第60話「一枚」
【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、朔日の朝】
手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六
共有財布 …… 銀にして千二百八十三枚分(銭の数 千三百十枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)
申告件数 …… 三百二十件(うち労賃百二十八件)
人口 …… およそ二百四十六人(兵は数えない)
売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)
未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)
公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/初月分 納付済み)
公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)
公示 …… 回廊(ドラグ峠道)(申告者 テラ村/申告値 銀貨一枚・通行料なし)
公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)
公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)
公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 徴発 十一件(返却 一件/支払い 十件・銀にして二百七枚分/月の十八日 テラ申告台)
公示 …… 遊休地一角(申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀貨六枚)
公示 …… 辺境伯の布告 写し 一通(夫役/来月朔日より/月の二十日 取り下げ)
公示 …… 王国の規定 写し 一通(夫役の条/写し セリーヌ・ヴァルデ)
公示 …… 雇い入れの約束 四十一通(雇主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/一通 銀貨三枚/月の二十六日 公示/一通 買い戻し・買主 本人/四十通 同日 取り下げ)
公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)
公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)
公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)
公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)
公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)
公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)
公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)
公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)
公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)
公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)
公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)
保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)
預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)
特記───「朔日」
十二日ぶんの朝露を吸った縄は、石のように固く締まっていた。
鍛冶屋の妻は爪を立てて結び目を一つずつ解き、柳の揺り籠を荷台から下ろした。逆さに括られていた籠が、十二日ぶりに口を上へ向ける。縁に溜まった水が、彼女の腕の内側を伝って袖口に消えた。
朔日だ。二十七日から晦日までは、板の上では何も起きなかった。雇い入れの紙は杭から外され、天幕の兵は天幕の中で飯を炊いた。鉛の札を懐に残したまま迷っていた六人のうち、北へ向かう道に足を載せた者は一人もいない。ミラは二十七日に、東の隊商のひとつへ使いを走らせていた。回廊は、通行料なし。それだけを書いた紙だった。
俺は夜明け前に峠の口へ上がり、いま下りてきたところだった。
峠の口は、道が左右の岩に挟まれて、荷車一台ぶんまで狭まる場所だ。岩棚の上にはガンツの組んだ見張り台が載り、道の脇には腰の高さの石積みが続いている。霜が石の上でまだ白く、吐いた息が見張り台の柱の前でほどけた。
台の下には、灰緑の外套が五人、槍の石突きを土に立てて並んでいた。一人は立ったまま、顎が胸に落ちかけていた。俺に気づいて背筋を伸ばし、伸ばしたところで石突きが土を擦って、体が傾いだ。北へ向かう男たちがいるなら、通るのはここしかない。待ったが、列は伸びなかった。石積みの隙間から這い上がる風が、坂でかいた汗を冷やしていく。
沢筋のほうから、ヴォルクが上がってきた。外套の泥は落ちている。腰に細い縄が一巻き下がっていた。獣道の分かれ目ごとに結んでおいた目印の縄だ。解いて回ったのだろう、巻きは出ていったときより太い。
「使わずに済んだか」
「ああ」
ヴォルクは縄の巻きを、腰で一度揺すった。兵の列を見て、峠の空を見て、それから俺を見た。
「……なら、いい」
坂を下りる背で、縄が揺れた。湿った麻の匂いが、少し遅れて残った。八十七人のうち、峠を下りた者はいない。止めたのは、俺の手ではなかった。
鍛冶屋の家の前まで下りると、荷車は空になっていた。荷台に残っているのは、朝露の溜まった板だけだ。水は木目に沿って、梶棒の根元へ一筋流れていく。畳んで押し込んであった鞴の革には、折り目のかたちに癖がついていた。鍛冶屋が拳で何度か揉むと、ようやく革らしく撓んだ。
炉に火が入る。鞴が一度、二度と息をして、炭の底から橙が上がった。金床の上の槌の柄には、包んでいた布の織り目の跡が、まだ残っている。鍛冶屋は槌を取り、焼けた鉄に一度だけ落とした。火花が散って、霜の残る地面で消えた。
峠道の脇を、ダンが麦袋を担いで下りてきた。縄が襟を押し下げ、肩の荷縄の跡が赤い。空の荷車を見ると、歩みを緩めずに顎を上げた。
「解いたか」
「解いたよ」戸口の内から、鍛冶屋の妻が答えた。鍛冶屋は炉から目を離さなかった。
麦袋の底が梶棒を掠めて、鈍く鳴った。縄の食い込む位置は、判を押した日と同じ肩だった。荷縄の軋みが、広場のほうへ遠ざかっていく。ダンは、天幕のある荒れ地へは、一度も顔を向けなかった。
戸口から、妻がもう一度顔を出した。
「荷、解くまで十二日かかった」
「ああ」
「次に預けろって言うときは、先に理由を言いな」
戸が閉まった。閉まる前に、揺り籠の縁が一瞬、敷居の向こうで朝日を受けた。炉の火を落とさないまま、鍛冶屋が鞴を踏む音だけが、戸の内側で続いた。
ダンの家の戸口では、母親が洗い物を竿に掛けていた。竿は朝日のなかで、濡れた布の重みに合わせてわずかに撓んでいる。日に焼けた手の甲が、濡れた布の端をつまんで、皺を一つずつ伸ばしている。
広場への道に、灰緑の外套が二つ見えた。天幕から歩いてきたのだろう、靴の甲まで霜の水で濡れている。木箱を小脇に抱えた兵と、その半歩前を歩くレーヴェン。道の端へ寄って通すと、二人は歩調を変えずに過ぎた。外套の裾から落ちる霜の水が、土に点を打っていく。点は、申告台のほうへ続いていた。
特記───「当て」
木箱の蝶番が、きいと鳴った。
朔日の朝の申告台は、いつもの朔日より人が多かった。市の支度の手を休めた者が、卓から五歩ほどの輪をつくっている。老爺は煙管を持った手を背に回し、ゲオルクは前掛けの裾を握っては放していた。
卓の端には、数える物のなくなった砂時計が立っていた。五日前に返されたまま、誰も触れていない。上の硝子は空で、砂は銀灰の山の形に固まり、細い口の縁に一粒だけ引っかかっている。
兵が蓋を押さえる。レーヴェンは中を見ずに、卓の端へ一歩退いた。布の包みが三つ並んでいる。兵が結びを解くと、銀貨は縁を揃え、刻印がどれも同じ向きに積まれていた。
昨夜、ソルは控えの余白に、朔日にレーヴェンが打ってくる手を二つ書き、一つを線で消した。残ったのは「位の二月分」だった。三つ目の欄は、空欄のまま朝になった。
ソルが控えを開き、位の行の上へ木の棒を置く。申告値は銀にして一万枚分。月の流通税は、百。
「位の、二月分である」
フィーネは秤の前に座っていた。鉄の分銅を一つ取り、皿の縁へ叩きつけるように下ろす。鉄が真鍮を打つ音は、卓の脚まで届いた。竿が跳ね、揺れ、収まるのを待たずに二つ目が降りる。左の皿に包みが開かれ、銀が積まれていった。積み終えたとき、二つの皿は同じ高さに揃った。
板の脇では、セリーヌが新しい羊皮紙を広げ、四隅を重しで押さえていた。墨壺の蓋はもう開いている。
空になった包みの布を、兵が一枚ずつ畳んで、箱へ戻した。畳むたびに、角が揃う。最後に、左の頬に火傷の痕のある兵が、銅貨を六枚、卓に並べた。数えるあいだ、唇が動いていた。遊休地一角の、月の分だ。百枚の銀のあとでは哀れなほど小さな山で、フィーネはそれも秤に載せた。量って、六枚だった。ソルの棒が、端数の欄に六を書いた。
「あんたの千枚」フィーネは、分銅を箱へ戻していた。顔は上げない。「返す当てがあるって言ってたの、これ?」
「毎月、向こうが持ってくる」
ソルの棒が、控えの余白に百を一つ書いた。「十か月」二つ目の百へ移りかけて、戻る。「……向こうが椅子に座り続ければ」
聞こえない距離ではなかった。レーヴェンは木箱の蝶番を閉じ、開き、また閉じた。三度とも、同じ間隔で鳴った。
人垣の最前列では、子供が指を折っていた。十本で、ちょうど足りた。
「二十二日」フィーネが言った。最後の分銅が、箱の布の上に収まる。「あんたが何を握ってるか知らないで、言ったの」
「ああ」
「知ってても、同じことは言ったでしょうけど。言い方は変えたわよ」
「変えなくていい」
フィーネは二股の筆を取り、位の行の括弧の中へ、『二月分 納付済み』と書き足した。穂先は二本のまま、二本の線を引く。線は字の途中で重なり、一つの字になった。滲んだところまで含めて、読めた。
「控えを見る」レーヴェンが言った。
ソルは答えず、控えを卓の向こうへ滑らせた。
レーヴェンは立ったまま、頁を繰った。紙の擦れる音は、ソルの棒が行を下りる音より遅い。位、人別、徴発、遊休地一角。頁の端が一枚ずつ起き上がり、倒れる。ソルの棒が三行下りるあいだに、一頁が繰られた。読む速さではなかった。探す速さだった。七枚目で、音が止んだ。
特記───「一枚」(朔日の昼)
レーヴェンは卓の端から砂時計を取り、開いた頁の上へ下ろした。台座の真鍮が、一行を押さえる。
口は開かなかった。
行の字は、俺の字だった。墨は褪せて茶色に近く、払いの端が丸い。台座の縁が、「回廊」の二字の頭を半分隠している。行の右の余白には、同じ朝の試し書きが残っていた。千。百。十。三つとも線で消され、一だけが丸で囲まれている。誰も買わないと踏んだ値だった。踏んだ相手の頭に、この男は入っていなかった。
ソルが棒を持ち上げ、砂時計の脇の行を読んだ。
「回廊。ドラグ峠道。申告者、テラ村。申告値、銀貨一枚。通行料、なし」
「買う」
輪になった人垣が、一足ぶん後ろへ下がった。誰かの踵が、小石を蹴った。遠くで鍛冶屋の槌が鳴り、三度鳴って、四度目は来なかった。
レーヴェンは外套の隠しから革の小袋を出し、口紐を解いて、銀貨を一枚つまんだ。紐は、元どおり二重に巻いて閉じられた。銀貨が卓の上へ置かれる。
縁で立ちかけた銀貨は、天板の割れ目の溝へ落ちた。木目に沿って半尺ほど、細い音を引いて転がり、ソルの木の棒に当たって止まる。
隣の店の天秤では、分銅を載せかけた手が、宙に浮いていた。
「申告値で出した物は、申告値で渡す」ソルの棒は、銀貨の上から動かない。「……そういう台だ」
「持ち主が変われば、通す通さぬも、持ち主が決める。……台は、それも映す」
フィーネの筆が、紙から離れた。二股の穂先が、墨を含んだまま紙の上に浮いている。
広場の端で、縄の束を肩に掛けたガンツが立ち尽くしていた。峠の見張り台へ上がる朝なのだろう。腰に木槌が下がっている。石粉の手が、縄を握り込んだ。
「見張り台は」声は荒れていなかった。「石積みも、冬の雪かきも、屋根の葺き替えもだ。石は、積んだあとが長えぞ。全部、あんたの勘定になる」
レーヴェンの目が、ガンツの石粉の手に一度だけ落ちた。落ちて、行へ戻った。砂時計は、行から外れなかった。
「買えば、維持はこちらの勘定」
視線が峠の方角の空へ上がり、戻ってきた。
「……であったな」
間があった。広場のどこかで、桶の水が跳ねた。
「兵は、六十おる」
ガンツの口が開きかけて、閉じた。腰の木槌の柄が、一度だけ揺れた。石粉が、指の関節の皺に白く溜まっている。
レーヴェンは台座を外して、筆を取った。名義の欄には、ソルが言う前に、当主の本名が入った。続けて申告値の欄に書く。角の立った字が、三枚と書いたときと同じ速さで欄を埋め、続けて月の流通税の欄を埋めた。書き終えると筆を置き、控えの向きを変えて、フィーネのほうへ押した。筆を置いた指の腹が、墨で黒く染まっていた。
フィーネは頁を引き寄せた。唇が動き、声が遅れて出る。
「銀にして……五千枚分」
フィーネの筆が、控えの端に点を一つ打った。二つ目は、打たれなかった。
ソルは銀貨を拾い、帳面の脇の木箱へ落とした。受けた物は箱へ入れる。決まりだった。銀貨は底で、ほかの銀と同じ音を立てた。どれがその一枚か、もう聞き分けられなかった。
兵が木箱から銀の包みを一つ取り、卓へ置いた。フィーネの手が、分銅を一つだけ皿に載せる。さっきは二つ載せた皿だった。降ろす音は、さっきほど強くなかった。
銀貨一枚の道は、維持の重さを背負う気のない者には買えない値だった。ガロンは「買わずに、使わせない」と言った。この男は、買って、使わせない。
「買い戻すなら五千でしょ」フィーネは帳面の端を指で押さえた。「財布は千四百三十四。そのうち千は、あんたの預り」
抑揚のない声だった。同じ頁の上のほうに、五千の字がある。
「……わかった」
思ったより普通の声が出た。台座の載っていた行には、丸い圧痕が残っている。掌の下で、円が「回廊」の二字を横切っていた。
レーヴェンは砂時計を取り上げ、外套の懐へ収めた。兵が空になった木箱の蓋を閉め、脇に抱え直す。来たときより、抱える腕の位置が高かった。後ろの兵に、顎で合図が出る。兵の一人が駆け出し、荒れ地の天幕のほうへ見えなくなった。
昼を過ぎて、天幕の前の灰緑が動き出した。列は広場を避け、峠への道を上っていく。槍の穂先が、等間隔で同じ角度に揺れていた。ゲオルクの店先で、パンを切る包丁が一度鳴って、それきりやんだ。道沿いの戸口に、人が出ている。鍛冶屋の妻は、揺り籠を抱えたまま、列が峠の口へ消えるまで見送った。マレアは、あの峠の向こうだ。ガンツは縄の束を肩に掛けたまま、立って、列が通り過ぎるのを見ていた。
特記───「通さぬ」(朔日の夕)
兵が昼に上がったきり、一人も下りてこなかった。それで日が傾いてから、俺も峠の口へ上がった。
峠の口には、天幕が二張り増えていた。昼に運んだ杭と綱で、焚き火が三つ焚かれている。六十と言った数は、槍の列の長さで見当がついた。石積みの上に等間隔で立て掛けられた槍は、端が見えないほど続いている。夕日が穂先を一本ずつ順に染めて、端まで届いたところで、石の影が追いついた。
ガンツは見張り台の根元に立っていた。柱に掌を当てている。五日かけて自分で削った柱だ。鉋の目に沿って、石粉の指が上から下へ滑った。
夕の綱が、台の上で鳴った。滑車が二度軋み、灰緑の布が柱を上っていく。中ほどに、白く染め抜かれた砕けた車輪。風を孕んで一度大きく広がり、柱に絡まりかけて、また広がった。
「柱は、悪くねえんだ」
返事はなかった。旗が頭の上で、ばさりと鳴った。
ミラが荷紐を指に巻きながら、東の坂を見ていた。鈴の音が、坂の上から降りてきたところだった。
「あの鈴」ミラの顔が上がる。「あたしの知り合いだぞ」
坂の途中に、荷車が一台現れた。幌の縁に鈴を下げた二頭立てだ。馬の胸には汗が白く泡になって乾いていて、幌の隙間から蜜蝋の甘い匂いが降りてくる。御者台の男は、峠の口に並ぶ灰緑を見つけて、手綱を緩めた。馬が足を緩めかけ、また歩かされる。
兵が道の真ん中へ出た。槍を横にして、柄を両手で持つ。穂先は誰にも向いていない。道を塞ぐ高さに、水平に掲げられているだけだ。
「何だ、これは」御者台の男が、日に焼けた首を伸ばした。「ミラ、いるのか。通行料なしの道だって聞いて、昨日から飛ばしてきたんだぞ」
見張り台の影から、レーヴェンが出てきた。槍の後ろ、道のまんなかに立つ。
「通さぬ」
男は聞こえなかったように、手綱を持ち直した。
「払う。通行料なら払う」鞭を持った手が膝の上で開き、懐を探った。「銀貨一枚でも、二枚でもいい」
「通さぬ」
槍は一本も動かなかった。馬が鼻を鳴らし、荷車が半歩、後ろへ下がる。幌の中で、蜜蝋の塊が重なって鈍く鳴った。
ミラが前へ出た。踵が地面を一度蹴り、それで終わった。
「親父さん、戻りな」
「ミラ、だがこれは」
「あたしの手紙で来たんだろ。悪かったよ。戻りな。槍の前で理屈を言うもんじゃない。話は、あとで聞いてやる」
男は唇を結び、手綱を引いた。馬が首を振り、荷車の向きがゆっくりと変わっていく。車輪が、来た坂を一回転ずつ上っていった。
坂の土に、車輪の跡が二本残った。下りる向きと、戻る向きの跡だった。二本は、途中で重なっている。
焚き火の一つで、鍋が煮え始めていた。麦粥の匂いが、旗の下を流れてくる。兵は、しばらく槍を下ろさなかった。鈴の音が稜線に切られて絶えたところで、五本の石突きが、一斉に土へ戻った。号令はなかった。レーヴェンは旗を一度だけ見上げ、見張り台の影へ戻っていった。
ガンツが、柱の根元にしゃがんだ。足元に、鉋屑が一つ落ちている。五日前の削りかすが、霜と土を吸って茶色に固まっていた。拾い上げて指で潰すと、粉になって、石粉の白に混じった。
「追うよ」ミラが言った。荷紐を巻く指が、一巻きごとに強く締まっている。「親父さんに、話をつけてくる」
ミラは坂の上へは向かわず、沢筋へ降りていった。ヴォルクが縄を解いたばかりの獣道だ。結び目のあった木の幹に、麻の擦れた跡が白く残っている。
俺は見張り台の梯子に手をかけた。段が冷たく、掌の汗に吸いついた。
「三段目が緩い」ガンツが、しゃがんだまま言った。「踏むなら、端を踏め」
言われたとおり、三段目の端を踏んだ。板の上へ出ると、峠の道が一本の線になって見えた。西には、屋根の並ぶ宿場。東には、岩肌へ擦りつけたような白い帯が、稜線の向こうへ消えている。荷車の轍と蹄で磨かれた帯だ。夕日がそこだけを金色に塗っていた。昨日までなら、あの帯の上を、日に三台は荷が動いていた。いまは、動く物が一つもない。
頭の上では、旗が柱に当たって鳴っていた。砕けた車輪が風に開き、また畳まれる。足元の板は、ガンツが組んだとおりに、一寸の狂いもなく水平だった。
下りたときには、日が落ちていた。
申告台の卓では、フィーネが帳面を閉じずに待っていた。二股の筆の脇には、空の椀が二つ並んでいる。俺は宿の厨房で白湯を汲み直して戻り、一つを筆の脇に置いた。フィーネの手は止まらなかった。椀だけが、湯気を立てて、少しずつ減っていく。
申告台の卓に灯りが置かれ、セリーヌが板の前に立っている。墨壺の蓋は、開いたままだ。紙の端を揃えようとして、揃える紙がもうないことに気づいたらしく、手が宙に残っていた。
板の上の回廊の行が、書き換わっていた。『申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀にして五千枚分』。灯りを寄せると、五の払いの墨がまだ濡れて光った。その下に、売買の行が一つ足されている。買主、オットマー・グラウ。代理、レーヴェン。『銀貨一枚』。
ソルが棒の先で、板の行を端から叩いていた。回廊の行で、棒が下りるのをやめる。左半分には、四十本の線に潰された一覧が、まだ貼られていた。その隣に五千が並んでいる。
五千の二字は、墨が溜まって黒かった。一の字は、一筆で終わっていた。
【グランゼ辺境 宿場テラ 申告台、朔日の夕】
手持ち …… 銀貨二百四十七枚、銅貨十六
共有財布 …… 銀にして千四百三十四枚分(銭の数 千四百六十一枚/うち千枚分はレイ・ヴァルデの預り)
申告件数 …… 三百二十件(うち労賃百二十八件)
人口 …… およそ二百四十六人(兵は数えない)
売掛 …… 一件(ヴァルデ男爵家/銀貨二十二枚)
未払い …… 二件(アルド・ヴァルデ/銀貨十三枚と銅貨二、グレン・ヴァルデ/銀貨二十四枚)
公示 …… グランゼ辺境伯の位(名義 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン)/申告値 銀にして一万枚分・月の流通税 銀にして百枚分(当村へ納付/二月分 納付済み)
公示 …… 位の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀にして千枚分/月の九日 テラ申告台)
公示 …… 回廊(ドラグ峠道)(申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀にして五千枚分・月の流通税 銀にして五十枚分(当村へ納付/初月分 納付済み))
公示 …… 回廊の売買 一件(買主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/銀貨一枚/朔日 テラ申告台)
公示 …… 人別改め 一件(辺境伯 代理 レーヴェン/札 二百四十四枚/受けぬ者 五人/月の十日)
公示 …… 徴発の償い(布告済み/台帳に載る物は申告値どおり共有財布から償う)
公示 …… 徴発の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 徴発 十一件(返却 一件/支払い 十件・銀にして二百七枚分/月の十八日 テラ申告台)
公示 …… 遊休地一角(申告者 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/申告値 銀貨六枚)
公示 …… 辺境伯の布告 写し 一通(夫役/来月朔日より/月の二十日 取り下げ)
公示 …… 王国の規定 写し 一通(夫役の条/写し セリーヌ・ヴァルデ)
公示 …… 雇い入れの約束 四十一通(雇主 オットマー・グラウ/代理 レーヴェン/一通 銀貨三枚/月の二十六日 公示/一通 買い戻し・買主 本人/四十通 同日 取り下げ)
公示 …… 域内証文の公示義務(布告済み)
公示 …… 証文一件(ヴァルデ男爵家宛て/申告値 銀貨百八十枚/取り立てず・利も取らない)
公示 …… 証文一件(申告者 ヨエル/貸主 不明/証文上の名 グラウの十七)
公示 …… 取り消しの届 一件(ラウル・ヴェッセ/写しの名義の否認)
公示 …… 公示台帳の写し 十通(裏書=写した者の名・日・場所)
公示 …… 証文 三十一件(申告値 零/買主 本人/買い戻し済み)
公示 …… 買値 一件(グランゼ辺境伯の位/成立/朔日 テラ申告台)
公示 …… 監査方の報告 写し 一通(イルマ・ドレーゼ/先月の十日 テラ申告台/裏書つき)
公示 …… 西部詰所の布告 写し 一通(朔日施行/三条)
公示 …… 台帳建ての勘定(布告済み/一枚分=規定の重さの銀。ヴァルデ鋳は八割で受ける)
公示 …… 分銅の照合 一件(隣領徴税官 ハウゼン/王国規定により/裏書つき)
公示 …… 弁済 一件(借主 セリーヌ・ヴァルデ/貸主 中央商業ギルド連合/銀にして千枚分/朔日 西部詰所/貸主承諾つき)
保有証文 …… 一件(ヴァルデ男爵家宛て/額面 銀貨百八十枚/利は取らない)
預り …… 七十五件(銀にして千百二十三枚分/うち一件 レイ・ヴァルデ 銀にして千枚分/うち一件 亭主の遺した銭・返すために貯めた分)
特記───「買って、使わせぬ」




