側へ向く。


 百二十キロ先。


 中央センター。


 適合製剤は、門のすぐ近くにある。


「追加契約だな」


 標が言った。


「今、この状況で金の話をするんですか?」


 坂東が声を荒らげる。


「今だからだ」


「患者が出血しているんです!」


「だから条件を一秒で決めろ」


 標の声が変わった。


 怠そうな学生の声ではない。


 迷いのない、指揮官の声。


「誰が決裁者だ」


「私です」


「必要な物は製剤二箱だけか」


「血液型判定の専門技師も必要です。こちらの当直技師では特殊抗体への対応経験が足りない」


「中央センターにいるか」


 綾音が即座に職員へ確認する。


「二名います」


「必要な機材は」


「小型検査装置一台。重量四十キログラム」


 標は坂東を見る。


「製剤二箱。専門技師二人。検査装置。手術部前まで直接運ぶ」


「直接?」


「この搬入口で検品して運べば遅い」


「清潔区域へ外部の空間を接続する許可は――」


「患者が死ぬまで会議をするのか」


 坂東が言葉を失う。


「門の両側を清潔区画にする。圧力と空気は混ぜない。通るのは指定した人間と物だけ」


「そんな制御ができるのですか?」


「できる」


「安全性は」


「今、四箱を運んだ」


「手術部は別です」


「断るなら閉じる」


 標は門へ指を向けた。


「選べ。既存手順で間に合うなら、俺の仕事は終わりだ」


 坂東は数秒迷い、端末を取り出す。


「追加費用はいくらです」


「二十万円」


 綾音が標を見る。


 緊急案件としては安い。


「神代君」


「交渉する時間が惜しい」


「……分かりました」


 標は坂東へ告げる。


「輸送完了まで二十万円。治療結果は契約外。俺の転移が原因で物資や人員に損害が出た場合は返金。医療側の判断は病院の責任」


「受けます」


「音声記録」


 綾音が端末を掲げる。


「東関東中央病院、坂東医療物流部長による緊急追加輸送依頼。報酬二十万円。条件は今の内容で相違ありませんか?」


「ありません」


「神代標、受諾しますか?」


「受ける」


《緊急契約を記録しました》


 標は門を維持したまま、転移先を組み替える。


「手術部前の映像を出せ」


 病院側の設備主任が端末を操作する。


 清潔廊下。


 位置情報。


 設備図。


 術式障壁。


 標は画面へ手を触れた。


「映像だけで開くのですか?」


 綾音が尋ねる。


「一度、同じ建物の座標を取っている。内部位置なら補正できる」


「昨日は現地確認が必要だと」


「初回の長距離で、人命が関わるからだ」


 標の額へ、僅かに汗が浮かぶ。


 百二十キロ先。


 建物内部。


 未訪問区画。


 障壁。


 空調圧。


 移動する人間。


 複数の条件を同時に処理する。


 それでも、元世界の戦場よりは簡単だった。


 砲撃はない。


 空間を食う外相種もいない。


 転移経路へ干渉する敵もいない。


「接続する」


 病院側の門が一度閉じる。


 次の瞬間。


 手術部前の清潔廊下に、黒い線が現れた。


 線が開く。


 中央センターと手術部が直接つながる。


「技師を通せ」


 二人の専門技師が、防護衣を着たまま門へ入る。


 続いて検査装置。


 追加製剤。


 標は通過する物だけを選別し、空気と微粒子を境界で遮断する。


 中央センターの室温は四度。


 手術部前は二十三度。


 それでも両側の空気は混ざらない。


 廊下の職員が、突然現れた別施設を見て立ち尽くしている。


「止まるな!」


 標が怒鳴る。


「運べ! 患者が待っているんだろ!」


 その声で、職員たちが動き出す。


 製剤が手術室へ運ばれる。


 専門技師も続く。


 検査装置が通過。


 全員が門を抜けたことを確認し、標は接続を閉じた。


 経過時間。


 追加依頼から一分四十七秒。


「終了だ」


 標は椅子へ座る。


 綾音が携帯測定器を標の首元へ当てる。


「侵食率、変化なし」


「言っただろ」


「魔力は?」


「二パーセントほど使った」


「少なすぎませんか?」


「空間を動かしているわけではない」


「どういう意味です?」


「説明は別料金だ」


 標は水を受け取り、一口飲む。


 中央センターの職員は、誰も声を出せなかった。


 百二十キロ。


 二つの医療施設。


 清潔区画同士の直接接続。


 物資。


 人員。


 機材。


 すべてが数分で移動した。


 これは高速輸送ではない。


 輸送工程そのものが消えている。


 綾音の端末が鳴った。


 病院からの通信。


《追加製剤の適合確認が完了しました》


《手術を継続します》


 続いて、坂東の声。


《神代さん》


「何だ」


《ありがとうございました》


「契約だ」


《それでもです》


「報酬を払え」


 通信の向こうで、坂東が一瞬黙る。


《すでに支払い処理を行いました》


 標の端末へ通知が届く。


《基本輸送報酬 三十万円》


《現地下見費 八万円》


《緊急追加輸送報酬 二十万円》


《合計入金額 五十八万円》


「悪くない」


 標は残高を確認する。


「枕と寝台が買える」


「今、患者の命を救った直後ですよ」


 綾音が呆れたように言う。


「救ったのは医者だ」


「必要な物を届けたのは神代君です」


「俺が手術をしたわけではない」


「少しは達成感を持ったらどうです?」


「持っている」


「顔に出ていません」


「五十八万円増えた」


「そちらの達成感ですか」


「患者が死ななかったなら、次の依頼も来る」


「最低ですね」


「利益が一致しているだろ」


 標は椅子へ深く座った。


 命が助かる。


 実績が増える。


 報酬が入る。


 全員が得をしている。


 何も問題はない。


 ◇


 手術は、六時間後に終了した。


 患者は生存。


 追加製剤がなければ、手術中止か、重篤な合併症が避けられなかった可能性が高い。


 白鷺医療生命機構は、正式な報告書を作成した。


 百二十キロの緊急医療輸送。


 所要時間二十三秒。


 追加人員と機材の移送、一分四十七秒。


 温度変化なし。


 輸送事故なし。


 ただし、報告書の公開範囲は限定された。


 門型転移能力者の存在が公表されれば、混乱は避けられない。


 それでも、白鷺の上層部へ情報が届くのは止められなかった。


 手術終了後。


 東関東中央病院の休憩室で、一人の少女が報告を聞いていた。


 長い白銀の髪。


 白を基調とした治療衣。


 細い手首には、侵食率と魔力残量を測定する複数の端末が巻かれている。


 白峰アリエル。


 聖女。


 この日も別の重症患者へ治癒術を使い続け、顔色は悪かった。


「百二十キロ先から、一分以内に……?」


「はい」


 看護師が答える。


「人工血液だけではありません。専門技師と検査装置も、手術部前へ直接送られました」


「転移能力者ですか?」


「詳細は非公開ですが、おそらく」


 アリエルは窓の外を見る。


 転移能力。


 遠くの場所をつなぐ力。


 もし、患者を運べるなら。


 治療設備ごと運べるなら。


 災害現場と病院を直接つなげるなら。


 自分が、すべての場所へ派遣される必要もなくなるかもしれない。


 そう考えた直後、手首の端末が警告を発した。


《魔力残量低下》


《継続的な能力使用を中止してください》


 アリエルは表示を消す。


「白峰様、休まれた方が」


「次の患者さんが待っています」


「今日だけでも、すでに七件です」


「私にしかできませんから」


 立ち上がった身体が、一瞬ふらつく。


 看護師が支える。


「大丈夫です」


 アリエルは微笑んだ。


 笑う以外の選択肢を、最初から与えられていないような微笑みだった。


 ◇


 同日の夜。


 六波羅運輸本社。


 社長室で、六波羅智成は医療輸送の記録を繰り返し見ていた。


「物資だけではないか」


「はい」


 正面に立つ綾音が答える。


「人員と検査装置を含め、手術部前へ直接接続しました」


「清潔管理は」


「門の境界を零属性魔法で隔離。両側の空気は混ざっていません」


「そんなことまでできるのか」


「本人は、難しいとは思っていないようです」


 智成は映像を止める。


 門の向こうに、百二十キロ離れた手術部が見える。


「これは物流ではないな」


「物流でもあります」


「それだけではない」


 智成は椅子へ背を預けた。


「工場と倉庫。病院と災害現場。基地と前線。必要な場所を、その場で接続する」


「はい」


「神代標そのものが、移動可能な社会基盤になる」


 道路。


 鉄道。


 港湾。


 航空路。


 それらを一人で代替できる。


 しかも、単に物を運ぶだけではない。


 人間。


 設備。


 作業空間。


 二つの場所を、一時的に同じ場所へ変える。


「東海道が必死になるわけだ」


「本日の実証結果は、まだ伝わっていないはずです」


「すぐ知られる」


「でしょうね」


「綾音」


「はい」


 智成は少し迷った。


 経営者としては、考えなければならない。


 父親としては、口にするべきではない。


「彼を、もっと強く六波羅へつなぎ留める方法はないか」


「契約条件と実績を積み重ねます」


「契約は、より高い条件で奪われる」


「六波羅にしか提供できない価値を作ります」


「それでも足りなければ」


 智成は言葉を選び、失敗した。


「結婚などで、つなぎ留めることはできないか?」


 沈黙。


 自分の口から出た言葉を理解し、智成は額を押さえた。


「……すまん。今のは失言だった。実の娘にする話ではないな」


「いえ」


 綾音は表情を変えなかった。


「その考えは、私にもあります」


 智成が顔を上げる。


「あるのか?」


「婚姻によって長期的な利害関係を固定することは、経営上合理的です。神代君の能力規模を考えれば、検討対象から外す理由はありません」


「そ、そうか」


 娘があまりにも冷静なため、智成の方が動揺した。


「お前自身は、それでいいのか?」


「現状、恋愛感情が全く湧かないという一点だけが気がかりですが、私にとって有益であるとは判断しています」


「全く、か」


「はい」


「嫌っているわけでは?」


「人としては嫌いではありません。契約相手としては信用できます。利益も一致しています」


「だが、恋愛感情はない」


「皆無です」


 即答だった。


 智成は咳払いする。


「彼は、何と言っている」


「まだ聞いていません」


「反応は予想できるか?」


 綾音は少し考える。


「……向こうからも、恋愛感情を一切感じないことが懸念点でした」


「そこが懸念なのか」


「婚姻を提案しても、利益計算だけを始める可能性があります」


「お前も同じではないか」


「だから困っています」


 綾音は真剣だった。


「どちらか一方に感情があれば、まだ関係を深める余地があります。現状は互いに、相手を収益性の高い契約先としか見ていません」


「そこまで断言できるのか?」


「本日の帰り、神代君は私ではなく、入金通知を見て笑っていました」


「なるほど」


「私も、神代君の横顔ではなく、次回の契約単価を考えていました」


「よく分かった」


 智成は結婚案を一度頭から外した。


 少なくとも、今すぐ進める話ではない。


「無理に個人的な関係へ持ち込むな」


「当然です」


「関係が壊れれば、会社の損失になる」


「私も同じ判断です」


 父娘の会話に、色気は一切なかった。


 あるのは、契約と利益とリスクだけだった。


「ただし」


 綾音が続ける。


「信頼関係は作ります」


「恋愛ではなく?」


「はい」


「彼に、六波羅を切れば損をすると理解させる?」


「それだけではありません」


 綾音は医療輸送の映像を見る。


 緊急事態の中で、標は迷わなかった。


 金の話をした。


 条件を決めた。


 そのうえで、誰より早く患者に必要な物を届けた。


「神代君は、契約を守る相手を裏切りません」


「そう見えるか」


「少なくとも、自分から契約を破る人ではありません」


「なら我々も破らない」


「はい」


「それが、結婚より強いつながりになるかもしれんな」


 智成が言う。


 綾音は頷いた。


「私も、そう思います」


 ◇


 その頃。


 神代標は、寝具店の試用台で仰向けになっていた。


 頭の下には、三万二千円の最高級枕。


 背中には、自動硬度調整機能付きの高反発寝台。


「両方買う」


 店員が笑顔を見せる。


「ありがとうございます」


「配送は今日中に」


「特急配送は追加で一万二千円です」


 標は眉を寄せた。


「高いな」


「通常配送でしたら三日後です」


 三日。


 今夜も、あの硬い寝台で眠ることになる。


 標は数秒考えた。


「俺が運ぶ」


「お客様が?」


「ああ」


 標は購入手続きを終え、展示品ではない梱包済みの商品を倉庫から出してもらった。


 最高級枕。


 高反発寝台。


 総額四十八万円。


 店員が戸惑う中、標は商品の横へ黒い門を開く。


 門の向こうには、学生寮の自室。


「配送費、一万二千円」


 標は値札を見るように、開いた門を見る。


「なるほど」


 店員が尋ねる。


「何がですか?」


「自分に払えば、無料だ」


 寝台を門へ押し込む。


 続いて枕。


 転移完了。


 標は門を閉じた。


 五十八万円を稼ぎ。


 四十八万円を使った。


 残りは十万円。


「また稼ぐ必要があるな」


 標は満足そうに呟いた。


 百二十キロ先の患者を救った日。


 彼が最も喜んだのは。


 今夜から、柔らかい寝台で眠れることだった。


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