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第2話 昼食一回分の契約

 神代標が食堂へ入ったとき、昼休みはすでに半分ほど終わっていた。


 広い室内には、まだ多くの学生が残っている。


 香辛料の匂い。


 肉を焼く音。


 食器の触れ合う音。


 誰かの笑い声。


 戦場にはなかったものばかりだ。


 標は入口の脇に設置された表示板を見上げた。


 本日の定食。


 煮込み料理。


 麺類。


 丼物。


 高栄養戦闘課程食。


 低侵食管理食。


 回復魔法科向け魔力補助食。


 聞き慣れない分類も多いが、写真を見れば料理の内容は分かる。


 問題は値段だった。


「高いな」


 学生向けの食堂としては安い。


 だが、現在の標が自由に使える金は三万八千円ほど。


 卒業までの生活費を考えれば、毎日好きな物を食べる余裕はない。


 標は一番安い日替わり定食を選ぼうとして、隣の表示へ視線を移した。


 厚く切られた牛肉。


 半熟卵。


 焼いた野菜。


 澄んだスープ。


 値段は日替わり定食の約三倍。


 胃が反応した。


「……」


 標は自分の腹へ手を当てた。


 空腹は、先ほど乾燥麺を食べたことで多少落ち着いている。それでも、写真を見るだけで肉を食べたいと思う。


 欲求が戻っている。


 確認するたびに、妙な感動があった。


 同時に、三倍という値段が気に入らない。


 標は二つの料理を見比べた。


 安い食事を選べば金が残る。


 高い食事を選べば満足できる。


 元の世界にいた頃なら迷わなかった。


 味に興味がなく、栄養効率だけで決めた。


 今は違う。


「稼げばいいか」


 標は高い方の食券を購入した。


 誰かに雇われるつもりはない。


 だからといって、貧しい暮らしをするつもりもなかった。


 働かず、金に困らず、好きな物を食べる。


 そのためには、少なくとも最初に収入源を作る必要がある。


 料理を受け取り、窓際の席へ向かう。


 標が歩く間、何人もの学生がこちらを見た。


 適性再測定の結果は、すでに広がり始めているらしい。


 魔力容量E。


 瞬間出力E。


 属性適性なし。


 それ自体は昨日までと同じだ。


 ただし、制御精度だけが測定不能。


 理論上あり得ない魔力循環を見せた。


 上位学生たちは故障か偶然だと考えている。


 研究科の学生は、そうは考えていない。


 標が席へ着くと、少し離れた場所にいた二人の学生が声を潜めた。


「測定器を壊したらしい」


「零属性で?」


「出力はEだって。意味なくない?」


「黒瀬さんが騒いでたぞ」


「じゃあ、また研究科の変な実験だろ」


 聞こえていたが、標は反応しなかった。


 目の前の料理の方が重要だった。


 肉を切る。


 表面には焼き色がつき、中心には赤みが残っている。


 口へ運ぶ。


 脂の甘み。


 塩。


 胡椒。


 噛むたびに広がる肉汁。


 乾燥麺とは比べ物にならない。


「なるほど」


 標は小さく頷いた。


 値段が三倍なら、満足度は五倍ほどある。


 悪くない投資だった。


「何が、なるほどなんですか?」


 正面の椅子が引かれた。


 六波羅綾音が、返事を待たずに座る。


 彼女の盆には、日替わり定食と小さなデザートが載っていた。


「肉の費用対効果だ」


「食事を投資判断みたいに言う人、初めて見ました」


「金を払った以上、対価は確認するべきだ」


「おいしいなら、それでいいのでは?」


「だから、価格以上にうまいと判断した」


「そうですか」


 綾音は箸を割った。


「それで、測定器に何をしたんです?」


「何もしていない」


「測定不能と表示されたそうですね」


「装置の想定外だっただけだ」


「故障ではなく?」


「故障なら、修理代を請求されている」


「請求されていないなら壊していない、という理屈ですか」


「分かりやすいだろ」


 綾音は呆れたように息を吐く。


 それでも標の正面から離れない。


 単なる好奇心ではない。


 彼女はすでに、あの測定結果の利用価値を考えている。


「魔力を循環させた、と聞きました」


「ああ」


「放出した魔力を回収したんですか?」


「正確には、最初から戻る経路を作った」


「外へ放った魔力は、大気中の相素と混ざります。術者本人の魔力として識別できなくなるはずです」


「混ざる前に戻せばいい」


「簡単に言いますね」


「簡単だからな」


 綾音の箸が止まった。


「それは、他の人にもできますか?」


「技術を覚えれば」


「どの程度の訓練が必要です?」


「才能による」


「神代君と同じ効率を出すには?」


「無理だろうな」


「今、他の人にもできると言いましたよね」


「循環自体はできる。俺と同じ精度でできるとは言っていない」


「詐欺師の説明です」


「契約前なら説明不足だ。契約後なら詐欺だ」


 綾音は標を見つめた。


「その区別はするんですね」


「当然だ。契約を破れば、次の契約が取れない」


 標は残っていた肉を食べる。


 綾音はしばらく黙っていたが、やがて端末を机の上へ置いた。


 画面には、円柱形の大型測定装置が表示されている。


「では、契約の話をしましょう」


「何を買う」


「神代君の時間と、零属性魔法の制御技術を」


「高いぞ」


「まだ値段を決めていないでしょう」


「俺の時間だから、俺が決める」


「双方で決めるのでは?」


 朝に標が言った言葉を、そのまま返される。


 標は綾音を見た。


 彼女は少しだけ笑っていた。


「覚えていたか」


「商売に使えそうな言葉は忘れません」


「いい性格だな」


「褒め言葉として受け取ります」


 綾音は資料を拡大した。


 関東第三魔法学校には、十二の実技棟、六つの研究棟、三つの医療施設、大型演習区画、地下資材庫がある。


 敷地は広く、端から端まで移動するには徒歩で四十分以上かかる。


 資材輸送は、小型召喚獣、風属性搬送具、自律式魔導台車が担っていた。


「明日、第五研究棟から第九実技棟へ、零属性干渉計を移動させます」


「それがどうした」


「重量は二百八十キログラム。内部の検出器が非常に繊細で、傾けられません。振動にも弱い」


「専門業者を使え」


「見積もりは十一万円です」


「高いな」


「校内の地下連絡路が工事中で、遠回りする必要があります。低振動台車を使用し、技術員が四名つくので」


「それで?」


「今朝の測定で、神代君は魔力弾の放出と回収を同時に行いました」


 綾音が画面を切り替える。


 そこには、標の測定時に記録された魔力波形が表示された。


「魔力の流れをここまで正確に制御できるなら、対象を零属性魔法で保持し、慣性や振動を抑えながら運べるのではないかと思いました」


 標は資料を眺めた。


 つまり綾音は、標が転移能力を持っているとは考えていない。


 異常な制御精度を利用して、精密機器を浮かせるか、衝撃を吸収しながら運ばせようとしている。


 発想としては悪くない。


 標が元の世界で使っていた慣性制御なら、二百八十キログラム程度の機材を無振動で動かせる。


 ただし、今の肉体では魔力経路が細い。


 四百メートル以上も維持しながら歩くのは面倒だった。


「遠回りする必要があるのか?」


「地下通路が工事中ですから」


「第九実技棟へ直接送ればいいだろ」


「直接?」


「転移させる」


 綾音の箸が止まった。


 ほんの一瞬、意味が伝わらなかったらしい。


「……今、何と言いました?」


「転移させる」


「誰がです?」


「俺が」


 綾音は標の顔を見た。


 冗談を言っている様子はない。


 からかっているようにも見えない。


 彼女の経路眼が、無意識に発動した。


 瞳の奥に淡い光が灯り、標の周囲に存在する魔力の流れを捉える。


 昨日まではなかったもの。


 複数の経路が重なりながら、どこにもつながっていない奇妙な揺らぎ。


 今朝から気になっていた。


 だが、それが転移能力だとは思わなかった。


 思えるはずがない。


「神代君」


 綾音は声を低くした。


「転移能力のことを言っているんですか?」


「ああ」


「空間収納や、物体の短距離置換ではなく?」


「場所と場所をつなぐ」


「……本当に?」


「嘘をついて、何の得がある」


「あります。私を驚かせられます」


「そんなものに価値はない」


 綾音は返事をしなかった。


 できなかった。


 転移能力者。


 その存在自体が、国家機密に近い。


 世界で公表されている転移能力者は、両手の指で足りるほどしかいない。


 国内で実働している者は一人。


 その一人も、自分と接触している二人を、数キロ先へ移動させるのが限界だった。


 軍や政府の専属であり、一度の使用に必要な調整期間は数日。


 民間企業が利用できる能力ではない。


 ましてや物流へ転用された例など存在しなかった。


 転移能力は、輸送技術ではない。


 国の最高幹部や重要人物を緊急避難させるための、戦略級異能。


 それが現在の常識だった。


「昨夜、発現した」


 標は肉を食べながら、何でもないことのように続けた。


「今の身体では、どこまで使えるか分からないがな」


 綾音の思考が一度止まり、直後に猛烈な勢いで動き始めた。


 精密機器。


 高額な医薬品。


 臓器。


 生鮮食品。


 災害救援物資。


 孤立した都市への補給。


 天穴攻略部隊の弾薬と食料。


 海外工場から国内拠点への部品搬送。


 航空輸送。


 海上輸送。


 倉庫。


 港湾。


 税関。


 保険。


 物流業界を支える既存の仕組みが、頭の中で次々と崩れていく。


 距離を無視できるのなら、輸送時間は消える。


 経路上の危険も消える。


 燃料費も、人件費も、車両費も、保管費も激減する。


 六波羅運輸は中堅企業だ。


 鳳城や獅堂のように、国家へ影響を及ぼす規模ではない。


 だが、もし神代標の転移能力へ最初に接触し、継続的な契約関係を築ければ。


 六波羅運輸は、国内物流企業の一社ではなくなる。


 世界の物流規格を作る側へ回れる。


 何十億。


 何百億。


 そんな規模ではない。


 一つの企業の利益ではなく、産業構造そのものが変わる。


 綾音は自分の心臓が激しく鳴っていることに気づいた。


 この男は、今、何と言った。


 昨夜発現した。


 未登録。


 まだ政府にも企業にも知られていない。


 そして自分は、その男と同じ机で昼食を取っている。


 正式な調査が入る前に。


 大企業が存在を知る前に。


 たった一万数千円の校内搬送契約について、直接交渉できる位置にいる。


 偶然だった。


 今朝、標へ声をかけたことも。


 同じ食卓へ座ったことも。


 零属性干渉計の搬送を提案したことも。


 すべて偶然。


 だが、商売において幸運とは、気づいた者だけが利益へ変えられる偶然だ。


「どの程度の物を転移させられるんです?」


 綾音は、できるだけ平静な声を作った。


「今は分からない」


「自分以外も?」


「可能だ」


「複数人は?」


「魔力が足りれば」


「荷物は?」


「可能だ」


「この干渉計は?」


「問題ないだろう」


「距離は?」


「転移先の座標を確認できれば、校内程度は誤差だ」


 校内程度は誤差。


 綾音は危うく表情を崩しかけた。


 公表されている転移能力者は、数キロで国家戦略級と評価されている。


 目の前の男は、四百メートルを誤差と呼んだ。


「門型ですか。それとも対象を直接消して、転移先へ再構築する形式ですか?」


「門を開く」


「門……?」


「ああ。入り口と出口をつなぐ。押せば通る」


 綾音の頭の中で、先ほど想定していた利益がさらに桁を変えた。


 術者が対象へ触れる必要すらない。


 門を開き、人や物を通す。


 それが本当なら、標一人を何度も往復させる必要がない。


 門を維持できる間、輸送を継続できる。


 車列を。


 部隊を。


 大量の貨物を。


 道路のように通せる。


「……それを先に言ってください」


「聞かれなかった」


「転移能力を持っているかなんて、普通は聞きません!」


「なら俺の責任ではない」


「何でそんなに平然としているんですか!」


「珍しいだけだろ」


「珍しいという言葉では足りません!」


 綾音は思わず声を上げ、周囲の学生が振り返った。


 慌てて声を落とす。


「転移能力者は、国家が身辺を管理する戦略級能力者です。民間の物流会社が自由に契約できる存在ではありません」


「俺はまだ国家の物ではない」


「そういう意味では……いえ、その通りですね」


 綾音は息を整えた。


 今、最もしてはいけないことは、標を国へ差し出すことだった。


 規則だけを考えれば、すぐ学校や能力管理局へ報告するべきだ。


 しかし、そうなれば標との交渉窓口は政府に奪われる。


 六波羅運輸が契約へ関与する余地は消える。


 かといって、未登録能力を隠蔽すれば、後で問題になる。


 必要なのは、隠すことではない。


 政府が介入する前に、正規の契約実績と優先交渉権を確保することだ。


「契約内容を変更します」


 綾音は端末を操作した。


「最初の依頼は、零属性魔法による低振動搬送でした。転移を使うなら、業務内容が違います」


「報酬を上げるのか?」


「試験段階です。成功する保証はありません」


「失敗すれば取らない」


「一万五千円」


「安い」


「実績のない未登録能力者へ、これ以上は出せません」


 実際には、転移が本物なら一万五千円など誤差だった。


 綾音は知っている。


 標も、おそらく分かっている。


 だからこそ今回の金額は、単なる作業報酬にすぎない。


 本当の利益は別にある。


「その代わり、六波羅運輸は神代君の転移能力を利用した、最初の正式な契約者になります」


「それで?」


「今後、転移門を商業利用する際、六波羅運輸に最初の交渉機会を与えてください」


「優先参加権だけだ。契約を結ぶ義務は負わない」


「構いません」


「専属権も渡さない」


「要求しません」


「技術情報の所有権も俺だ」


「当然です」


「俺の名前や実績を営業へ利用する場合は、別途契約」


「分かりました」


「俺を安く使おうとした場合、次から値上げする」


「それは契約条項ですか?」


「警告だ」


「覚えておきます」


 綾音は即座に条件を入力した。


 手が震えそうになるのを、端末を強く握って抑える。


 たった一万五千円。


 それだけで、世界でも前例のない門型転移能力者との最初の商業契約を得られる。


 幸運などという言葉では足りない。


 もし転移が成功すれば、この電子契約書は将来、六波羅運輸が世界企業へ変わった原点として記録される。


 少なくとも綾音は、そうするつもりだった。


「失敗時は報酬なし。機材を破損した場合、神代君の責任範囲に応じて弁償。事前の座標確認と学校への申請は私が行います」


「座標確認は俺がする」


「必要なものは?」


「転移先を見る。それだけだ」


「作業時間は?」


「十五分以内」


「三十分で十分では?」


「長く拘束されたくない」


「では十五分。転移実施の詳細データは――」


「別料金だ」


「最低限の成功記録は必要です」


「搬送前後の機材状態と時間だけなら構わない。術式や魔力消費の詳細は売らない」


「分かりました」


 綾音は契約書を標へ送信した。


 標は内容を確認する。


「悪くない」


「当然です」


 標が署名する。


《契約が成立しました》


 短い通知音が鳴った。


 綾音はその文字を、数秒見つめた。


 本当に成立した。


 まだ誰も知らない。


 鳳城グループも。


 獅堂戦技も。


 政府も。


 世界有数の物流企業も。


 自分が最初だった。


「何を笑っている」


 標が尋ねた。


 綾音は、自分の口元が緩んでいることに気づいた。


「笑っていましたか?」


「ああ」


「少し、幸運だったと思いまして」


「一万五千円で仕事をさせられることが?」


「それもあります」


「次は上げるぞ」


「分かっています」


 次がある。


 その事実の方が重要だった。


 次の交渉へ参加できる。


 そこから先は、綾音自身の能力で利益へ変えればいい。


「六波羅」


「何です?」


「デザートはいくらだ」


 綾音の盆に載っている、小さな焼き菓子を見る。


「二百八十円です」


「うまいか?」


「普通です」


「ならいらない」


「世界の物流を変える話をした直後に、二百八十円を気にします?」


「世界の物流は、まだ俺に一円も払っていない」


 綾音は一瞬黙り、笑った。


「守銭奴ですね」


「褒め言葉として受け取る」


「先ほどのお返しですか?」


「ああ」


「神代君」


「何だ」


「本当に昨日までと別人みたいですね」


 標はスープを飲み干した。


「昨日までの俺に、戻った方がいいか?」


 綾音は答えなかった。


 以前の標は扱いやすかった。


 頼まれれば雑務を引き受け、企業関係者へ頭を下げ、自分を安く使わせていた。


 その代わり、何の価値も示せなかった。


 今の標は尊大で、金に細かく、何を考えているか分からない。


 危険ですらある。


 だが、少なくとも自分の価値を他人へ委ねない。


「今の方が、商売はしやすそうです」


「正直でいい」


「ただし、信用できるかは別です」


「契約を守れば、それで十分だ」


「そうかもしれませんね」


 綾音は端末をしまった。


「明日の放課後、第五研究棟へ来てください」


「何か予定が?」


「寝具を見に行こうと思っていた」


「仕事の後にしてください」


「十五分を超えたら追加料金だ」


「契約書に書いてあります」


「ならいい」


 標は席を立った。


「どこへ?」


「寝る」


「午後の授業があります」


「午前に働いた」


「測定を受けただけです」


「今も契約交渉をした」


「それを仕事に数えるんですか?」


「当然だろ」


 標は食器を返却口へ運ぶ。


 その背中を見ながら、綾音は契約書をもう一度開いた。


 門型転移能力者との最初の契約。


 たった一万五千円。


「これは稼げる……」


 今度は、本人に聞こえない声で呟いた。


 ◇


 午後の授業へ向かう前に、標は榊原に捕まった。


 第七実技棟を出た先。


 渡り廊下の中央で、担任が腕を組んで待っている。


「昼休みは終わったぞ」


「知っています」


「面談だ」


「食後は眠いので、明日にしてください」


「今だ」


「強制ですか?」


「学生の状態を確認するのは担任の義務だ」


「義務なら仕方ありませんね」


 標は抵抗せず、榊原の後についていった。


 案内されたのは、実技棟の端にある小さな指導室だった。


 机。


 椅子。


 記録端末。


 壁には、学生相談窓口や侵食症状に関する資料が貼られている。


 標は部屋に入ると、出口と窓の位置を確認した。


 窓には防護術式。


 扉は通常錠。


 榊原一人なら、逃げる必要はない。


「座れ」


 標は椅子へ腰を下ろした。


 榊原は正面に座らず、斜めの位置へ椅子を移動させる。


 対象へ圧迫感を与えない、面談用の配置だ。


「最初に聞く」


 榊原が端末を置いた。


「自殺を考えているか?」


「考えていません」


「採用通知が一件もなかった」


「雇われずに済むので喜んでいます」


「昨日までは、一般魔導職でもいいから紹介してほしいと言っていた」


「気が変わりました」


「一晩で、人間はそこまで変わらない」


「変わったものは仕方ない」


 榊原は黙って標を見る。


 風属性の感知術が、薄く室内へ広がる。


 心拍。


 呼吸。


 発汗。


 魔力反応。


 嘘を見抜くためのものだ。


「記憶の欠落は?」


「多少」


「どの程度だ」


「昨夜の一部が曖昧です」


「頭痛、吐き気、幻覚は」


「ありません」


「異能発現の兆候は?」


 標は一瞬考えた。


 ここで隠す意味は薄い。


 明日の契約で転移を使えば、いずれ学校にも知られる。


「あります」


 榊原の目が鋭くなる。


「具体的に」


「転移です」


 室内の空気が止まった。


 榊原は数秒、標を見たまま動かなかった。


「……もう一度言え」


「転移能力が発現しました」


「空間収納や、物体置換ではないな?」


「場所と場所をつなぐ転移です」


 榊原は椅子を蹴るように立ち上がった。


「いつだ」


「おそらく昨夜」


「使用したのか?」


「この身体ではまだです」


「誰かに話したか?」


「六波羅に」


「なぜ六波羅が先なんだ!」


「契約相手なので」


「何の契約だ!」


「明日、研究機材を転移させます」


 榊原は額へ手を当てた。


 怒鳴りたいのか、頭痛を抑えているのか分からない。


「神代。転移能力者は国家登録対象だ」


「そうらしいですね」


「そうらしい、で済ませるな。世界でも確認例がほとんどない。国内の実働者は国家管理下にいる一名だけだ」


「俺は二人目ですか」


「数の問題ではない!」


「重要でしょう。希少価値に関わる」


「値段の話をするな!」


「俺の能力です」


 榊原は言葉を失った。


 標の主張そのものは間違っていない。


 ただし、能力の規模も安全性も分からない段階で、商売へ使おうとしていることがおかしい。


「能力科へ連絡する。午後の授業は欠席扱いにしない。今から検査を受けろ」


「断ります」


「神代」


「今の身体で、どこまで使えるか分からない。大型の測定装置で無理に出力させれば危険です」


「だから専門家の管理下で試す」


「この学校の転移能力者に対する知識は、どの程度ですか?」


 榊原の動きが止まった。


「何が言いたい」


「転移能力者は校内にいますか?」


「いない」


「専門教官は?」


「外部機関から招く」


「何日後です?」


「申請次第だ」


「なら、自分で確認した方が早い」


「学生の独断で異能を使用させるわけにはいかない」


「届け出前に能力を使った学生は、これまで一人もいませんか?」


「軽度の誤発動ならある」


「俺もそれでいい」


「意図的な試用は誤発動とは言わない」


 榊原の声が低くなる。


 標は彼の表情を観察した。


 規則を盾にしているだけではない。


 本気で危険を心配している。


 元A級天蓋士。


 現場を知っている。


 転移前の神代標にも、戦闘職から別進路へ移るよう勧めていた。


 それは見下していたからではない。


 能力も適性もない学生を、死ぬ可能性の高い道へ残したくなかったからだ。


「榊原先生」


「急に敬語を使うな。気味が悪い」


「俺を心配していますか?」


「担任だからな」


「それ以外は?」


「八年間見てきた学生が、卒業前に死ぬのは寝覚めが悪い」


「正直ですね」


「お前に言われたくない」


 標は少し考えた。


「分かりました。最初の試用には、学校側の監督者をつけます」


「能力科の検査を先に受けろ」


「設備が転移能力を想定していない。測定のために無理な出力を求められる可能性がある」


「なぜ、お前がそれを判断できる」


 標は答えなかった。


 元世界で十一年間使ったからだ。


 しかし、それを説明することはできない。


「感覚です」


「信用できると思うか?」


「思いません」


「なら――」


「だから、条件を出します」


 標は指を一本立てた。


「最初は校内。転移先は事前に確認する。移動させるのは無生物。俺自身は通らない。異常があれば即座に中止する」


「いつ試す」


「明日の放課後」


「例の契約か」


「はい」


「六波羅はいくら払う」


「一万五千円」


「安すぎるだろう!」


 榊原が反射的に叫んだ。


 標は少し目を見開く。


「先生もそう思いますか」


「そういう意味ではない!」


「次から上げます」


「もういい。私が立ち会う」


「監督料を取りますか?」


「取らん」


「なら構いません」


「ただし、今日中に基礎検査を受けろ。魔力経路、脳波、侵食率、身体状態だけだ。異能の強制使用はさせない」


「時間は?」


「一時間」


「長い」


「二時間にするぞ」


「一時間で」


「交渉するな」


 榊原は検査申請を送信した。


「それから、今日の午後は通常授業へ出ろ」


「眠いです」


「出ろ」


「睡眠不足は魔力制御へ影響します」


「午前十時まで寝ていた人間が言うな」


「質が悪かった」


「何の話だ」


「寝具です」


 榊原は大きく息を吐いた。


「もう行け」


「では」


「神代」


 扉へ手をかけたところで呼び止められる。


 振り返ると、榊原が真剣な目で標を見ていた。


「転移系異能の侵食症状は、十分に分かっていない」


「ああ」


「外見に変化が出ない例が多い。だから安全という意味ではない」


「知っています」


「人格や欲求の変化が報告されている。食事、睡眠、他人への関心が薄れる症例もある」


 標は黙った。


 やはりか。


 胸の内側で、言葉が落ちた。


 元世界でも同じだった。


 転移能力者には、異形化した者がほとんどいない。


 その代わり、長期間能力を使った者ほど、感情や欲望が薄れていく。


 自分の食欲が消えたことも。


 眠気を感じなくなったことも。


 仲間が死んでも心が動かなくなったことも。


 やはり、転移能力による侵食だったのだ。


 外見が変わらないのは、対応する外相種が天穴の向こうに隠れているから。


 あるいは、目に見えない内臓や精神から異形へ変わっていたから。


 医療班の推測を、標も疑っていなかった。


「今朝、お前は空腹と眠気があると言った」


「あります」


「それが急に強くなったのなら、逆に異常である可能性もある」


「欲求がある方が異常ですか?」


「昨日までのお前と比較すればな」


 榊原の指摘は正しい。


 転移前の神代標は、異能に覚醒していない。


 それでも食事への興味が薄く、眠れず、人との関係も避けていた。


 元世界の標と似ていた。


 単なる性格や就職への不安だと思っていたが、二人が重なった理由と関係しているのかもしれない。


「何か変化があれば報告しろ」


「報告した場合は?」


「検査する」


「なら黙っていた方が得ですね」


「神代」


「冗談です」


「お前の冗談は、どこまで本気か分からない」


「俺も分かりません」


 標は指導室を出た。


 廊下の窓から、青い空が見える。


 外相種の影はない。


 天穴もない。


 平和な学校。


 それなのに、榊原の言葉だけが頭に残った。


 人格や欲求の変化。


 侵食。


 そう考えれば、元世界で起きていたことには説明がつく。


 では、なぜ今は戻っている。


 転移先の自分と融合したから。


 今は、そう考えるしかない。


「まず金だな」


 標は思考を切り替えた。


 世界の謎より、寝具の方が差し迫った問題だった。


 ◇


 翌日の放課後。


 第五研究棟の地下搬入口には、六波羅綾音、榊原宗一郎、黒瀬千景の三人が集まっていた。


 中央に置かれているのは、高さ一・五メートルほどの円柱形装置。


 銀色の外殻。


 複数の測定端子。


 重量二百八十キログラム。


 零属性干渉計。


 千景は装置の周囲を回り、固定具を確認している。


「なぜ黒瀬がいる」


 標が尋ねる。


「機材の管理担当です」


 綾音が答えた。


「それに、零属性干渉計を動かせるのは黒瀬さんだけです」


「俺は運ぶだけだ」


「運んだ後、故障していないか確認する必要があります」


 標は千景を見る。


 彼女は昨日と同じく、標と目が合うとすぐに視線を装置へ戻した。


 ただし、興味を隠せていない。


「契約内容を確認します」


 綾音が端末を開く。


「この装置を、第九実技棟の地下測定室へ転移。距離は直線で四百三十二メートル。高低差十一メートル。作業開始から十五分以内」


「分かっている」


「移送中の破損が神代君の責任であれば、修理費を負担」


「それも聞いた」


「成功報酬、一万五千円」


「早く始めろ」


「急かさないでください。契約確認は重要です」


 綾音の声は普段と変わらない。


 しかし端末を持つ指には、いつもより力が入っていた。


 この契約が、単なる校内搬送で終わるのか。


 それとも六波羅運輸の未来を変えるのか。


 今から決まる。


 標は榊原へ目を向けた。


「教師として、何かありますか?」


「無理だと思った時点で中止しろ」


「それだけですか?」


「生徒に死なれるよりは、機材が壊れる方がましだ」


「修理費を払うのは俺ですが」


「だから、壊す前に止めろ」


「分かりました」


 標は装置へ近づいた。


 まず、転移先を確認する必要がある。


「第九実技棟へ行ってくる」


「徒歩で?」


 綾音が尋ねる。


「座標を見ていない」


「経路眼で案内できます」


「必要ない」


 標は地下搬入口を出た。


 第九実技棟まで徒歩でおよそ七分。


 往復すれば十四分。


 契約上の十五分は、作業開始後からだ。


 事前確認は含まれない。


 標は急がずに歩いた。


 校内の地形。


 建物。


 魔力障壁。


 地下配管。


 空間を固定する術式。


 転移経路を妨害する要素を確認する。


 この世界の建築物には、外相種の侵入や異能犯罪を防ぐため、空間系の防御術式が組み込まれている。


 ただし、標の元世界と比べれば粗い。


 転移を完全に遮断しているのではない。


 登録されていない空間変動へ警報を出すだけだ。


 第九実技棟の地下測定室へ到着する。


 扉を開く。


 中央には、干渉計を置くための台座が用意されていた。


 周囲に人はいない。


 標は台座へ手を触れた。


 座標を記憶する。


 単なる緯度や経度ではない。


 空間の歪み。


 周囲の魔力密度。


 地球の自転。


 重力方向。


 物質の重なり。


 すべてを一つの座標情報として固定する。


 その瞬間、足元の遥か下から、ごく小さな反応が返ってきた。


「またか」


 元世界の最後の戦場でも感じた。


 地面の奥から、自分を呼ぶような脈動。


 ここは平行世界だ。


 それなのに、感覚はよく似ている。


 標は数秒待った。


 反応は消えた。


「今はいい」


 契約とは関係がない。


 標は第五研究棟へ戻った。


 地下搬入口では、綾音が時計を見ていた。


「十二分です」


「事前確認は作業時間に含まれない」


「分かっています」


「なら計るな」


「癖です」


「商売人だな」


「神代君に言われたくありません」


 標は零属性干渉計の前に立った。


「開始してください」


 綾音が計測端末を操作する。


《契約作業を開始します》


 標は右手を装置へ触れた。


 二百八十キログラム。


 自分ごと転移するより、無生物だけを転移させる方が難しい場合もある。


 対象の輪郭を正確に定義しなければならない。


 装置だけを指定すれば、内部部品が座標認識から漏れる可能性がある。


 台車や固定具まで含めれば、転移質量が増える。


 標は魔力を薄く広げ、装置全体を包み込んだ。


 外殻。


 内部回路。


 測定端子。


 固定された小部品。


 装置内に残った空気。


 一つの転移対象として定義する。


「魔力反応、上昇しています」


 千景が測定端末を見る。


「でも、異能反応が……検出できません」


「神代」


 榊原が警戒した声を出す。


「問題ありません」


「異常があれば中止しろ」


「正常です」


 標は左手を上げた。


 装置の横に、縦二メートルほどの黒い線が現れる。


 線は静かに左右へ開いた。


 光も爆発もない。


 空間が切り取られ、その向こうに別の部屋が見える。


 第九実技棟の地下測定室。


 四百三十二メートル先の景色が、まるで隣室のようにつながっていた。


 綾音の呼吸が止まった。


 転移能力が本物であることは覚悟していた。


 それでも、想像していたのは標が装置へ触れ、次の瞬間には別の場所へ消えているような光景だった。


 これは違う。


 人が歩ける。


 荷物を押し込める。


 入り口と出口が同時に存在する。


 扉だ。


 距離そのものを消す、巨大な扉。


「門……」


 綾音の唇から、かすれた声が漏れた。


 千景は端末を見ることすら忘れ、開いた空間を凝視している。


 榊原だけが即座に動いた。


 標の肩をつかみ、後方へ引こうとする。


「待て。門型の転移など聞いていない」


「言いました。門を開くと」


「この大きさとは聞いていない!」


「機材が通らなければ意味がないだろ」


「閉じろ。安全性が確認できていない」


「作業中です」


「異能発現直後の学生が、安定性も確認せず――」


「安定しています」


 標は装置を軽く押した。


 二百八十キログラムの干渉計が、床を滑るように動く。


 無属性魔法で摩擦と慣性を制御している。


 装置の先端が、黒い門へ触れた。


 抵抗はない。


 半分が第五研究棟に残り、半分が第九実技棟へ現れる。


「待ってください!」


 綾音が思わず声を上げた。


「何だ」


「途中で門が閉じたら、装置が切断されます」


「閉じない」


「どうして断言できるんです?」


「俺が開いているからだ」


「説明になっていません!」


「うるさい。集中できない」


 標が残りを押す。


 干渉計は完全に門を通過し、第九実技棟の台座前へ移動した。


 標は転移門の向こうへ手を伸ばす。


 無属性魔法で装置を台座へ滑らせ、所定の位置へ停止させた。


 固定。


 傾きなし。


 衝撃なし。


 移送完了。


 標が指を閉じる。


 転移門が、静かに一本の線へ戻った。


 線も消える。


 地下搬入口には、装置が置かれていた空間だけが残った。


「終了」


 標は綾音を見る。


「何秒だ」


 綾音は答えられなかった。


 手元の端末には数字が表示されている。


 二十七秒。


 だが、その意味が頭へ入ってこない。


 二百八十キログラムの精密機器。


 四百三十二メートル。


 二十七秒。


 振動なし。


 燃料なし。


 人員一人。


 道も車両も必要ない。


 しかも門の大きさは、人間が余裕をもって通れる。


 この規模を維持できるなら、貨物を一つずつ転移させる必要さえない。


 作業員が台車を押して通ればいい。


 輸送設備そのものを、門の前後へ置けばいい。


 工場と倉庫。


 病院と災害現場。


 港と内陸。


 日本と海外。


 すべてを隣室にできる。


「六波羅」


 標の声で、綾音は我に返った。


「……二十七秒です」


「契約達成だな」


「確認が先です」


 綾音は端末を操作した。


 指がわずかに震えていた。


 第九実技棟の監視映像が表示される。


 零属性干渉計は、指定された台座前に置かれていた。


 傾斜なし。


 外装損傷なし。


 振動記録は、手作業で運搬するより低い。


「黒瀬さん」


「行きます」


 千景が駆け出そうとする。


「門を開ければ早い」


 標が言うと、彼女は足を止めた。


「まだ、開けられるんですか?」


「この距離なら」


「魔力消費は?」


「ほとんどない」


「侵食率は?」


「変化していない」


 榊原が携帯測定器を標の首元へ当てた。


「……〇・一パーセント未満。誤差範囲だ」


「言ったでしょう」


「門型転移で、この数値はあり得ない」


「緩衝している」


「何を?」


「異能と身体の間を、無属性魔法で」


 榊原と千景が同時に標を見た。


 綾音は、それどころではなかった。


「神代君」


「何だ」


「この門を、どの程度の大きさまで広げられます?」


「今の身体では分からない」


「人は通せますね?」


「見れば分かるだろ」


「複数人を連続で?」


「門が開いている間なら」


「車両は?」


「大きさと魔力次第だ」


「貨物車両は?」


「今は無理かもしれない。魔力を確保できれば可能だ」


「距離は?」


「座標が分かれば、かなり遠くまで」


「門を開いたまま、何人でも通せる?」


「処理限界までは」


 綾音の頭の中で、先ほどまでの計算がまた崩れた。


 転移能力者一人が一度に数人を運ぶ。


 それだけでも国家級。


 だが標は、門を設置する。


 門をくぐる者から、一人ずつ通行料を取れる。


 人間。


 貨物。


 車両。


 重量。


 距離。


 危険地域。


 緊急性。


 夜間。


 優先通行。


 往路。


 帰路。


 料金項目が、勝手に頭の中へ並んでいく。


 港湾使用料。


 高速道路料金。


 航空運賃。


 緊急輸送費。


 それらすべてを、一つの転移門へ集約できる。


「……金になります」


 綾音が呟いた。


「当然だ」


「いえ」


 綾音は標を見る。


 笑みを抑えられなかった。


「想像していたより、桁が違います」


「だから安売りするな」


「誰に言っているんです?」


「俺とお前だ」


「分かっています」


 分かっている。


 誰よりも。


 この能力を一企業が独占することは、おそらく国家が許さない。


 各国も、世界企業も参入しようとする。


 だから六波羅運輸が必要なのは、独占権ではない。


 神代標が事業を始める際、自分たちを最初のパートナーとして選ぶ理由。


 物流の知識。


 顧客網。


 契約実務。


 許認可。


 料金体系。


 標が面倒だと感じるすべてを引き受けることで、切れない関係を作る。


 今日の契約は、その最初の一本だ。


「神代君」


「何だ」


「今日の契約、あとから無効にはできませんからね」


「するつもりはない」


「六波羅運輸には、次回交渉への優先参加権があります」


「専属ではない」


「分かっています。それでも十分です」


「最初に価値を見つけたのは俺だぞ」


「商業的価値を見つけたのは私です」


「それも俺だ」


「では、二番目で構いません」


 綾音は笑った。


 二番目でいい。


 他の企業がまだ一つも並んでいない今なら。


 端末が通知音を鳴らす。


《契約条件の達成を確認しました》


《報酬一万五千円が支払われました》


 標は残高を確認した。


 増えている。


 戦闘手当でも、軍からの給与でもない。


 誰かに命令されて得た金でもない。


 自分で値段を決め、相手が同意し、仕事を終えて受け取った金。


「悪くない」


「一万五千円ですよ?」


「金額の話ではない」


 標は端末をしまった。


「これで、寝具が買える」


「足りないのでは?」


「なぜ知っている」


「事前に市場価格を調べました」


「俺の寝具を?」


「神代君が最初に金を使いそうな物として」


 綾音はすでに、標を継続契約へつなぎ止める方法を考え始めている。


 標が望むのは名誉ではない。


 英雄の称号でもない。


 快適な生活。


 自由。


 金。


 ならば、それを事業の対価として与えればいい。


「次の仕事を用意します」


「明日は休む」


「今日、二十七秒しか働いていませんよね?」


「事前確認と交渉もした」


「それでも一時間未満です」


「時間ではない。働いたという事実が重要だ」


「何にとってです?」


「俺の休暇にとってだ」


 標は地下搬入口を出ようとする。


「神代」


 榊原に呼び止められた。


「能力科の検査は受けてもらう」


「強制出力なしなら」


「それから、この件は当面、関係者以外へ口外するな」


「なぜです?」


 尋ねたのは綾音だった。


「転移系異能は国家登録対象だ。特に門型など、私も記録を見たことがない」


「隠せると思いますか?」


「少なくとも、正式な評価が出るまでは時間を稼げる」


 榊原の視線が、標へ向く。


「神代。お前の能力は、おそらく自分で考えている以上に面倒だ」


「価値が高いという意味ですか?」


「世界中の国と企業が、お前を放っておかないという意味だ」


「なら、料金表を作る必要がありますね」


「そういう話をしているんじゃない」


「俺にとっては、その話です」


 標は振り返らず、片手を上げた。


「今日は終わりです。寝具を買いに行くので」


 足音が遠ざかっていく。


 地下搬入口に残された綾音は、閉じた扉を見つめた。


「榊原先生」


「何だ」


「神代君を、どこかの企業へ就職させる予定はありますか?」


「昨日までは、そのつもりだった」


「今は?」


 榊原は答えなかった。


 就職させる。


 企業の一社員として管理する。


 それが可能な段階を、すでに過ぎている気がした。


 黒瀬千景は、標が門を開いた場所へ近づく。


 空間には何も残っていない。


 異能特有の相素汚染も、歪みもない。


 ただ、門が存在していた場所だけ、周囲よりわずかに魔力が整っている。


「転移したのに、空間が傷ついていない」


 千景が呟いた。


「普通は違うんですか?」


 綾音が尋ねる。


「記録上の転移能力は、空間を無理に曲げます。使用地点には、必ず微細な亀裂か相素残留が出ます」


「神代君の門には、それがない?」


「はい。曲げたというより……」


 千景は言葉を探した。


「最初から、二つの場所が隣り合っていたみたいです」


 綾音は、第九実技棟の映像を見た。


 四百三十二メートル。


 二十七秒。


 振動なし。


 破損なし。


 魔力消費、ほぼなし。


 門を開けば、複数人や大量の物資も通せる。


 現在の輸送業界が、そのままでは存続できなくなる数字だった。


 六波羅運輸は、大企業ではない。


 鳳城や獅堂のような戦闘部門も持たない。


 物流だけで生き残ってきた中堅企業だ。


 この転移門と関係を築ければ、すべてが変わる。


 会社の規模。


 発言力。


 世界における物流の常識。


 問題は、神代標が誰かに従う性格ではなくなったことだ。


 雇用は拒否する。


 専属契約にも警戒する。


 安く使おうとすれば、二度と相手にされない可能性がある。


 ならば、雇うのではない。


 対等な利益を示し、標自身が手放したくない関係を作る。


 契約だけでは足りないなら、より深く。


 標が自分を切れば損をするほど、強く結びつけばいい。


「六波羅」


 榊原の声で、綾音は思考から戻った。


「ずいぶん楽しそうだな」


「分かりますか?」


「顔に出ている」


「失礼しました」


「何を考えていた」


「六波羅運輸の将来を少し」


「学校を自社の実験場にするなよ」


「正規の契約と許可を取ります」


「神代の能力は、まだ安全性が確認されていない」


「だから小規模な仕事から始めるんです」


「商売の前に、本人の安全を考えろ」


「もちろんです」


 綾音は真剣な顔で榊原を見る。


「神代君が壊れれば、すべて終わりますから」


「言い方が完全に事業者なんだよ」


「ですが、大切に扱う点は同じです」


 榊原は何か言い返そうとして、諦めたように息を吐いた。


「国は、神代の能力を公共目的で使おうとする」


「でしょうね」


「天穴災害や人命救助なら、拒否させられない場合もある」


「法的には可能でも、無償で強制するべきではありません」


「国家存亡が懸かっていてもか?」


「能力を使うのは神代君です」


 綾音は、標が消えた扉へ目を向ける。


「神代君は、昨日までより明らかに性格が悪いです。お金に細かいですし、働く気もありません」


「本人のいないところで、随分言うな」


「ですが、一つだけ正しい」


「何だ」


「転移門は、神代君の能力です」


 国家にも。


 学校にも。


 企業にも。


 最初から所有権があるわけではない。


「公共のためだから無料で使わせろと言えば、あの人は本当に門を閉じますよ」


 榊原にも、それは容易に想像できた。


 そして困るのは、門を閉じた神代標ではない。


 門を必要とする側だ。


「だからこそ、最初に正当な利用条件を作る必要があります」


 綾音は微笑んだ。


「彼の気分一つで、世界の物流が止まるようになる前に」


 ◇


 その頃、神代標は寝具店で最高級の枕を抱えていた。


 値札を見る。


 三万二千円。


 今日の報酬より高い。


「……次の仕事が必要だな」


 世界の物流を変えるより先に。


 標には、枕を買うための金が必要だった。


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