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第3話 出力Eの実戦評価

 最高級の枕は、結局買えなかった。


 三万二千円。


 神代標の口座残高では買えない金額ではない。


 だが、枕一つを購入すれば、自由に使える金の大半が消える。


 寝具店の店員は、標が値札の前で長く立ち止まっていたため、何度も声をかけてきた。


 頭部の形状を記録し、内部素材の硬度や反発力を自動調整する魔道具。


 温度と湿度も一定に保たれ、使用者の呼吸に合わせて高さまで変化する。


 確かに寝心地はよかった。


 試用台で横になった標は、危うくそのまま眠りかけたほどだ。


 だからこそ、値段が気に入らない。


「一万五千円で買える範囲にしろ」


 店員へそう告げると、性能が大きく下がった商品を案内された。


 悪くはない。


 学生寮に置かれている備品よりは、はるかに上等だ。


 しかし、一度最高級品を試した後では、妥協したという感覚が残る。


 標は安い方の枕を棚へ戻した。


「買わないんですか?」


 店員が尋ねる。


「ああ」


「先ほどの商品が気に入られたのでしたら、分割払いも可能です」


「借金をして寝る趣味はない」


「学生向けの金利優遇がありますよ」


「利息を払うくらいなら、先に稼ぐ」


 標は店を出た。


 手元には、何も残っていない。


 それでも不満ではなかった。


 欲しい物ができた。


 そのために金を稼ぎたいと思った。


 以前の自分にはなかった感覚だ。


 元の世界では、口座にいくら入っているか確認すらしなかった。戦闘手当も危険区域手当も、数字として積み上がるだけだった。


 使いたい物がない。


 食べたい物もない。


 休暇を取っても、眠りたいと思わない。


 だから金にも意味がなかった。


 今は違う。


「次は三万二千円以上だな」


 標は自分の端末へ、欲しい物の一覧を作った。


 最高級枕。


 高反発寝台。


 遮音術式。


 自動温度管理。


 食材保存庫。


 浴室改修。


 どれも金がかかる。


 一覧の合計金額が増えるにつれ、不思議と気分がよくなった。


 欲しい。


 手に入れたい。


 自分の物にしたい。


 それは、確かに人間の欲望だった。


 ◇


 翌朝。


 標は、いつもより一時間早く目を覚ました。


 正確には、背中の痛みで起こされた。


「早く買い替える必要があるな」


 薄い寝具に文句を言いながら起き上がり、端末を見る。


 六波羅綾音から、すでに三件の連絡が届いていた。


《本日、放課後に今後の契約について打ち合わせをお願いします》


《六波羅運輸の担当者が来校予定です》


《昨日の転移記録について、第三者への開示は控えてください》


 最後の一文だけ、命令に近い。


 標は返信した。


《打ち合わせは有料》


 数秒後、既読になる。


《一時間三千円》


《一万円》


《学生の相談料ではありません》


《世界唯一の門型転移能力者の相談料だ》


 返信が止まった。


 やがて、新しいメッセージが届く。


《五千円。昼食付き》


《昼食の上限は》


《二千円》


《成立》


 今日の昼食は確保できた。


 標は満足して端末を閉じた。


 制服へ着替え、昨日買えなかった枕のことを考える。


 あと二万七千円。


 今日の打ち合わせで五千円。


 残り二万二千円。


 少なくとも、無償で時間を使うよりは早く近づく。


 標が寮を出ると、玄関前に榊原宗一郎が立っていた。


「朝から教師が寮へ来るのは迷惑です」


「昨日、転移門を開いた学生が言うな」


「契約に基づく試験です」


「その件で話がある」


「打ち合わせは放課後に」


「授業の話だ」


「なら勤務時間内にしてください」


「今から勤務時間だ」


 榊原は標の横を歩き始めた。


 昨日までと違い、標の歩調や姿勢を細かく観察している。


「身体に異常は」


「ありません」


「頭痛は」


「ない」


「食欲は」


「あります」


「睡眠は」


「寝具が悪い」


「能力の影響を聞いている」


「寝具の影響の方が大きい」


 榊原は息を吐いた。


「昨日の基礎検査では、侵食率に明確な上昇はなかった」


「だから問題ないと言ったでしょう」


「転移系異能の侵食は、通常の測定で捉えられない場合がある」


「人格や欲求から判断するしかないと?」


「今のところはな」


 標は内心で、やはりか、と考えた。


 元の世界でも、転移能力者だけは異形化が確認されなかった。


 皮膚が変わるわけでもない。


 外相種の器官が生えるわけでもない。


 ただ、長く使うほど人間らしい欲求が消えていく。


 この世界でも同じ症例が報告されている。


 ならば、自分が食事や睡眠へ興味を失っていたのも、転移能力の侵食だった可能性が高い。


 今は欲求が戻っている。


 それが回復なのか。


 別の異常なのか。


 まだ分からない。


「神代」


「何です?」


「今日は戦闘実技がある」


「知っています」


「本来、お前は補助評価だけ受ける予定だった」


 標の記憶にもある。


 最終学年の戦闘実技。


 企業向けの追加評価資料を作成し、卒業実習の班編成にも利用される。


 しかし転移前の神代標は、攻撃力も防御力も低い。


 固有異能もない。


 そのため、標的への零属性衝撃と、避難誘導の補助試験だけを受ける予定だった。


「予定を変更するんですか?」


「転移能力が発現した以上、実戦状況での反応を見る必要がある」


「能力科の正式検査前なのに?」


「転移を使わせるとは言っていない」


「では、何をする」


「基礎戦闘評価だ」


「昨日、出力Eと出たでしょう」


「出力以外を見る」


 標は榊原を見た。


 測定不能の制御精度。


 昨日までとは異なる言動。


 異常なまでに落ち着いた判断。


 榊原は、標の中で何が変わったのか確かめようとしている。


「報酬は?」


「授業だ」


「怪我をする可能性があります」


「学校の保険が適用される」


「そうではなく、危険を負う対価です」


「学生が授業へ出るのに報酬を要求するな」


「それなら最低限しかやりません」


「最低限で構わん」


 榊原はそう答えた。


 ただし、その目は明らかに標を試そうとしていた。


 ◇


 第四実技棟。


 巨大な半球形の建物内部には、市街地を模した訓練区域が作られている。


 高さの異なる模擬建築。


 狭い路地。


 崩壊した道路。


 遮蔽物。


 地下通路。


 天穴災害や都市部への外相種侵入を想定した実戦訓練施設だ。


 観測室には、教員だけでなく企業の採用担当者も集まっていた。


 鳳城グループ。


 獅堂戦技。


 冬月環境開発。


 政府系英雄部隊。


 追加採用を検討する中小企業。


 学生にとっては、最後の自己紹介の場でもある。


 標にとっては関係がなかった。


 今さら企業へ雇われるつもりはない。


 訓練区域の入口で待っていると、真壁直人が近づいてきた。


「神代も参加するのか?」


「ああ」


「大丈夫か?」


「何が」


「昨日、異能が発現したって聞いた。まだ使い方も分からないんだろ?」


 情報を広めたのは榊原ではない。


 昨日の搬送試験に関わった教員か、警報記録を見た職員から漏れたのだろう。


 転移能力という詳細までは伝わっていないようだった。


「使い方は分かる」


「発現したばかりなら無理をするなよ」


「お前はいつもそれだな」


「何がだ?」


「他人へ無理をするなと言いながら、自分は無理をする」


 直人は少し困ったように笑った。


「俺は頑丈だからな」


「頑丈なら壊していいのか?」


「そういう意味じゃない」


「自分を使い潰す人間は、いずれ他人にも同じことを求める」


 直人の表情から笑みが消えた。


「俺は他人に無理をさせるつもりはない」


「自分一人で全部背負えると?」


「背負える力があるなら、そうする」


「理想論だな」


「神代」


 直人の声が低くなる。


「お前は、自分が助かるなら他の人を見捨てるのか?」


「契約と状況による」


「人の命に契約なんて関係ないだろ」


「ある」


 標は即答した。


「誰が救助責任を負うか。どこまで危険を許容するか。撤退の条件は何か。事前に決めていなければ、善意のある人間から死ぬ」


「それでも、目の前で助けを求められたら――」


「お前が勝手に死ぬのは自由だ」


 標は直人の胸元を見る。


 変身能力者用の侵食測定具。


 訓練前の数値は九・八パーセント。


 昨日の再測定よりわずかに上がっている。


「だが、お前が死んだ後に助けを待つ人間のことは、誰が考える」


 直人は答えられなかった。


 標はそれ以上話さず、訓練場へ視線を戻した。


 真壁直人は善人だ。


 自分より他人を優先する。


 危険な場所では率先して盾になる。


 だから女子学生から人気がある。


 少し離れた場所でも、複数の女子が直人を見ていた。


 励ます者。


 飲料を渡す者。


 装備を確認する者。


 標のところには誰も来ない。


 その方が楽だった。


「神代君」


 例外が一人いた。


 黒瀬千景が、小さな測定具を抱えて近づく。


「昨日の転移門の残留値について、少し聞きたいことが」


「今から授業だ」


「終わった後でもいいです」


「有料なら」


「研究協力費を申請します」


「なら話す」


 千景は小さく頷いた。


「怪我をしないでください」


「なぜだ」


「測定できなくなるので」


「お前もいい性格だな」


 千景は褒められたのか分からず、少しだけ首を傾げた。


 ◇


 実戦評価の内容は単純だった。


 三人一組。


 市街地訓練区域へ入り、指定地点にいる模擬市民を救出する。


 区域内には魔導式の疑似外相種が配置されている。


 撃破してもいい。


 回避してもいい。


 制限時間は二十分。


 模擬市民の生存。


 班員の被害。


 討伐数。


 使用魔力量。


 侵食率の変化。


 指揮判断。


 それらを総合して評価する。


 標の班は、真壁直人と冬月澪奈だった。


「どうしてこの組み合わせなんだ」


 澪奈が不満そうに言った。


 淡い青色の髪。


 冷たい印象の整った顔立ち。


 冬月環境開発の令嬢であり、氷属性の拘束能力を得意とする。


「編成は教員が決めた」


 直人が答える。


「分かっているわ。神代君が足手まといになった場合、私たち二人なら補えるということでしょう」


「本人の前で言う必要はないだろ」


「事実を確認しているだけよ」


 標は装備を確認した。


 学校から支給された模擬戦用の短杖。


 魔力弾の出力を安全基準内に制限する機能がある。


 防護服。


 通信端末。


 救急具。


 どれも元世界の装備と比べれば、玩具に近い。


「神代」


 直人が標を見る。


「俺が前へ出る。冬月が敵を止める。お前は後ろからついてきてくれ」


「断る」


「危険だからだ」


「お前の後ろは視界が悪い」


「なら、少し離れて――」


「俺は一人で動く」


「班行動だぞ」


「だから、必要なときは通信する」


 直人は眉を寄せた。


「勝手な行動は危険だ」


「三人で固まる方が危険だ」


 標は訓練区域の地図を見る。


 狭い路地。


 複数の交差点。


 模擬外相種は待ち伏せ型が中心。


 三人で同じ経路を進めば、一度の範囲攻撃で全員が巻き込まれる。


「救助対象は第三区画。開始地点から直線で八百メートル」


 標は指で地図をなぞった。


「正面道路は広い。敵が多い。右の地下通路は近いが、出口が一つしかない。左の建物群を通る」


「最短経路ではないわ」


 澪奈が言う。


「敵に見つからない経路だ」


「なぜ分かるの?」


「配置する側なら、広い道路と地下通路へ置く」


「推測でしょう」


「そうだ」


「外れた場合は?」


「倒す」


 訓練開始の警報が鳴った。


《第十二班、評価開始》


 防壁が開く。


 直人が先に走り出した。


「神代、離れるな!」


 標は返事をせず、左側の建物へ向かった。


 澪奈が舌打ちし、直人の後を追う。


「真壁君、放っておきなさい」


「班員だぞ」


「自分から離れたのよ」


 標は二人の声を聞きながら、模擬建築の窓へ手をかけた。


 施錠されている。


 零属性魔法を鍵内部へ流し、金属部品だけを動かす。


 解錠。


 窓を開けて中へ入る。


 観測室では、おそらく不法侵入だと減点されるかもしれない。


 だが災害現場で、所有権を理由に扉の前で待つ馬鹿はいない。


 室内は暗い。


 標は足音を殺し、二階へ上がった。


 窓から外を見る。


 直人と澪奈は正面道路へ出ていた。


 予想どおり、三体の疑似外相種が出現する。


 四足歩行型。


 外殻は厚いが、関節部と頭部が弱い。


「来るぞ!」


 直人が変身する。


 身体が膨張し、灰色の装甲が皮膚を覆った。


 城塞巨人。


 二メートルを超える体格。


 圧倒的な防御力。


 疑似外相種の突進を正面から受け止める。


 衝撃で道路が砕けた。


「氷縛!」


 澪奈が杖を振る。


 地面から氷が伸び、二体の脚を固めた。


 連携は悪くない。


 正面から敵を止め、攻撃を受け、拘束する。


 教科書どおりだ。


 同時に、魔力消費が多い。


 直人は敵の攻撃を受けるたびに変身出力を上げている。


 澪奈も道路一帯を凍らせている。


 外相種一体のために、必要以上の力を使っていた。


 標は短杖を窓枠へ置く。


 魔力制限機能が邪魔だった。


 解除すれば規則違反。


 ならば、制限内の出力を最大限利用すればいい。


 白い魔力弾を一発形成する。


 出力E。


 昨日と同じ。


 その射線上に、小さな転移孔を三つ開く。


 最初の出口は、拘束された疑似外相種の右目の前。


 次は口腔内。


 最後は頭部の中心。


 魔力弾を撃つ。


 白い光が一つ目の孔へ消えた。


 疑似外相種の右目の前へ現れる。


 外殻へ当たる直前、二つ目の孔へ入る。


 口腔内へ移動。


 さらに三つ目。


 頭部の模擬核へ、直接命中する。


 疑似外相種が停止した。


《模擬核破壊。個体一、活動停止》


 直人と澪奈が同時に振り返った。


「何をした?」


「撃った」


「どこから――」


「前を見ろ」


 二体目が氷を砕いた。


 直人へ飛びかかる。


 標はもう一発撃つ。


 敵の横を通り過ぎた魔力弾が、空中の転移孔へ入る。


 出口は、疑似外相種の後頭部。


 模擬核へ直撃。


《個体二、活動停止》


 三体目は標のいる建物へ顔を向けた。


 疑似外相種の感知機能が、攻撃元を特定したらしい。


 標は窓から離れた。


 敵が建物へ突進する。


 壁が崩れる直前、標は一階の別室へ短距離転移した。


 現在の肉体で初めて、自分自身を転移させる。


 距離は十五メートル。


 魔力消費はごくわずか。


 身体への負荷もない。


 無属性魔法による緩衝層も正常に機能している。


「問題ないな」


 標が出ていった直後、二階の壁が破壊された。


 疑似外相種が標を見失い、動きを止める。


 標は一階の壁越しに、敵の位置を把握した。


 壁そのものは射線を遮る。


 だが転移孔には関係がない。


 魔力弾を壁へ向けて撃つ。


 壁に当たる直前に転移。


 疑似外相種の内部へ出口を形成する。


《個体三、活動停止》


 標は短杖を下ろした。


 三発。


 すべて出力E。


 使用魔力量は、測定誤差以下。


 建物を出ると、直人と澪奈が道路の中央で待っていた。


「今のは転移か?」


 直人が尋ねる。


「ああ」


「異能が発現したって、それだったのか」


「そうだ」


「どうして黙っていた」


「聞かれなかった」


「転移能力なんて、そんな軽い話じゃないだろ!」


「今は訓練中だ」


 標は救助対象の方向へ歩き出す。


「話は後にしろ」


 澪奈は動かなかった。


 氷の杖を握ったまま、停止した疑似外相種を見る。


「模擬核を直接撃ったの?」


「ああ」


「外殻を通さずに?」


「通す必要がない」


「そんな使い方……」


 彼女は言葉を失った。


 転移能力は、人や物を移動させる力。


 それが一般的な認識だ。


 攻撃そのものを敵の防御内部へ運ぶ。


 外殻も障壁も無視し、弱点だけを撃ち抜く。


 能力の出力は関係ない。


 必要なのは、対象を破壊できる最低限の威力だけ。


 攻撃力E。


 それでも命中地点を選べるなら、A級の防御を持つ相手でさえ倒せる。


「行くぞ」


 標が言う。


 直人は変身を解除せず、標へ追いついた。


「今の転移、侵食は大丈夫なのか?」


「問題ない」


「発現したばかりなのに、どうして分かる」


「分かるからだ」


「説明になってないぞ」


「説明している時間が無駄だ」


 標は曲がり角の手前で足を止めた。


 直人が前へ出ようとする。


「待て」


「敵か?」


「二体いる」


「見えるのか?」


「足音が違う」


 右側の路地。


 重量型が一体。


 屋上に小型が一体。


 標は地面へ小石を投げた。


 石が路地へ転がる。


 疑似外相種が反応し、角から飛び出した。


 同時に、屋上から翼型が降下する。


「上だ!」


 直人が叫ぶ。


 標は動かなかった。


 翼型が標へ迫る。


 その爪が届く直前、標の姿が消えた。


 現れたのは、翼型の背中。


 標は敵の上に片足を置き、短杖を首の後ろへ当てる。


 発射。


《模擬核破壊。個体四、活動停止》


 動力を失った翼型が落下する。


 標は地面へ着く直前に再び転移し、路地の入口へ戻った。


 落下した模擬外相種が道路へ激突する。


 直人が重量型を受け止め、澪奈が脚を凍らせた。


「神代!」


「何だ」


「今、自分ごと転移したのか?」


「ああ」


「初めてじゃなかったのか!」


「この身体では初めてだ」


「それを普通は初めてと言うんだ!」


「成功したから問題ない」


 標は重量型へ短杖を向ける。


「待て」


 直人が制止した。


「こいつは俺が倒す」


「なぜ」


「俺たちの評価だ。お前だけに任せるわけにはいかない」


「好きにしろ」


 直人は拳へ魔力を集めた。


 城塞巨人の膂力。


 地面を踏み砕きながら、重量型の頭部を殴る。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 外殻に亀裂が入る。


 四撃目で頭部が砕け、模擬核が露出した。


 五撃目。


《個体五、活動停止》


 直人は大きく息を吐いた。


 攻撃力は高い。


 防御力もある。


 正面から戦うなら、学生の中では最上位だろう。


 ただし、一体を倒すために標の十倍以上の時間と、数百倍の魔力を使っている。


「満足したか」


 標が尋ねる。


「そういう言い方はないだろ」


「評価を取りたかったんだろ」


「仲間として戦いたかったんだ」


「敵を倒すことより、仲間らしさが重要か?」


「そうじゃない」


「なら進め」


 標は再び歩き出した。


 澪奈が、少し離れて後を追う。


 彼女はすでに直人ではなく、標の背中を見ていた。


 ◇


 観測室では、誰も言葉を発していなかった。


 大型画面には、第十二班の戦闘記録が表示されている。


 撃破数。


 魔力消費。


 侵食率。


 被弾。


 行動時間。


 神代標。


 撃破数、四。


 被弾、ゼロ。


 消費魔力量、測定限界未満。


 侵食率変化、測定限界未満。


 平均撃破時間、一・八秒。


 魔法攻撃力評価、E。


 矛盾した数字だった。


「攻撃力Eの人間が、四体を瞬殺した?」


 企業担当者の一人が呟く。


「模擬核の耐久設定は正常か」


「正常です」


 教員が答える。


「安全基準内の出力しか出ていません」


「では、どうやって」


「防御を通過していません」


 黒瀬千景が観測室の後方で言った。


 授業参加者ではないが、零属性測定担当として見学を許可されている。


「攻撃を転移させて、模擬核へ直接当てています」


「転移?」


 室内の視線が千景へ集まる。


 榊原は眉を寄せた。


 昨日の件は、正式評価が終わるまで伏せる予定だった。


 しかし実技棟の記録を隠すことはできない。


「神代標は、昨夜、転移系異能に発現した可能性がある」


 榊原が説明した。


 室内の空気が変わった。


「転移系?」


「国家登録対象では?」


「距離は?」


「本人以外も移動できるのか」


「すでに管理局へ報告したのか」


 質問が重なる。


 榊原は片手を上げた。


「詳細は確認中だ。現時点で外部への報告は禁止する」


「鳳城グループとして、能力評価への立ち会いを要求します」


「獅堂戦技もだ」


「政府側への優先報告が先でしょう」


 昨日まで神代標に見向きもしなかった者たちが、次々と権利を主張し始める。


 綾音は観測室の隅で、その様子を見ていた。


 予想より早い。


 昨日の門型転移が公になれば、大企業と政府が一斉に動く。


 だが今は、転移能力が戦闘にも応用できると判明した。


 価値は物流だけではない。


 どれほど強固な防御を持つ相手でも、攻撃を内部へ送り込める。


 味方を敵の背後へ移動させられる。


 敵の攻撃を別方向へ逃がせる。


 負傷者を一瞬で後方へ送れる。


 補給線も、撤退経路も、包囲も、城壁も意味を失う。


 一人の戦闘力ではない。


 戦場の前提そのものを変える能力。


 天蓋士ランキングは、魔力量、攻撃力、防御力、回復力、異能を含めた戦闘力で決まる。


 その基準では、標は評価しにくい。


 魔力容量E。


 攻撃出力E。


 防御力も身体能力も低い。


 それなのに、攻撃は防げず、捕まえることもできない。


 敵が強くなっても、標自身の攻撃出力を上げる必要はない。


 弱点へ届くだけの威力があればいい。


 相手の防御が十倍になっても、標の戦い方は変わらない。


 綾音は背筋に小さな震えを感じた。


 これが、標の価値だ。


 純粋な力ではない。


 力の差そのものを無意味にする。


 大企業の担当者たちは、画面を見ながら採用条件を計算している。


 給与。


 研究設備。


 住居。


 専属契約。


 家族への支援。


 しかし、それでは遅い。


 彼らはまだ、標を雇用できる学生だと思っている。


 綾音は知っている。


 あの男が欲しいのは、所属先ではない。


 自由と金と、最高級の枕だ。


「六波羅さん」


 鳳城グループの担当者が、綾音へ声をかけた。


「あなたは神代標と親しいそうですね」


「同級生です」


「昨夜から何か変化は?」


「本人へ直接お聞きください」


「彼との面談を仲介してもらいたい」


「仲介料が必要です」


 担当者が一瞬、言葉を失った。


「学生同士の紹介で金を取るのですか?」


「大規模な利益を生む可能性がある商談ですよね?」


 綾音は微笑む。


「無料だと思われましたか?」


 神代標から学んだわけではない。


 六波羅綾音は元からそういう人間だった。


 ただ、今までは学生相手に口にする必要がなかっただけだ。


「詳細は後ほど」


 綾音は視線を画面へ戻した。


 標たちは、すでに救助対象の近くまで到達している。


 他班の平均より、三分以上早い。


 ◇


 救助対象は、崩れた模擬商業施設の地下にいた。


 入口は瓦礫で塞がれている。


 直人が前へ出た。


「俺がどかす」


「待て」


 標が止める。


「瓦礫の向こうに空間がない」


「どういうことだ?」


「すぐ裏に別の壁がある。正面から崩せば、救助対象へ瓦礫が落ちる」


 澪奈が地面へ手を触れた。


 氷属性魔法で周囲の構造を探る。


「本当だわ。空洞はもっと下」


「別の入口を探す」


 直人が周囲を見る。


 標は壁際へ歩き、そこに置かれた監視用の小型端末を見つけた。


 救助対象の映像が表示されている。


 地下二階。


 瓦礫の隙間に閉じ込められた人型模型。


 映像があるということは、監視端末の座標情報が存在する。


 標は画面へ指を触れた。


「これで十分だ」


「何が?」


「座標が分かる」


 標は壁の前へ立つ。


 空間を認識する。


 映像。


 監視端末の識別番号。


 施設内部の設計図。


 魔力配線。


 それらを基準に、地下二階の位置を特定する。


「まさか」


 澪奈が気づいた。


「直接、転移するつもり?」


「俺だけ行く」


「内部が崩れていたらどうするの」


「映像で生存空間は確認できる」


「罠かもしれない」


「訓練だぞ」


「実戦なら罠の可能性があるでしょう」


「実戦なら先に物を送る」


 標は足元に、小さな転移孔を開いた。


 小石を一つ落とす。


 孔の向こうから、石が床へ当たる音。


 空間は安定している。


「待て、俺も行く」


 直人が言う。


「狭い」


「救助対象を運ぶなら、俺の力が必要だ」


「必要ない」


 標の姿が消えた。


 ◇


 地下二階。


 暗い空間に、標が現れる。


 周囲の床は傾き、天井の一部が崩れている。


 救助対象の模型は、鉄骨の下敷きになっていた。


 重量は二百キログラムほど。


 人間を想定した模型としては重すぎる。


 おそらく単純な転移では救えないと判断させ、班員全員の協力を求める課題なのだろう。


 標は鉄骨を見た。


 持ち上げる必要はない。


 鉄骨だけを別の場所へ送ればいい。


 対象の輪郭を魔力で包む。


 長さ三メートル。


 重量四百キログラム。


 現在の身体でも問題ない。


 鉄骨の下に、小さな転移門を開く。


 出口は地上の瓦礫のない場所。


 鉄骨が重力で門へ落ち、そのまま地上へ排出された。


 救助対象を抱え上げる。


 重い。


 標の現在の身体では、長時間運ぶのは難しい。


 しかし、運ぶ距離はない。


 地上へ向けて転移門を開く。


 門の向こうでは、直人と澪奈が待っていた。


「受け取れ」


 標が模型を押し出す。


 直人が両腕で受け止めた。


「お前も早く来い!」


 標は門を閉じず、そのまま歩いて通る。


 地下二階から地上へ。


 救助完了。


《模擬市民の救出を確認》


《第十二班、課題達成》


《所要時間、九分四十一秒》


 平均達成時間は十五分。


 上位班でも十二分ほど。


 標たちは、大幅に記録を更新した。


 直人は救助模型を下ろし、標を見る。


「何でも転移で済ませるつもりか?」


「使える物を使っただけだ」


「それじゃ、他の能力を鍛える意味が――」


「ある」


 標は即答する。


「俺がいない場所では必要だ」


「そういうことじゃない」


「では何だ」


「簡単に済ませすぎだ」


 標は直人の言葉を理解できなかった。


「難しくする必要があるのか?」


「皆、訓練して、工夫して、力をつけてきた」


「だから?」


「お前だけ、能力一つで全部飛び越えるのは――」


 直人は言葉を止めた。


 自分が何を言おうとしたのか、途中で気づいたらしい。


 能力一つ。


 それは、変身能力に恵まれた直人自身にも当てはまる。


 標は彼を責めなかった。


「俺は十一年使った」


「何を?」


「この力をだ」


 直人には意味が分からない。


 当然だ。


 標も説明するつもりはなかった。


 転移能力だけを与えられても、同じことはできない。


 敵の内部座標を即座に捉える。


 移動先の安全を一瞬で確認する。


 攻撃と転移を同期させる。


 複数の門を並列で維持する。


 無属性魔法で侵食を緩衝し、消費魔力を循環させる。


 それは十一年間、死ぬ寸前の戦場で磨いた技術だった。


「神代君」


 澪奈が標を見る。


 昨日まで彼女の目にあった軽蔑は消えていた。


 代わりに、警戒と戸惑いがある。


「今のあなたは、どの程度強いの?」


「弱い」


「冗談?」


「魔力量は少ない。身体も脆い。出力も低い」


「でも、私たちより早く敵を倒した」


「相性がよかっただけだ」


「どんな相手なら、相性が悪いの?」


 標は少し考えた。


 広範囲を無差別に消滅させる敵。


 転移先をすべて封鎖する空間能力者。


 座標そのものを持たない存在。


 星核や天穴中枢と一体化した主核級。


 元世界には、いくらでもいた。


「この学校にはいないな」


 標が答える。


 澪奈は何も言えなかった。


 ◇


 評価終了後。


 観測室から出てきた企業担当者たちが、標を取り囲んだ。


「神代標君。鳳城グループ能力開発部です」


「獅堂戦技の採用担当だ。少し時間をもらいたい」


「政府系天蓋士部隊からも確認がある」


「転移能力の詳細について――」


 標は全員を見渡した。


 昨日までは、誰一人として声をかけなかった。


 採用通知ゼロ。


 追加面談なし。


 属性適性のない落ちこぼれ。


 それが転移能力を示した途端、通路を塞ぐほど集まっている。


「面談は有料だ」


 標が言う。


 担当者たちは聞き間違いかと思ったようだった。


「何と?」


「俺の時間を使うなら金を払え」


「採用面談だぞ」


「頼んでいない」


「君の将来に関わる話だ」


「俺の将来なら、俺が決める」


 鳳城グループの担当者が、営業用の笑顔を浮かべた。


「まずは互いを知るための面談だ。報酬を発生させる性質のものではない」


「なら断る」


 標は担当者の横を通り抜けようとする。


「待ちたまえ」


「無料で拘束するな」


「鳳城グループからの話だぞ」


「知っている」


「君は以前、当社への採用を強く希望していたはずだ」


「不採用にしたのはそちらだ」


「事情が変わった」


「俺の事情も変わった」


 標は相手の目を見る。


「今さら欲しいなら、買いに来い」


 通路が静かになった。


 学生が企業へ言う言葉ではない。


 だが、誰も笑わなかった。


 つい先ほど、標は攻撃力Eのまま疑似外相種を瞬殺し、救助課題の記録を更新した。


 そして何より、世界でもほとんど存在しない転移能力者。


 門型の可能性まである。


 採用する側と、採用される側。


 その関係が、昨日までと同じではないことに、担当者たちも気づき始めていた。


「具体的な条件を提示する」


 鳳城の担当者が言う。


「後日、正式な採用提案を――」


「採用はいらない」


「では、研究協力契約でも構わない」


「六波羅を通せ」


 通路の端にいた綾音へ、視線が集まる。


 綾音自身も一瞬だけ目を見開いた。


「彼女が窓口なのか?」


「まだ違う」


「では、なぜ」


「俺は交渉が面倒だ」


 標は綾音を見る。


「六波羅。窓口業務はいくらだ」


 突然振られた綾音は、ほんの一秒だけ考えた。


「成立契約額の五パーセント」


「高い」


「では、面談一件につき一万円。契約成立時は追加で三パーセント」


「一件五千円。成立時二パーセント」


「七千円と二・五パーセント」


「成立」


「この場で決めるのか?」


 榊原が呆れたように言った。


 標と綾音は同時に答えた。


「時間がもったいないので」


 二人の言葉が重なった。


 綾音は一瞬、標を見た。


 標は気にせず企業担当者たちへ向き直る。


「話があるなら、六波羅へ連絡しろ」


「君自身の採用について、学生を仲介させるつもりか?」


「採用ではない。契約だ」


「何が違う」


「命令権を渡さない」


 標ははっきりと言った。


「俺は誰の部下にもならない」


 その言葉を聞いた綾音の頭の中で、新しい事業形態が形を取り始めた。


 企業に所属しない。


 各企業、学校、政府と個別に契約する。


 転移門の使用料を取る。


 戦闘協力。


 輸送。


 救助。


 研究。


 面談ですら有料。


 神代標個人を中心に、複数の顧客が並ぶ。


 それは雇用ではない。


 個人事業。


 いや、能力の規模を考えれば、いずれ個人では処理できなくなる。


 契約管理。


 料金設定。


 利用者の選別。


 座標管理。


 税務。


 保険。


 安全基準。


 会社が必要になる。


 そして、その会社を最初に思い描いたのは自分だ。


「では、皆様」


 綾音は企業担当者たちの前へ進んだ。


 学生らしい笑みではない。


 六波羅運輸の経営一族として、何度も見てきた営業担当者の顔を作る。


「神代標への面談申請は、私が一時的に取りまとめます」


「六波羅運輸が、彼の代理人だと?」


「現時点では、窓口業務の試験契約です」


 たった今決まったばかりだが、嘘ではない。


「ご希望の契約内容、提示可能な報酬、拘束時間、能力使用の有無を記載してください」


「学生の分際で――」


 獅堂戦技の担当者が不快そうに言う。


 綾音は笑顔を崩さなかった。


「直接お話しになりますか?」


 担当者が標を見る。


 標はすでに通路の壁へ寄りかかり、眠そうに目を閉じていた。


「一分一万円」


 目を開けずに言う。


「今、値上げしただろう!」


「人が増えたからな」


 担当者は黙った。


 綾音は確信した。


 これは稼げる。


 昨日よりも、さらに。


 物流だけではない。


 標の能力へ接触したい人間がいる限り、窓口だけでも金になる。


 何より、標自身が働きたがらない。


 面倒な仕事を引き受ける人間には、必ず価値が生まれる。


「神代君」


「何だ」


「今日の窓口契約、放課後に正式な書面へします」


「今では駄目か」


「条件を詰めます」


「長い」


「あなたの利益を増やすためです」


「なら許す」


 綾音は微笑んだ。


 この男と関係を切ってはいけない。


 契約だけでは弱い。


 会社。


 共同事業。


 株式。


 将来的には、もっと個人的で切れにくい関係も考える必要がある。


 恋人。


 婚姻。


 そこまで思考が進み、綾音は一度止めた。


 まだ早い。


 まずは利益だ。


「神代君」


「今度は何だ」


「今日の昼食は、予定どおり私が払います」


「二千円までだぞ」


「覚えています」


「肉にする」


「好きですね、肉」


「味がするからな」


 標は何気なく答えた。


 綾音には、その言葉の意味が分からない。


 標自身も説明するつもりはなかった。


 ただ、食べたい物がある。


 眠りたいと思える。


 金を欲しいと思う。


 それだけで十分だった。


 ◇


 戦闘実技の最終評価が、学生用端末へ送信された。


《神代標》


《魔法攻撃力:E》


《身体能力:E》


《防御力:E》


《魔力容量:E》


《異能戦闘評価:暫定A》


《実戦判断:A》


《魔力効率:測定不能》


《総合評価:再判定中》


 標は結果を見て、端末を閉じた。


「Aか」


 元の世界では、自分はA級だった。


 十一年間戦い、何度も死にかけ、それでもS級には届かなかった。


 今の身体は弱い。


 使える魔力も少ない。


 それなのに、この平和な世界では、軽く動いただけで暫定A。


 標は訓練場を振り返った。


 学生たち。


 教員。


 企業担当者。


 全員が、昨日までとは違う目で自分を見ている。


「随分、楽な世界だな」


 もっとも。


 楽であることに、不満はなかった。


 標はあくびをする。


「次は、枕代を稼ぐか」


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