第08話「死蔵という病」
【グランゼ辺境 テラ村 帰還翌朝】
手持ち …… 銀貨百十二、銅貨十六
代官邸 …… 母屋一・倉三(丘上より遠見確認済、内部未確認)
昨夜 …… 代官の使い、回廊の使用権を盾に接触(上納の打診)
特記───「儲けの匂いを嗅ぎつけた狸は、己の巣に何を隠す」
俺は、この村を覆う貧しさの正体を、その日はっきりと理解した。
理解といっても、天啓の類ではない。積み上げてきた数字が、ひとつの答えに落ち着いただけだ。だが、その答えは、この村の形そのものを作り変える理由になった。
事の始まりは、前夜の訪問者だった。
「回廊を使う権利は、いずれこちらで明らかにする」――そう返した自分の声が、朝になっても喉の奥に貼りついたままだった。明らかにする、と言った。だが、何をどう明らかにするのか、昨夜の時点では何ひとつ形になっていなかった。
村長宅の板間で目を覚ますと、隣の布団はもう畳まれている。井戸端の水音に混じって、ヴォルクの欠伸が聞こえた。
「起きたか、坊主」戸口から顔を覗かせたヴォルクは、濡れた手ぬぐいで首筋を拭っていた。「昨日の狸の使い、思ったより早く尻尾を出してきたな」
「早すぎるくらいだ」身を起こしながら答えた。「あの男が焦って動いたということは、こちらの手札を、向こうも読み始めたということだ」
「で、どうする気だ」
「代官邸を見てくる」
ヴォルクの手が止まった。
「昨日の今日でか。相手は、家の名まで持ち出してきた男だぞ」
「だからだ」布団を畳みながら言葉を継いだ。「向こうが本気で仕掛けてくる前に、こちらも手の内を知っておきたい」
台所の方から、アーヴィンの声が届いた。
「――行くのか、坊ちゃん」
戸口に立ったアーヴィンは、湯気の立つ椀を両手に持っていた。差し出された椀を受け取ると、麦の匂いがふわりと立つ。啜ると、粥の温かさが喉から胃へ落ちていった。塩気は控えめだが、体の芯に染みる味だった。
「見てくるだけです。何もせず、何も残さず」
「そういう約束を、この歳まで何度聞いてきたことか」アーヴィンは低く笑ったが、目の奥までは笑っていなかった。「坊ちゃんの目は、もう見てくるだけの目じゃない。何かを、決めにいく目だ」
答えられなかった。飲み干した椀を返すと、それだけで十分だというように、アーヴィンは頷いて戸口を空けた。
「代官邸に、何を探しに行く」戸口をくぐる間際、アーヴィンが低く尋ねた。
「まだ、探すとしか言えません」
「――そうか」アーヴィンはそれ以上を聞かず、短く頷いた。「気をつけてな、坊ちゃん。あそこの門番は、よそ者の匂いに敏感だ」
支度をしながら、窓の外に目をやった。朝靄の中、畑へ向かう村人たちの影が、塩害地の縁を点々と歩いている。昨夜まで軒先を彩っていた魔灯石の光は、もう朝日に溶けて見えなくなっていた。それでも、あの灯りがこの村の輪郭を少しだけ変えたことは、確かだった。
丘の上から見下ろしたテラ村の景色を、今でも覚えている。塩害地の白い地面と、代官邸だけがやけに贅を凝らした屋根瓦を光らせていた光景を。あの日、遠くに、母屋の裏手へ連なる三棟の倉が見えた。あの時は、ただの遠景だった。今は、確かめるべき対象になっている。
「見つかれば、ただの覗き見だ。言い訳もできねえぞ」
「見つからなければいい」
ヴォルクは片眉を上げたが、それ以上は止めなかった。剣の具合を確かめるように鞘から半分だけ抜き、また収める。長旅の疲れをまだ引きずっているはずの体つきに反して、目つきだけは既に張り詰めていた。無言で戸口の外へ顎をしゃくる。行くぞ、という合図だった。
代官邸までは、村はずれから歩いて四半刻ほどの距離だった。畑を抜け、雑木林に入ると、日差しが急に和らぐ。葉擦れの音だけが耳につく静けさの中を、二人分の足音が踏み分けていった。途中、一度だけ遠くで馬の嘶きが聞こえた。ヴォルクが無言で足を止め、耳を澄ませる。しばらく待ったが、それきり何も起こらなかった。
村外れの林を回り込み、代官邸の裏手が見える場所まで来ると、ヴォルクが足を止めて茂みの奥を指差した。
「あそこからなら、母屋の裏まで見える」
身を屈め、灌木の陰に身を潜めた。土の湿った匂いに、枯れ葉の匂いが混じっている。膝をついた地面から、朝露の冷たさが染みてきた。
代官邸は、以前この目で見た時よりも、明らかに人の出入りが多くなっていた。母屋の裏手に建つ三棟の倉、そのうち二棟の前で、人足らしき男たちが荷を運び込んでいる。数えると、少なくとも四、五人はいた。普段の代官邸に、これほどの人手が割かれているところを見たことはない。木戸の脇には、見覚えのない顔の見張りが二人、槍を携えて立っていた。以前、丘の上からこの屋敷を見下ろした時には、ここまでの数はいなかったはずだ。
「見張りが増えてるな」ヴォルクが低く言った。「一昨日、あの取り巻きが来た後によ」
「回廊の件で、神経を尖らせている」
「それだけか?」
分からない。だが、見張りを増やすというのは、隠したいものが増えたか、隠したいものの価値に、今更ながら気づいたか、そのどちらかだ。
目を凝らすと、三棟のうち一番奥の倉だけ、壁板の色が他の二棟よりも明らかに新しかった。年月に灼けた灰色の板の隣に、まだ木目の残る色が並んでいる。屋根の勾配も、他の二棟よりわずかに深い。急ごしらえではない、金に糸目をつけずに組んだ造りだ。増築だ。溜め込む量が、今も増え続けている証拠だった。
人足の一人が、荷袋を担いだまま、もう一人に声をかけた。
「――今年も、蔵に積むだけかよ」
「代官様のお考えだ。俺たちが口を挟むことじゃねえ」
「去年の分だって、まだ半分も出てねえのに、よ」
風に乗って届いた会話は、それだけだった。だが、それだけで十分だった。去年の分。まだ半分も出ていない。溜め込まれた時間が、一年やそこらではないということだ。
倉に視線を戻す。積み上げられた麻袋の山が、開いた戸口の奥にちらりと見えた。こぼれ落ちたのだろう、戸口の外の地面に、粒の細かい何かが薄く散らばっている。目を凝らすと、乾いた麦の粒だと分かった。艶も色も、今年収穫されたばかりのものではない。時を経て褪せた粒だった。手を伸ばして確かめたい衝動を、ヴォルクの手が肩を押さえて抑え込んだ。
「ここまでにしとけ、坊主。見つかりゃ元も子もねえ」
だが、確かめるまでもなかった。視界の端に、ふっと文字が滲んだ。
『代官の倉/真価:一村を幾年も食わせてなお余る、凍えたまま眠る富/世評:不作に備えた代官の私財』
真価と世評の文字を、二度読んだ。読み間違いを疑ったからだ。だが、何度見ても数字の桁は変わらなかった。
不作に備えた備蓄、という建前は聞こえがいい。だが、真価が語る量は、備えという言葉で片づけられる規模を、明らかに超えている。畑の安値没収、反抗者の失踪――これまで聞かされてきた村の話が、ひとつずつ、あの倉の中身に姿を変えて積み上がっていく。
村が飢える横で、代官の倉だけが肥えていく。
腹の底に、冷たい重さが沈んだ。怒りとも違う。もっと乾いた、計算高い感情だった。前世で、粉飾された決算書を初めて見抜いた時と、似た類のものだ。あの時も、数字はどこまでも正直だった。誤魔化していたのは、人の言葉の方だけだった。帳簿の表紙は、いつだって美しく整っている。中身の腐敗は、めくった者にしか見えない。
大崩壊の記憶の中に、忘れられない光景がひとつある。ある地方都市で、倉庫という倉庫に、誰の物とも知れない在庫が積み上がったまま、朽ちていくのを見た。持ち主は権利だけを主張し、使い道は誰も持たなかった。その街は、やがて地図から名前を消した。今、目の前にあるのは、同じ病が村ひとつ分の大きさに縮まっただけの光景だ。
「――おい」
ヴォルクの声に、我に返った。見ると、木戸の見張りの一人が、こちらの方角へ視線を巡らせている。気配を感じ取ったのか、それとも単なる巡回の一環か。判別する余裕はなかった。
ヴォルクに腕を引かれ、身を低くしたまま林の奥へ後退する。心臓が、思いのほか速く打っていた。木の幹に背をつけ、息を潜める。見張りの足音が、こちらへ向かうことなく、木戸の前を通り過ぎていくのが聞こえた。
「肝が冷えたぜ」ヴォルクが小声で舌打ちした。「次に来る時ゃ、もっと離れた場所からにしろ」
「次があると決まったわけじゃない」
「あるだろ、その面は」
答える代わりに、林の奥へと歩き出した。証拠は、まだ何ひとつ手の中にはない。あるのは、視界の端に浮かんだ数字と、この目で見た人足たちの荷運びの光景だけだ。突きつけるには、まだ足りない。だが、確信には、もう十分すぎるほどだった。
代官邸から距離を取り、村へ続く道に戻る頃には、日はもう高く昇っていた。
「――あの倉が、答えだ」
歩きながら、独り言のように漏れた。ヴォルクが横目でこちらを見る。
「答えって、何のだよ」
「この村が、いつまで経っても貧しいままの理由だ」ヴォルクの顔を見ずに、言葉を継いだ。「死蔵――溜め込むほど得をする仕組みが、村を殺している」
「溜め込むほど、得?」
「岩塩も、畑の作物も、代官が安く取り上げて、あの倉に積むだけ積んで、外には出さない。出さなければ、値が崩れることもない。腐らせても、代官の懐は痛まない」
「そりゃあ、まあ、あくどい話だとは思うが」ヴォルクは腕を組んで唸った。「今更の話じゃねえのか。前々から、そういう男だって分かってたろ」
「分かっていたのと、仕組みとして直すのとは、話が違う」
歩調を緩めずに、続けた。
「値段を、自分で申告させる。ただし、その申告値で、誰でも買える権利を持たせる」
「はあ?」
「安く申告すれば、誰かがその値で買っていく。だから、安く申告する意味がなくなる。高く申告すれば、それだけ多くの税を取られる。だから、皆が正直な値をつけるようになる。――溜め込めば、損をする仕組みだ」
ヴォルクは足を止め、しばらく黙ってこちらを見ていた。
「……賭場の話か?」
「違う」
「じゃあ、ますます分からねえ」ヴォルクは頭を掻きながら、歩みを再開した。「申告だの税だの、坊主の話は、いつも半分から先が見えなくなる」
「単純なことだ。物の値段を、誰か一人が決める世界から、皆が決める世界に変える。それだけだ」
「その『それだけ』が、俺にはさっぱりだっつってんだよ」ヴォルクは苦笑した。「たとえ話にしてくれ、坊主。剣なら分かる、飯なら分かる。数字の話は駄目だ」
「――飯の話ならどうだ」少し考えて、言い換えを試みた。「お前が獲ってきた獲物の肉を、誰にも売らずに、ただ家の中に積んでいるとする」
「もったいねえことしねえよ、そんな」
「たとえばの話だ。誰も食わない肉は、いずれ腐って、誰の得にもならない。だが、値をつけて誰かに売れば、その分だけ村に金が回る」
「そりゃそうだが、肉と代官の倉は話が別だろ。あっちは腐らせちゃいねえ」
「腐らなくても、動かなければ同じだ。滞った金は、腐った肉と変わらない」
「――言われてみりゃ、そうか?」ヴォルクは首を捻ったが、まだ腑に落ちた顔ではなかった。
伝わりきらない。もう一段、喩えを変える必要があった。
「――お前の剣が、誰の物でもないとする」
「あ?」
「お前がどれだけ大事にしていても、値をつけずに黙って持っているだけなら、誰かが『これは使われていない剣だ』と言って、勝手な値をつけて持っていっていい、という決まりがあったとする」
「物騒な決まりだな、おい」
「だが、お前が『この剣は銀貨百枚の値打ちがある』と自分で申告して、実際に振るっていれば、誰にも取られない。安く申告すれば、その値で買われてしまう。だから、お前は正直な値をつける」
ヴォルクはしばらく黙って、自分の腰の剣に触れた。
「……つまり、後生大事に死蔵してる奴から、根こそぎ取り上げる仕組みってことか」
「そうだ」
「最初からそう言えよ!」
ヴォルクは呆れたように笑ったが、声には得心の色が滲んでいた。剣の喩えなら分かる、という男の顔だ。
「なるほどな。あの狸の倉に、まるまる効く話だ」
苛立ちは、なかった。むしろ、腑に落ちるものがあった。剣の喩えを使って、ようやく一つだけ伝わった。だが、あの倉の中身を、税だの申告だのという言葉のまま、村の誰に説けばいいのか。喩え話を一つひとつ作っている時間は、恐らくない。
「分からなくていい」足を止めずに言った。「俺も、まだ全部を言葉にできているわけじゃない」
「随分と弱気だな、柄にもなく」
「弱気ではない。やり方を変えるだけだ」
ヴォルクは片頬で笑うと、それ以上は突っ込んでこなかった。しばらく無言で歩いた後、ぽつりと口を開いた。
「まあ、何が何やら分からねえが」ヴォルクは前を向いたまま言った。「坊主がそこまで考え込んでるってことは、よっぽどのことなんだろうよ。理屈は分からねえが、お前がそう決めたなら、俺は付いていくだけだ」
理屈は分からない、と言い切った声に、迷いはなかった。分からないなりに信じる、という態度が、言葉より雄弁だった。
「――ありがたい話だ」
「礼はいらねえよ。護衛の仕事だ」
聞き覚えのある台詞だった。峠の焚き火で聞いたのと、同じ言葉だ。
乾いた道に、二人分の足音だけが規則正しく響いていた。時折、畑の方から鍬を振るう音が聞こえてくる。この村の日常は、いつも通りに続いている。だからこそ、変える価値があった。
村へ戻る道の途中、塩害地を見渡す小高い場所に差しかかった。足を止め、テラ村を見下ろす。
畑の緑、点在する家々の屋根、その向こうに霞む代官邸の贅沢な瓦。同じ土地の中に、これほど違う景色が同居している。眼下に広がる塩害地の白は、日を浴びて鈍く輝いていた。ひび割れた土が、大地そのものの渇きを訴えているように見える。風は乾いていたが、土と麦の匂いを微かに含んでいた。丘の斜面から見下ろす角度では、まだ頼りなく薄い緑にしか見えない畑も、初めてこの村に来た日に見た枯れかけの畝よりは、幾分か色が濃くなっている気がした。
前世の記憶が、不意に滲んだ。
大崩壊の後、誰も彼もが動かなくなった時代があった。危険を恐れたから、というだけではない。動かした者から損をする仕組みが、そこら中に張り巡らされていたからだ。既得の座に居座り、蓄えを抱え込んだ者だけが生き残り、動いた者は掠め取られた。
動いた者が掠め取られる、という記憶には、忘れられない顔がひとつある。滞った在庫を抱えきれず、値を下げてでも売り捌こうとした小さな工房の主だ。正しい判断のはずだった。だが、値崩れを起こした咎という理由だけで、同業者から爪弾きにされ、半年と持たずに潰れた。動くことが、罰のように扱われる時代だった。誰も彼もが、手元の富を凍らせたまま、じっとうずくまっていた。
あの頃、色を失っていく街を、幾つも見てきた。人がいなくなったわけではない。人はいる。ただ、誰も動かないだけだ。動かない街は、生きていても死んでいるのと同じだった。
「――おい、黙り込むな」ヴォルクの声が、思考の底まで届いた。「難しい顔してるの、代官邸を出てからずっとだぞ」
応えず、テラ村へ視線を戻した。今、この辺境の村でも、同じことが繰り返されている。規模は違う。だが、構造は同じだ。溜め込んだ者が得をし、動いた者が搾り取られる。誰も彼もが、身をすくめて、ただ耐えている。
丘を吹き抜ける風が、じわりと汗を冷やしていった。
あの頃、新しい経済を組み直した男たちがいた。誰もが正直な値をつけざるを得ない仕組みを、ゼロから設計した男たちが。あの時、自分もその末席にいた。国という大きすぎる器を相手に、来る日も来る日も数字と向き合った。だが、巨大な組織の歯車の一つに過ぎなかった身では、制度の外枠を作ることはできても、それが血の通った形で根付くところまでは、ついに見届けられなかった。
もう一度、それをやる。
今度は、国家という大きな器ではなく、この小さな辺境の村で。
「――おい、坊主」
ヴォルクの声に、視線を戻した。怪訝な顔で、こちらを見ている。
「また、その面か。今度は何を企んでる」
「自由市を、敷く」
言葉にすると、思いのほかあっさりと口から出た。
「自由――何だって?」
「値段は、皆が自分で決める。溜め込めば損をする。動かせば得をする。そういう場を、この村に作る」
ヴォルクは分かったような分からないような顔で、鼻を鳴らした。
「さっきの剣の話と同じだろ、それ」
「同じだ。だが、今度こそ、迷いはない」
丘の上に立ったまま、テラ村を見下ろした。畑を耕す人影が、遠く小さく動いている。あの人影の一つひとつが、いずれこの手で変える仕組みの中で生きることになる。
だが――
村人は、誰も、自由市などという制度を知らない。
言葉で説明しようとして、ヴォルク一人にすら、剣の喩えを借りるまで伝わらなかったばかりだ。場数を踏んだ男でさえこの有様なら、代官に搾られ続けてきた村人たちに、どうやってこの仕組みを信じさせればいい。
答えは、まだどこにもなかった。




