第4話 値段のつかない門
六波羅綾音が指定した店は、学生が昼食に使う場所ではなかった。
学校から徒歩十分。
高層複合施設の二十三階。
入口には受付があり、制服姿の学生だけで入れば、間違いなく呼び止められる。
神代標は、エレベーターを降りてすぐ足を止めた。
正面の壁には、金属製の案内板。
個室会食。
企業商談。
接待。
会員制。
窓の向こうには、遠くまで都市が見渡せる。
「昼食にしては大げさだな」
「今日は六波羅運輸との正式な商談です」
隣を歩く綾音が答える。
制服ではない。
濃紺のスーツ。
髪も普段より整えられ、学生というより若い社員に見える。
「昨日は学生同士の試験契約でした。今日は会社として、神代君へ協力を依頼します」
「昼食代は二千円までだったはずだ」
「昨日の契約です。今日は会社持ちなので、気にしなくて結構です」
標は足を止めた。
「無料か?」
「商談費です」
「後から契約を迫るための食事では?」
「契約しなくても返還を求めません」
「書面は」
「必要ですか?」
「欲しい」
綾音は一瞬、標の顔を見た。
「本気ですか?」
「無料の食事ほど高い物はない」
「分かりました。会食費について、契約成立の有無を問わず返還義務なしと追記します」
「なら食べる」
「あなたは本当に……」
綾音は言葉を切り、端末を操作した。
短い電子合意書が送られてくる。
標は内容を読み、署名する。
《会食費に関する返還義務は発生しません》
「これでいいですか?」
「ああ」
「まだ料理も見ていないのに、警戒しすぎです」
「食べた後では遅い」
二人が個室へ入ると、すでに三人の男女が待っていた。
中央に座る五十代の男。
小柄だが姿勢がよく、黒いスーツに目立たない銀の時計を着けている。
六波羅運輸代表取締役社長。
**六波羅智成**。
綾音の父親だった。
その左右には、短髪の男性社員と、眼鏡をかけた女性が座っている。
「神代標君だね」
智成が立ち上がった。
綾音と顔立ちは似ていない。
ただ、相手を値踏みするような目だけは同じだった。
「六波羅智成です。娘が世話になっている」
「昨日、初めて金をもらいました」
「聞いている」
「一万五千円でした」
「それも聞いた」
「安かった」
男性社員の眉が動く。
眼鏡の女性は無表情のまま端末へ視線を落とした。
智成だけが笑った。
「娘も、二度目は同じ金額で頼めないと言っていた」
「理解のある社長ですね」
「そうでなければ、三十一位まで会社を残せていない」
総合三十一位。
国内物流部門では七位。
大企業ではない。
だが、天穴周辺や危険区域への精密輸送で生き残ってきた企業だ。
巨大な港も、専用鉄道も、軍用空港も持たない。
それでも依頼ごとに複数の輸送業者、倉庫、警備会社を組み合わせ、他社が嫌がる仕事を引き受けてきた。
「座ってくれ」
標は智成の正面へ座った。
綾音がその隣。
残る二人は、六波羅運輸の事業企画部長と法務責任者だと紹介された。
「料理は先に頼むかね?」
「頼みます」
「商談より先に?」
「冷めると価値が下がる」
智成は再び笑った。
「何が食べたい」
標は端末へ表示された献立を見る。
肉。
魚。
麺。
複数の料理が並んでいる。
最も高い料理は、厚切りの牛肉と複数の前菜がついたコースだった。
「これにする」
「迷わないんですね」
綾音が言う。
「会社持ちだからな」
「遠慮という言葉は?」
「無料でいいと書面にしたのはお前だ」
「書面を作ったことを少し後悔しています」
「契約は守れ」
「守ります」
綾音も同じ料理を選ぶ。
智成はそれを見て、娘へ視線を向けた。
「お前まで一番高い物を選ぶのか」
「会社持ちですから」
「似ているな」
「誰とです?」
「いや」
智成はそれ以上言わなかった。
料理が届くまでの間、法務責任者が小型端末を机の中央へ置いた。
「昨日の試験記録を確認させていただきました」
画面に映像が表示される。
黒い線が開き、別棟の地下室が現れる。
二百八十キログラムの零属性干渉計が門を通過。
所要時間二十七秒。
損傷なし。
振動値は専門業者による搬送基準以下。
「映像加工は?」
事業企画部長が尋ねた。
「していない」
「異能による幻覚や認識阻害の可能性は?」
「知らない」
「神代君」
綾音が小声で注意する。
「何だ」
「もう少し丁寧に答えてください」
「質問の答えは、していない、だ」
事業企画部長は標の態度を気に入っていないらしい。
しかし社長の前で感情は出さない。
「学校側の監視記録、転移前後の装置情報、第三者の証言は一致しています」
法務責任者が補足する。
「現時点では、映像の改ざんを疑う根拠はありません」
「なら、なぜ聞いた」
標が尋ねる。
「会社として当然の確認だ」
事業企画部長が答える。
「世界にほとんど例のない能力を、高校生が突然使ったと言われて、そのまま信じる経営者はいない」
「ここは大学校に近い。俺は二十三歳だ」
「論点はそこではない」
「俺もそう思う」
事業企画部長が何か言い返そうとする。
智成が手を上げて止めた。
「神代君。君は昨日、どの程度の力を使った?」
「ほとんど使っていない」
「具体的には?」
「今の身体で扱える魔力の一パーセント未満」
室内が静かになる。
綾音も初めて聞いたらしく、標を見る。
「一パーセント未満?」
「ああ」
「門の維持時間は?」
「二十七秒なら誤差だ」
「何分維持できる」
「今の肉体なら、門の大きさと距離次第だ」
「昨日と同じ距離、同じ大きさなら?」
「数時間は問題ない」
事業企画部長が身を乗り出した。
「数時間?」
「魔力を循環できるからな」
「では、門を開いたまま貨物を連続して通せる?」
「通路の処理上限までは」
「一時間に何トンだ」
「知らない」
「計算できないのか?」
「昨日初めて使った能力だから、という意味ではない」
標は目の前の水を一口飲む。
「通す側の設備次第だ。門の前で人が荷物を一つずつ押すなら遅い。ベルトコンベアをつなげれば速い。車両なら道路幅が必要だ」
事業企画部長は黙った。
能力の限界ではない。
物流設備の限界。
それは転移能力者の口から出る説明ではなかった。
「神代君」
智成が静かに尋ねる。
「君は物流の経験があるのか?」
「補給線の運用なら」
「どこで?」
「以前の仕事だ」
「学生になる前か?」
「そう思ってくれていい」
答えるつもりがない。
智成はそう判断したらしい。
深追いはしなかった。
「君の門が本物だとして」
「本物です」
「仮定の話だ」
「なら、聞くだけ無駄だな」
「父さん」
綾音が制止する。
智成は笑みを消した。
「分かった。本物として話そう」
「ああ」
「君の能力は、六波羅運輸だけで扱える規模ではない」
「知っている」
「国が動く。天城重工連合、鳳城グループ、東海道国際物流機構も動く」
国内総合一位。
二位。
三位。
どれも六波羅運輸とは比較にならない。
資金。
人材。
政治力。
軍との関係。
すべてで上回る。
「特に東海道国際物流機構は、君を手に入れるためなら、当社を買収してもおかしくない」
「買われるのか?」
「条件次第では、株主は売る」
「父さん」
「事実だ」
智成は娘を見ずに答えた。
「六波羅運輸は一族だけの会社ではない。私の感情で、株主利益を無視することはできない」
標は智成を見る。
「では、俺と契約する意味はないな」
「なぜだ」
「大企業に負けると分かっている」
「正面から競えば負ける」
「なら?」
「先に、君にとって必要な会社になる」
智成は机の中央へ資料を表示した。
六波羅運輸の輸送網。
地方倉庫。
契約車両。
天穴周辺の補給拠点。
精密機器輸送の実績。
医療輸送の許可。
危険物取扱資格。
「転移門があれば、港や鉄道は必要なくなるかもしれない」
「そうだな」
「だが、荷物は勝手に門の前へ集まらない」
標は資料を見る。
「集荷」
「そうだ」
「仕分け」
「ああ」
「保管、梱包、検品、通関、保険、配送先での受け渡し」
「そのすべてが必要だ」
智成の指が、複数の物流拠点をなぞる。
「東海道国際物流機構は巨大だ。だが巨大であるがゆえに、既存の港湾、鉄道、航空網を守らなければならない」
「転移門は、自社資産を潰す可能性がある」
「理解が早いな」
「俺ならそう考える」
「彼らは転移門を利用したい。同時に、既存事業が崩壊する速度は抑えたい」
「六波羅には、守るほどの資産がない」
事業企画部長が顔をしかめた。
智成は否定しなかった。
「その通りだ」
自社の弱点を、利点として認める。
「六波羅運輸には、大型港湾も専用鉄道もない。だからこそ、転移門を前提に事業を作り直せる」
「父さん、それは……」
「綾音。ここで飾る必要はない」
智成は標を見る。
「我々は弱い。だから変化へ賭けられる」
料理が運ばれてきた。
厚く切られた牛肉。
焼いた野菜。
ソース。
温かいパン。
標は智成の話を聞きながら、肉へナイフを入れた。
「食べながらでいいですか」
法務責任者が尋ねる。
「構わない」
標は一口食べる。
昨日の学食より、さらに柔らかい。
脂は多いが、しつこくない。
「うまいな」
「商談中ですよ」
綾音が言う。
「だから何だ」
「少しは隠してください」
「何を」
「満足している顔です」
「満足しているからな」
智成は標の様子を観察していた。
食事へ興味を示す。
金に細かい。
働きたがらない。
それでも、能力の利用方法には異様なほど理解が早い。
「神代君」
「何だ」
「君は、何を望んでいる」
「金」
「いくらだ」
「多いほどいい」
「それだけか?」
「自由」
「名誉は」
「いらない」
「企業ランキングは?」
「興味がない」
「天蓋士としての地位は?」
「面倒だ」
「世界を救いたいとは?」
標は肉を切る手を止めた。
「その言葉で、十一年働かされた」
室内が静かになった。
綾音が標を見る。
十一年。
先ほども、以前の仕事と言っていた。
標の現在の年齢は二十三歳。
十一年前なら十二歳だ。
冗談としては、声が低すぎた。
「俺は、もう誰かの命令で働かない」
標は続ける。
「仕事を受けるかは俺が決める。値段も俺が決める。休む時期も俺が決める」
「公共の利益が必要な場合は?」
智成が尋ねる。
「対価を払え」
「払えない人間の救助は?」
「状況による」
「無料では動かないと?」
「無料で動く場合も、俺が決める」
智成はしばらく黙った。
企業経営者としては、扱いにくい。
命令できない。
使命感でも動かない。
国家や社会への忠誠もない。
一方で、最初から金だけを求めているわけでもない。
無料で助けないとは言わなかった。
誰が無料で助けるべきかを、他人に決めさせないだけだ。
「理解した」
智成は椅子へ深く座った。
「六波羅運輸は、君を雇用しない」
「当然だ」
「能力の独占権も求めない」
「それも当然だ」
「その代わり、転移門を利用する仕事の開拓、契約、荷主の審査、輸送前後の作業を請け負いたい」
「手数料は」
「売上の三十パーセント」
標は肉を食べる手を止めた。
「帰る」
「待ってください!」
綾音が即座に止める。
「高すぎる」
「最初の事業立ち上げには費用がかかる」
智成は平然としている。
「人員、設備、保険、法務、政府交渉、顧客獲得。転移門を開くだけでは、事業にはならない」
「俺が門を開かなければ、売上はゼロだ」
「君一人でも、売上はゼロだ」
「依頼者と直接契約する」
「できる」
「なら三十パーセントを払う理由はない」
「依頼者を選別できるか?」
「断ればいい」
「危険物を偽装した荷主を見抜けるか?」
「荷物を調べる」
「化学、医療、外相種素材、国際法、輸出規制、そのすべてを?」
「人を雇う」
「その人間を管理するのは?」
標は黙った。
面倒だった。
とても面倒だった。
荷物を運ぶだけなら簡単だ。
だが、誰が何を運ばせようとしているか確認する必要がある。
爆発物。
違法薬物。
外相種器官。
密輸品。
逃亡者。
転移門は、物流を便利にする。
同時に、犯罪にも便利だ。
「三十は高い」
「では二十五」
「十」
「話にならない」
「門を開くのは俺だ」
「事業を作るのは我々だ」
「十五」
「二十三」
「十七」
「二十二」
「十八」
「二十一」
「刻み方が細かいですね」
綾音が口を挟む。
「俺の金だからな」
「父さんも同じことを言います」
「会社の金だからな」
智成が答えた。
標と智成が互いを見る。
数秒後、綾音がため息をついた。
「二十パーセントでどうですか」
「高い」
「ただし、最初の三か月だけです」
綾音が条件を続ける。
「立ち上げ期間中は二十パーセント。その後は、業務量に応じて再交渉。契約管理だけなら十パーセント。倉庫、集荷、配送、許認可まで六波羅が行う場合は最大二十パーセント」
標は考える。
「案件ごとに選べるか?」
「はい」
「荷主は俺が断れる」
「当然です」
「料金の最終決定権も俺」
「六波羅は市場価格を提案しますが、決定権は神代君です」
「俺の顧客情報を勝手に使わない」
「契約目的以外では使用しません」
「契約終了後に、俺の能力を使った類似事業を始めない」
智成が口を開く。
「君以外の転移能力者が現れた場合は?」
「俺の技術を使わなければ自由だ」
「合理的だ」
「契約期間は一か月」
「短すぎる」
「試験契約だ」
「三か月」
「一か月」
「二か月」
「一か月半」
「日数で刻むのか」
「四十五日」
「分かった」
智成が頷いた。
「四十五日間の試験事業契約。六波羅運輸は案件獲得と実務を担当。手数料は業務範囲に応じて十から二十パーセント」
「契約後も、俺は自由に他社と契約する」
「同一案件での二重契約は禁止する」
「当然だ」
「六波羅が紹介した顧客と直接契約し、手数料を逃れる行為も禁止」
「契約終了後は?」
「六か月間」
「長い。二か月」
「四か月」
「三か月」
「成立だ」
法務責任者の指が、端末上を高速で動く。
その横で事業企画部長は、複雑そうな顔をしていた。
「社長」
「何だ」
「この場で決めるのですか?」
「この場で決めなければ、明日には他社が来る」
「しかし、能力の正式登録も、安全性評価も終わっていません」
「だから試験契約だ」
「国家の許可が下りない可能性もあります」
「許可が下りるまで、違法な業務は行わない」
「投資額は?」
「最小限に抑える」
「社内決裁が必要です」
「私が社長だ」
「取締役会があります」
「だから今日、基本合意だけ先に結ぶ」
智成は迷っていなかった。
六波羅運輸にとって、これは会社を賭ける話になる。
だが、今すぐ全資産を投入するわけではない。
最初に標との契約関係だけを確保する。
その判断は速い。
「綾音」
「はい」
「お前が責任者をやれ」
綾音の表情が止まった。
「私が?」
「最初に見つけ、最初の契約を取ったのはお前だ」
「ですが、私はまだ学生です」
「だから何だ」
「社内の事業責任者にはなれません」
「社長室付の特別事業補佐。表向きの責任者は事業企画部長。実務上の窓口はお前」
事業企画部長が明らかに不満そうな顔をした。
「社長、それは――」
「不満か?」
「学生へ主導権を与えるのは危険です」
「では、君は昨日の時点で神代君の価値を見抜けたか?」
事業企画部長は答えない。
「会社が小さいからこそ、見つけた人間へ任せる」
智成は娘を見る。
「失敗すれば、お前の責任だ」
「成功すれば?」
「実績になる」
「後継者としての?」
「そこまで甘くはない」
即答だった。
「だが、候補には入る」
綾音の目が変わった。
標との出会いは、会社だけでなく、自分の人生も変える。
叔父。
従兄。
社内で実績を積んだ年上の親族。
これまでの綾音には、彼らを上回る材料がなかった。
転移門事業を成功させれば、すべてが変わる。
「受けます」
「いい返事だ」
「ただし」
綾音は標を見る。
「神代君が、協力してくれるなら」
「報酬次第だ」
「そう言うと思いました」
綾音は小さく笑った。
法務責任者が基本合意書を作成する間、食事は進んだ。
標は最後の肉を食べ、皿に残ったソースをパンにつける。
「神代君」
智成が尋ねる。
「君は、この門にどれほどの価値があると思う」
「高い」
「具体的には?」
「まだ決めていない」
「昨日、一万五千円で使った」
「試験だった」
「次はいくら取る」
標は考えた。
距離。
重量。
人数。
危険性。
緊急性。
拘束時間。
門の大きさ。
座標取得の難易度。
いくらでも料金項目は作れる。
「最低でも、一回十万円」
事業企画部長が目を見開いた。
「四百メートルの移動で?」
「専門業者は十一万円だった」
「それと同額では、顧客に利点がない」
「二十七秒で終わる」
「校内搬送に速度は求められていない」
「なら使わなければいい」
標は平然と答えた。
「俺は値下げしてまで働きたくない」
「価格競争をする気がないのか」
「競合がいるのか?」
事業企画部長は黙った。
いない。
転移能力者自体がほとんど存在しない。
門型は、公表例すらない。
「競合が出たら考える」
「独占価格では、政府が介入する」
智成が言う。
「すればいい」
「使用料の上限を定められるかもしれない」
「なら、上限分だけ働く」
「仕事量を減らす?」
「ああ」
「国家命令が出た場合は」
「働く時間までは増やせても、質は保証できない」
標は水を飲む。
「門を開けと言われれば開く。どの大きさで、何秒維持できるかは俺の体調次第だ」
脅しではない。
能力は標の意思と制御に依存する。
無理に使わせれば、事故の危険がある。
転移門という技術だけを奪うことはできない。
「面倒な能力者だな」
智成が言う。
「能力が面倒なのではない」
「本人が面倒か」
「ああ」
標は否定しなかった。
智成は笑った。
「気に入った」
「俺は、まだあなたを気に入っていない」
「構わない。契約を守る相手だと思われれば十分だ」
「それなら、今のところ合格だ」
「上からだな」
「俺の門を使いたいのはそちらだ」
「その通りだ」
法務責任者から合意書が送られてくる。
四十五日間。
非独占。
案件ごとの選択権。
標の最終拒否権。
六波羅運輸の手数料。
秘密保持。
直接取引回避条項。
安全性評価と法令順守。
標は一文ずつ確認する。
「ここ」
指を止める。
「緊急時には、六波羅運輸の判断で門の使用を要請できる」
「要請です」
法務責任者が答える。
「命令ではありません」
「要請に応じなかった場合の不利益は?」
「記載していません」
「では残していい」
次へ進む。
「能力事故時、六波羅は一切の責任を負わない」
「能力そのものの事故は、当社で管理できません」
「荷物の情報不足が原因なら?」
「それは当社の責任です」
「書き分けろ」
「修正します」
さらに読む。
「契約期間中、他社との交渉内容を六波羅へ報告する義務」
「同一案件の競合確認に必要です」
「全内容は教えない」
「案件の概要と、六波羅が関与する契約との競合有無だけで構いません」
「なら直せ」
綾音は標の横顔を見ていた。
契約書を読み慣れている。
単に金に細かい学生ではない。
責任範囲。
権利。
例外条項。
曖昧な表現。
見落としやすい場所を、当然のように確認していく。
「以前の仕事では、契約も自分で?」
綾音が尋ねる。
「契約ではなかった」
「では、なぜそんなに詳しいんです?」
「命令の曖昧さで人が死ぬからだ」
標は画面から目を離さない。
「誰を救うか。どこで撤退するか。補給が切れた場合はどうするか。決めていない命令は、現場へ責任を押しつけるだけだ」
綾音は何も言えなかった。
標の言葉には、実感がある。
学生の知識ではない。
智成も同じことを感じたようだった。
だが、今は聞かなかった。
修正版の契約書が届く。
標が署名。
智成が会社代表として署名する。
《基本事業契約が成立しました》
電子音が鳴った。
綾音は画面を見つめる。
門型転移能力者。
世界でも例のない能力。
その最初の事業契約を、国内三十一位の中堅物流企業が取った。
東海道国際物流機構が知れば、必ず動く。
鳳城も。
天城も。
政府も。
今はまだ、小さな先行にすぎない。
だが、その小さな差を広げるのが自分の役割だ。
「これで終わりか?」
標が尋ねる。
「もう一件あります」
綾音は端末へ、新しい資料を表示した。
「早速、試験依頼を用意しました」
「今日は休む」
「今日ではありません。三日後です」
「内容は」
画面に、一つの医療施設が映る。
学校から約百二十キロ離れた地方都市。
その隣には、白い保冷容器。
「白鷺医療生命機構傘下の病院から、希少な人工血液製剤を緊急輸送します」
「普通に運べば?」
「車両で二時間半。航空輸送は離着陸を含めて二時間。製剤自体は四時間持ちます」
「なら間に合う」
「通常なら」
綾音が次の画面を出す。
天穴周辺の交通規制。
高速道路の一部閉鎖。
航空経路の制限。
「現在は、最短でも五時間以上かかります」
「患者は?」
「すでに入院中です。三日後に予定手術があります」
「予定手術なら延期すればいい」
「この製剤がなければ延期です。ただし、患者の状態から再延期は危険とされています」
「白鷺が依頼したのか?」
「いいえ」
「では誰が」
「六波羅運輸が、転移輸送の実証案件として提案しました」
標は画面を見る。
「病院は俺の能力を知っている?」
「門型とは伝えていません。新しい緊急輸送技術の試験とだけ」
「隠すのか」
「能力登録が完了するまで、公開範囲を制限します」
「報酬は」
「六波羅運輸から、三十万円」
標は少しだけ姿勢を正した。
「三十万?」
「うち六波羅の手数料は、今回は取りません」
「なぜだ」
「契約成立後、最初の実証事業だからです。会社側の先行投資として扱います」
「病院はいくら払う」
「通常の緊急輸送費として十二万円」
「残り十八万は六波羅持ちか」
「はい」
智成が口を開く。
「君の能力へ金を払う価値があると、社内へ示す必要がある」
「失敗したら?」
「報酬は半額」
「患者が死んでも?」
「製剤の輸送完了までが契約範囲だ。医療結果は含めない」
「正しいな」
標は資料を確認する。
転移元は学校近郊の白鷺医療物流拠点。
転移先は地方病院の搬入口。
事前に現地座標を確認する必要がある。
「現地へ一度行く必要がある」
「経路眼で取得できませんか?」
「お前の経路情報だけでは足りない」
「映像と設計図は?」
「可能性はある。だが、人命が関わる最初の仕事で試す気はない」
綾音が少し意外そうに標を見る。
「慎重なんですね」
「契約を失敗すれば、次の値段が下がる」
「患者のためではなく?」
「患者のためでもある」
標は平然と言う。
「失敗すれば死ぬ可能性がある。なら安全確認は必要だ」
「無料では救わないのに?」
「金を取った以上、確実に運ぶ」
智成が小さく頷いた。
金を求める。
だが、金を取った仕事から逃げない。
この男との契約は危うい。
同時に、明確だった。
「現地確認の移動時間は?」
標が尋ねる。
「往復で半日です」
「長い」
「会社の車を出します」
「半日拘束される」
「では追加で五万円」
「十万」
「七万」
「八万」
「成立です」
「合計三十八万円」
「ああ」
最高級の枕。
寝台。
食費。
残る。
「受ける」
綾音の端末へ通知が届く。
仮契約書を作成し、標へ送る。
「これが、六波羅運輸と神代君の最初の共同事業です」
「違う」
「何がです?」
「昨日の一万五千円が最初だ」
「校内の実験ですよ」
「契約は契約だ」
「分かりました。では、二件目です」
標は署名する。
《緊急医療物資輸送の仮契約が成立しました》
「三日後、患者の命を救うかもしれませんね」
綾音が言う。
「製剤を運ぶだけだ」
「結果として救うことになります」
「それで料金が上がるなら、そう書いていい」
「広告に使う気ですか?」
「お前が使うんだろ」
綾音は否定しなかった。
医療物資。
百二十キロ。
数秒。
成功すれば、最初の実績として極めて強い。
ただし、白鷺医療生命機構が標の能力を知る。
世界第五位。
国内医療を握る巨大機構。
聖女を管理している組織でもある。
六波羅だけで秘密を抱え続けることはできない。
ここから先は、時間との勝負だった。
◇
会食を終え、標と綾音は施設の一階へ降りた。
外へ出たところで、綾音の端末が鳴る。
発信元を見た瞬間、彼女の表情が変わった。
「誰だ」
「東海道国際物流機構です」
国内総合第三位。
物流業界首位。
早すぎる。
「出ないのか?」
「出ます」
綾音は通信を接続した。
「六波羅綾音です」
《東海道国際物流機構、次世代輸送戦略室の水城と申します》
落ち着いた男性の声。
《昨日、関東第三魔法学校において、新種の空間輸送技術が試験されたと伺いました》
「どちらから、その情報を?」
《情報源については回答できません》
「では、こちらも回答できません」
《六波羅運輸が関与していることは確認済みです》
「そうですか」
《神代標氏との契約内容について、協議の場を設けたい》
綾音は標を見る。
標は眠そうにあくびをしている。
「神代君」
「何だ」
「東海道国際物流機構が、面談を希望しています」
「有料だ」
通信相手にも聞こえたらしい。
一瞬の沈黙。
《ご本人も、その場にいらっしゃるのですか》
「ああ」
標が端末へ向けて答える。
《神代標様。弊機構は、国内最大の物流網を保有しております。あなたの能力を社会実装する上で、最良の環境を――》
「六波羅を通せ」
《六波羅運輸は、物流部門七位の中堅企業です》
「知っている」
《弊機構であれば、国内すべての主要都市、海外百二十七拠点で即座に実証できます》
「だから?」
《より大きな利益を提示できます》
標は綾音を見る。
「六波羅。こいつらとの面談料はいくらだ」
「一時間五十万円」
綾音は即答した。
標が眉を上げる。
「高くないか?」
「国内総合第三位ですから」
《五十万円?》
通信相手の声に、初めて感情が混ざった。
「嫌なら断ってください」
綾音が言う。
《学生同士の仲介に、五十万円を請求するのですか》
「世界でも前例のない門型転移能力者との初回面談です」
《門型……?》
綾音は口を閉じた。
言いすぎた。
標が端末を受け取る。
「今の情報料も追加だ」
《お待ちください。門型とは、複数人が通過可能な空間接続を意味しますか》
「面談で聞け」
《五十万円を支払えば、詳細を開示すると?》
「開示するとは言っていない」
《では何に対する料金です》
「俺が話を聞く料金だ」
再び沈黙。
綾音は笑いそうになるのを抑えた。
国内最大の物流企業。
六波羅運輸が何度営業をかけても、担当部署につなぐだけで時間がかかる相手。
その企業が今、自分たちとの面談権を買うか迷っている。
《……社内で検討し、改めて連絡します》
「次は値上げするかもしれないぞ」
《なぜです》
「問い合わせが増えるからだ」
標は通信を切った。
綾音が端末を受け取る。
「勝手に切らないでください」
「話は終わった」
「相手は東海道国際物流機構ですよ」
「だから五十万円なんだろ」
「そうですが」
「俺は三十万で仕事を受けているのに、話を聞くだけで五十万か」
「値上げしますか?」
「医療輸送は契約済みだ」
「守るんですね」
「当然だ」
標は歩き出した。
綾音が隣へ並ぶ。
「神代君」
「何だ」
「東海道が本気で動けば、六波羅運輸より遥かに高い条件を出します」
「だろうな」
「乗り換えますか?」
「条件次第だ」
綾音の胸がわずかに沈む。
「ただし」
標が続ける。
「大きい会社ほど、命令が多い」
「六波羅なら少ないと?」
「今のところ、俺へ命令したのはお前だけだ」
「していますか?」
「仕事の後に寝具を買えと言った」
「それは命令ではありません」
「なら、まだ合格だ」
綾音は少しだけ息を吐いた。
契約で縛るだけでは足りない。
標が六波羅を選び続ける理由を作る必要がある。
大企業より自由。
大企業より速い。
大企業より標を理解する。
そして、利益も出す。
「三日後の仕事、必ず成功させましょう」
「成功させるのは俺だ」
「仕事を取ったのは私です」
「門を開くのは俺」
「契約と現地調整は私」
「報酬の八割以上は俺」
「今回は特別です」
「次もそうしろ」
「交渉です」
二人は歩きながら条件を言い合う。
その背後。
高層施設の上階から、一人の男が二人を見下ろしていた。
東海道国際物流機構、次世代輸送戦略室。
水城が送った情報を受けた、別の人物。
物流首位企業の役員だった。
手元の端末には、学校から流出した実技映像。
黒い線。
開く門。
数百メートル離れた空間。
「門型転移……」
もし本物なら。
港湾。
空港。
鉄道。
倉庫。
東海道国際物流機構が百年かけて築いた資産の価値が変わる。
単なる新規事業ではない。
自社の基盤を破壊する技術。
同時に、他社へ渡せない技術。
「六波羅運輸ごと買え」
男は部下へ命じた。
「難しければ、神代標だけを切り離せ」
その命令が届いた頃。
当の神代標は、三十八万円の使い道を考えていた。
最高級枕。
高反発寝台。
残りで肉を食べる。
「悪くないな」
世界第三位の物流企業が動き始めたことより。
標にとっては、今夜の寝心地の方が重要だった。




