034
「主様は──皆を恨む人間と、皆から恨まれる人間……、どちらになりたいかと問われたら、どう答えますか?」
クロユリという一人の少女を説明しようと思ったら──無論、本人ではない自分が、自分でしかない自分が、あるいは、自分ですらない自分が、よもや他の誰かの事を説明できるだなどという思い上がりや妄想に染まってしまったわけでもないことは明言するまでもないが──その際、必要となる語句はたった一つ。
黒。
黒である。
それは髪が黒いからか──否、だとすればコハクも同じはずだ。しかし両者に対する印象は大きく違う。天と地ほど違う。尤も、どちらが天でどちらが地だというつもりもないが。ならば火と水とでもいうべきか。その場合は、コハクが火だ。
あるいは、普段着が黒一色だからだろうか──否、そういうわけでもない。例え彼女が白無垢に身を包んでいたとて、自分は同じように、当たり前のように、ただ呼吸をするように、彼女を黒だと表現するだろう。
しかしここで明らかにしておかなければならないことがあるとすれば、彼女はただ黒いのではなく、黒そのものなのだ、ということだ。それが純粋な黒なのか、あらゆる色をグチャグチャに混ぜた末の黒なのかは不明だが。
その色は思考や言動に滲み出ている──のかもしれないし、そうではないのかもしれない。
「どちらにせよ敵だらけ……ただし、意味合いは少し違う……と。どっちにしても大変そうだけど」
それはそれとして。
前にも似たような話をしたなと思いつつ、考える。
皆を恨み続けるのにはそれこそ莫大なエネルギーが必要なのだろうから、それはそれで大変なのだろう──ただうっすら嫌っているのとはわけが違うのだから。
そして、皆から恨まれている状態というのは、こちらは言うまでもなく大変だろう──その『皆』の範囲にもよるのだろうが、例えば自分の生活圏に存在する人間全員を指すのだとして、それでも十分大変だ。何をしたらそうなるというのか。
「高潔を気取る人間は、恐らく後者だと言うのでしょう。誰かを恨むくらいなら自分が恨まれてやる、などと、身の毛もよだつほどにかっこいいことを言うのかもしれません」
クロユリは小馬鹿にするような口調で、二択の内の片方を潰した。
「だとしたら僕は前者なのかな」
「理由を伺っても?」
理由も何も、前もって片方潰されてしまえば、嫌でもそう答えるしかないと思うのだが。
「まぁ、全方位の恨みを買ってまともな生活が出来るとも思えないし、それに、自分で恨んでいる分には、自分の好きなタイミングでやめられるから」
「やめられる……」
「恨まれてる状態をどうにかすることが出来るとは思えないしね」
「……ですが、もし誰かを恨むことが、周囲の全てを恨むことだけが、自分の生きる唯一の理由になってしまっていたとしたら、どうでしょうか」
「生きる理由……ね」
それが何の話かまでを問うたりはしないが、しかしそんな条件が付け加えられると、少し話が変わってくるのかもしれない。
生きる理由が誰かを恨むことなのだとすれば、それはもうやめることが出来ない。止まることが出来ない。
「確かに、誰かを恨んでいないと生きていられないというのだとすれば、それほど辛いこともないのかもしれない」
「では、後者ですか?」
クロユリからの言葉に、肯定も否定もせず、唸った。
「でも、皆から恨まれてる状態は、場合によってはそれが死ぬ理由になってしまいかねない。だとすれば、どちらにしても辛いのは同じか……」
悩む。
どちらも似たような物ではあるが、選べと言われるとどちらとも言えない。まぁ、どうあってもなりたくないようなものを選べと言われているのだから、当然と言えば当然なのだが。
「でもまぁ、前者かな。周囲から死ぬほど恨まれるのと、周囲を恨むほどに生きられるのとでは、そっちの方がまだマシだから」
「そうですか……」
「それに、生きてればそのうち、恨む以外の生き方だって見つけられるかもしれないのだし」
見つけたところで、その生き方が出来るかどうかはまた別の話だが。
「もし、見つけられなかったら?」
と、クロユリは言う。
「見つけられなかったらって、それは死ぬ直前になって初めて出る言葉でしょ?」一息置いて、続けた。「だとすれば、生きることには成功してる」
「それは……そうですが……」
「納得はいかない?」
「はい……。それではただ何の意味もなく生きて、そして死んだだけなのではないかと」
「そうだよ」そう言ってから、「……あぁ、いや、そうかもね」と言い直した。
「…………」
「ただ生きて、死ぬだけ。でも、それって普通じゃないかな」
「皆、そうだと?」クロユリがこちらを見たので、頷いて返した。「……それは確かにそうかもしれませんが、それでは世に蔓延る無価値な有象無象と同じです」
「無価値な……」
ぐさりと、巨大な槍でも突き刺されたかのような感覚を覚えた。
「そういう生き方もあると割り切ることは簡単です。ですがそれでは、生きながらに死んでいるも同然なのではないでしょうか」
ぐりぐりと、突き刺された槍が体内をグチャグチャにかき回すような感覚。
「クロユリは……さ、その、何かを成したいの?」
「……当面の目標はあります。ですが、それが私という一人の人間の人生を通して成し遂げたいことかと言われると、そういうわけでもありません」
「まぁ、そうだろうね」
当面の目標は当面の目標でしかなく、ゴールではないのだ。区切りのような物で、物語で言うなら章の終わり。章の最後にはボスがいたりなんかして、それを倒すことでその章の課題が解決される。
そしてそれを繰り返していき、最後に立ちはだかる、物語全体の課題としてのラスボスを打倒することで、物語は大団円を迎えるわけだ──が、当面の目標というのはこの、一つの章の終わりに立ちはだかるものでしかない。漫画の打ち切りではないのだから、その目標を果たしたところで何も終わることはない。
そこからも人生は続くのだ──目標の有無に関わらず。
しかしそう考えると、人生のゴールに据えるべき目標とは何なのだろう──やはり生きて、そして死ぬことなのだろうか。
だがそうすると、人間は死で以て生を打倒するために生きているということになるのか?
何と言うかおかしな話だが。
しかしそうなのかもしれない。
「でもまだ、その当面の目標っていうのが残ってるわけでしょ? だったら、まずはそれを済ませるべきじゃない?」
「……! やはり……そうなのでしょうか……」
「うん。同時並行であれこれすると、どうしても不完全燃焼に終わりがちだから。今のクロユリに目標があるのなら、まずはそれに集中すべきだよ」
「主様は……始めから見抜いておられたのですね。私の内にある葛藤を……」
「え?」
「いえ」クロユリは小さく首を横に振る。「それでは次の質問です」姿勢を正し、咳払いをした。
「今のはもういいんだ」
そう訊くと、クロユリは小さく頷いた。
何の脈略もなく始まったこの会話だが、当然のことながら、そこに至るまでの経緯という物は存在する。
今日──先日アジサイと話をした日から数えると、四日後の事。
その日も午前中から屋敷を訪れていたのだが、屋敷に足を踏み入れてすぐ、優しいピアノの音色が耳に流れ込んできた。
それは特に曲を奏でるでもなく、ポロンポロンと鳴らされていただけだったので、本格的に弾く前の調整か何かをしていたのだとは思うのだが、少しばかり興味が湧いたので、取り敢えずサクラに今日も今日とて特段理由も意味もなくやって来たことを伝えると、今日はそちらに顔を出すことにしたのだった。
サクラへの挨拶を済ませた頃には、既に演奏は始まっていた。流れてきていたのは、どこか聞き覚えのある曲だった。
どこか、というか。
かつての日本で、地球で、聞いた覚えのある曲だった。
演奏しているのはもしかせずともクロユリなのだが、彼女、教えたわけでもない曲をいつの間にやら習得しているのだ。
勿論請われて教えたこともあったのだが、しかしそうでないものに関して、『自分が前世で聴いた曲と全く同じものを彼女が偶然作曲した』という可能性はあまりにも低いので、考えからは除外せざるを得なかった。
ならばどうしてか──ただここで、「クロユリは自分と同じ転生者なのか」などと荒唐無稽なことを考え取り乱すことはない。
事情はもっと簡単で単純な事であった。
訊いて曰く、「主様が鼻歌を歌っているのを耳にしまして。稚拙ながらそれらを楽譜に起こしてみた次第です」とのこと。
だがそれを聞かされて、「なるほど。なら納得。流石はクロユリだね」とはならなかった。
百歩譲って、それを聞いて楽譜に起こしたというところまではいいだろう。鼻歌検索なども前世ではあったのだし、人間にも同じことは出来るのかもしれない。だからそこはいいのだ。
だが、それ以降は違う。
鼻歌を聞いて、とは言うが、鼻歌など特定のフレーズのみをふんふん歌っているだけか、あるいは途中のサビから入ることもざらで、それを聴いただけで曲の全体図を把握することは不可能に近いはずなのだ。音程はガタガタだろうし、リズムだって不正確で、その上穴だらけと来れば、そんなものはページの消失した古文書を読み解くのと、難易度としては遜色ないだろう。
しかし実際、クロユリはそれをやり遂げた。なんなら、自分がいつ歌っていたのかも覚えていないような曲を大量に楽譜に起こしている。これが現実だというのなら、それは彼女の才能なのだろう。
アジサイが文学、サンゴがボードゲームなら、クロユリには音楽の才能があったということだ。
ただ、才能があるとは言っても、クロユリの場合、少々条件があるらしく、「管楽器は苦手なんです」と言っていたので、それ以外の打楽器や弦楽器などに限定されるということらしかった。なんでも、管楽器を吹くと、亡者の絶叫のような悍ましい音が辺り一帯に響き渡るのだとか。
興味本位でそういった楽器を買ってプレゼントしてみようかとも考えたのだが、小動物程度であれば容易に殺せるような音だと言われては、流石に引き下がるしかなかった。スズランあたりが死んでしまう。
まぁ、ピアニカの場合はどうなるのだろうか──などと、そんな興味は湧いてしまったが。
部屋を訪れると、クロユリはそれに気が付かぬまま、演奏を続けていた。
弾いていたのはトルコ行進曲だった──自分もかつてはピアノ教室に通っていたことがあるので、教えようと思えば教えられた曲なのだが、彼女は自分の鼻歌からパーツを得ると、その他の部分を想像や知識、あるいは感覚で補完し、完成させていたのだった。
演奏が終わると、クロユリに向けて拍手をした。
クロユリは気が付くと、首をこちらに向け、「あぁ、主様でしたか」と、椅子を下りた。
「いかがでしたか?」
「よかったよ」ふと、ピアノの方を見た。「……楽譜とか見ずに弾いてたの?」
「はい。覚えていますので」
訊くと、クロユリは平然と言った。
「そうなんだ……流石だね」
自分でも、引き攣った笑みを浮かべていたと思う。
「いえいえ」クロユリは首を横に振る。「楽譜を暗記したところで、聴衆を感動させられるような演奏が出来なければ、何の意味もありませんから」
「ストイックなんだね」
「そうでしょうか? 主様に教えていただいた曲ですから、これくらいは当然です」
教えた覚えのある曲の方が圧倒的に少ないのだが……。クロユリがいつの間にか吸収していたの間違いではなかろうか。
「それに、楽譜の通りに弾けばいいだけなのであれば、誰が弾いても同じですし」
「それはまぁ……そうなのかな」
云々と。
そこからしばらくクロユリと話をして、演奏を聞いたりして、それからまた会話をして、自分も演奏してみたりして、クロユリの知らない曲を教えたりして。そうして疲れてくると、また会話に戻り、そんな中、クロユリが「いくつか訊いてみたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」と言って来たので、それに応じ、しばらく話をしていたというのが、冒頭までの経緯である。
どうやら彼女は思考実験のようなことがしたかったらしい。
そして、先程の質問が終わった今に戻る。
「次は何?」
「……誰かの為に自分が傷つくか、自分の為に誰かが傷つくか──この二つであればどちらを選びますか?」
クロユリは首を小さく傾けた。
それはつまり。
「誰かの為に犠牲になれるか、誰かを犠牲にするか、か……」
ということになるのだろう。
自分が裕福な暮らしをしているからと、その暮らしを、そうでない貧しい暮らしを営む人間の犠牲の上に成り立っているなどと考えることはしないが、しかしそうでなかったとしても、前者を選べるような人間性をしているとは思えない。
だからと言って、積極的に後者を選ぶのかと言われると、それもまた違うような気がする。
「そうですね……。誰かを犠牲に──踏み台にしてしまえる人間というのは、それは果たして、自分を平気で犠牲にしてしまえる人間と、どちらが恐ろしいのでしょうね」
クロユリは言う。
不敵な笑みを浮かべて言う。
「どっちも恐ろしいとは思うよ。平然とそれをしてしまえるのなら」
平気で自分を犠牲にできる人間は、それは自分と同じ人間なのかと疑ってしまうくらいに恐ろしい。もしかしたら向こうはそう出来ない周囲の事を自分と同じ人間なのか分からなくなっているという可能性もあるが、それくらい人間味に欠ける──狂人だ。
同様に、自分の為ならば何の躊躇もなく他人を犠牲にする判断を取れる人間というのも、やはり恐ろしいのだろう。
だがこれは、条件次第な質問だと言えると思う。
しかし。
「条件はありませんよ?」
と、そう言われてしまった。
「条件なくか……。でもこれは、相手によるとしか言いようがないかな。皆そうなんだろうけどさ」
「相手次第……ですか」
「うん。家族だとか、それこそここにいる皆だとか、そういった相手であれば、自分を犠牲にしてでもって思えるかもしれない。けど、全く知らない相手だとか、いっそ嫌いな相手であれば、自分のために犠牲になれって考えてしまうかもしれない」
クロユリもそうじゃない?
そう尋ねると、「否定は出来ません」と返された。そしてクロユリは続けた。
「ですが、まず自分を第一に考えられない人間は、いざという時、本当の意味で誰かを優先出来るのか、とは思います」
「自分を第一に……」
「誰かを助けよう、庇おう、力になろうと考えるのも、結局は自分のエゴですから。だとしたら結局のところ、自分の事を考えられない人間は、他人のことも考えられないのではないか、と」
「自己中心的だからこそ……と。ということはこの質問、どっちを選んでも同じ?」
「同じではありません。自分の事を考えた上で自分の為に動くのか、自分の事を考えた上で他の誰かの為に動くのか──そういう違いです」
ふむ、と。
頷いて返した。
「そう考えるとまた難しいけど、やっぱり答えは同じかな」
「相手によると?」
「そう。人間、都合がいいから、どんな状況でも筋を通しきることは出来ないよ。その時その時、自分にとって都合がいい選択肢だけを取り続けるんだと思う」
「…………」
「三つ子の魂百までとは──そうか、言わないか」首を横に振って、「ただまぁ、いつどの時点でも同じ思考回路で動いている人間はいないし、どの立場から見ても同じように動いている人間もいない」
当然、ある程度の軸はあるのだろうが、しかしそれを貫き通すというのはやはり難しいだろう。
人の行動を決定付けるのは意志であり、人の意志を決定付けるのは──状況や背景なのだ。
意志がブレずとも、状況や背景は簡単に変化してしまう。
ならやはり、行動も簡単に変化してしまうのだ。
「ですが人は、そんな風に意志や行動をその場その場で変えてしまう人間の事を、高く評価したりはしませんよね?」
「それは……まるっきり真逆の事を言い出したりすれば、そうなるだろうね。少なくとも、信用には値しないって判断すると思う」
別にそれならそれで構わないのだ。
金こそがこの世の全てだと言っていたような人間が、突然、愛に勝るものはないなどと言い始めたのだとしても、それはそれで構わないのだ。何が原因かは知らないが、そうやって信念信条を変えることはあるだろう。
また、その二つを同時に掲げるようなことがあってもいいだろう。同じように大事だというのであれば、そうすればいいと思う。
だが、同じ口で別の事を言えば、やはり信用はされない。
意見を変えることがあるとしても、すぐにはそれが受け入れられないということも覚悟すべきだ。
「けど、少し横にそれるくらいのことは、存外すんなり受け入れられると思うよ。何事にも例外はあるからね」
「例外……ですか」
「少しの例外も認められないというのでは生きづらいことこの上ないし、それにそもそも、世の中が回らないから」
例外を認めてはいけないものというのも存在はするが、まぁ、人間一人の意見が少し変わるくらいは認めてやるべきだろう。
その程度では世界に、世間に、何の影響が出るわけでもないのだから。
誰がどこでどう生きようが、何をしようが、何を考えようが、そこにいようがいまいが、それでも何も変わらない。
しかしこれにも例外はあるのだろう。
一国の王などにでもなれば、あるいは、と言ったところか。
「一国の……。確かにそうですね」クロユリは咳払いをした。そして彼女は「では、次に」と続けた。
質問はまだまだありそうだった──それからもクロユリからの質問に答えていった。
時間は過ぎていき、そして。
では、最後に一つ──と。
クロユリは鍵盤を拭いていきながら、ポロンと鳴る、その音色にも劣らぬ綺麗な声で言った。
「口にしない想いは──あると言えるのでしょうか」
それは、これまでの質問と、少しばかり違っていた。これまでの質問はどれも二択だったのだが、ここに来て、最後まで来て、そうでなくなった。
「あると思うけど……」
「ではその場合、どこにあると言えるのでしょうか」
「心の中……とかじゃないの?」
「ですが、心の中と言っても、それでは酷く曖昧ではありませんか?」
確かに。
想いなど、個体でもなければ液体でもない。常に形を変え続け、そしてあるかどうかさえ判然としない、ふわふわとした──否、ふわふわとさえしていない何かでしかない。それはあると言えるのだろうか。物質的な物の考え方をしているからそう思えるのかもしれないが、そうでなかったとて、やはり曖昧なことに違いはない。
「でも存在しないとは言えない訳だから……」
あるはず──だけれども、無い。
どこにあるかは分からないけれど──あるはずで。
何だかまるで、失くしたリモコンのようだった。
「リモコン……?」
「あぁ、いや……」
つい、声が漏れていたらしい。
「失くし物だよ。部屋で何か失くしたりすると、あるはずなのに全然見つからない事……」言いながら、クロユリの部屋を見渡す。アジサイの部屋と違い、クロユリの部屋はかなり整然としている。「物失くしたりとか、しなさそうだね」
「え?」クロユリは同じように部屋を見る。「まぁ……一日の終わりに部屋や物の整理をしていますので、私物を失くすことも、どこに行ったか分からなくなることも──私にはあまり経験がありません」
ならこの話は出来ない。
「ま、まぁ……失くし物をしないのは良い事か」
「えっと……はい。お褒めに預かり光栄です」
「けどまぁ、感覚としてはそういうことだよ。どこかにはあるはずなのに見つからないっていう、その感覚。だから、人の想いっていうのはそこにあるんじゃない? どこかにあって、どこにあるか分からない──不確定で、確認不可能な存在」
「なるほど。場合によっては、人間という生き物が、想いそのものであると考えることも出来るのでしょうか」
「それも一つの考え方かもね。感情や想いが人の形をした存在──それが人間だとかなのかもしれない」
ならば──クロユリは。
どういう感情が形作ったものなのか。
そして、自分は。
どういう想いの産物なのだろうか。
「だからでしょうか──、────────」
そんなクロユリの呟きは、ピアノの音色に掻き消えた。
△▼△▼△▼△
「この曲は──月明かりの下で奏でることこそ相応しいと、そう思いませんか」
「…………」
「同意いただけないのであればそれで結構です──が、この曲は主様直々に教えていただいた一曲……」
「…………」
「ですので、これに関しては誰に何を言われようと止めるつもりはありませんし、止めさせたりもしません」
「…………」
「サクラ様?」
サクラは窓の外、そこに広がる夜空を見上げ、大きく嘆息した。そして何を言おうか迷い、再び息を吐く。腰に手を当てると、クロユリを睨みつけた。
「今日あなたが彼に演奏を聴かせていたのは知ってる。その時に褒められて、気分が高揚しているのも知っているわ」
それに対し、クロユリは小さく頷くと、うっとりとしたような顔をした。
「新しい曲を教えてもらって、それをひたすら──狂ったように練習していたのも知ってる」
サクラは「けれど」と言う。
「もうこんな時間なのよ。演奏は止めなさい」
「ですが……!」
「ですがじゃないわ。皆寝ているのよ──いえ、あなたの演奏の所為で寝られないのよ」サクラは心底疲れたような顔で、ため息交じりに言う。「同じ曲を何度も何度も……。それ何回目なのよ」
サクラが尋ねると、
「百を超えてからは数えていません。……ですが、この曲は素晴らしいですよ?」
と、クロユリは小首を傾げて答えた。
「はぁ……」悪びれもせずに言うクロユリに、サクラはまたしても溜息を吐く。そして、「あなたの演奏は上手よ。決して下手なんかではないわ。それは保証する」と前もって言ってから、「でもね、同じ曲をそれだけ聴かされると流石に堪えるのよ」と、クロユリの顔を見ながら言った。
「……? 同じ曲でなければいいと?」
「そうじゃないわよ……」サクラは頭を抱え、呟いた。「こんなに馬鹿な子だったかしら……」そして頭を横に振ると、「いえ、それほど嬉しかったのでしょうね、彼に褒められたことが」と、それに理解を示した。
サクラとて、同じ状況であればそうしていたかもしれない。と言うか昔、作った料理を褒められたことで舞い上がり、ひたすら同じものだけを作り続けていた時期があるので、それを深く責めたり追及したりは出来ないのだった。
だが、だからと言って深夜まで演奏が止まらないのは困るし、それを許すわけにはいかない。これまではクロユリ自身が常識的にピアノの使い方をしていたために、そのあたりのルールを細かく定めたりはしていなかった。だが、こうなってしまえばもはやそうも言ってはいられない。
「同じ曲も別の曲もダメ」
「ですが……この曲は素晴らしいですよ?」
「その無敵論法止めなさい」
サクラは嘆息し、そして。
「クロユリ。いい加減にしなさい」
声を張り上げ、威圧しながら言った。その言葉に、クロユリは思わず肩を震わせる。サクラはそれを見、追撃とばかりに続けた。
「もし止めないのなら、こちらにも考えがあるわ」
「な、何をするのでしょうか……?」
「ピアノの自由な使用を今後一切禁止する」
「な!? そ、そんな……! いくらサクラ様でもそれは!」
「あら、勝手だとでも言うのかしら? なら、彼に相談してあなたを叱ってもらうという手もあるけれど」
「なっ……」
クロユリは言い淀む。流石にリュカを引き合いに出されては、言い返しようがなかった。この屋敷でのルールなのだから、それも当然だった。
「まぁ、彼のことだから、なんだかんだ怒りきれないとは思うけれど……。でも、悲しむでしょうね」
「っ……」悲しそうに微笑むリュカの顔を想起し、クロユリはじんわりと広がる胸の痛みを自覚する。「それは……」
「あるいは、自分のせいだって思ってしまうかもしれない。自分がクロユリに曲を教えたせいで──って」
サクラはクロユリの様子を見て、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「そうやって彼を失望させるのが、あなたなりの恩返しなのかしら?」
「ち、違います……!」
「なら今日はもう止めなさい。そうすればそこまでのことはしないわ」
「ピアノの禁止も……ですか?」
クロユリは鍵盤を見て、それからサクラに視線を向けると、上目遣いで尋ねた。
「えぇ。似たようなことがあれば、その時には考えなければならなくなるけど」
そう言われて、「…………分かりました。すみません」と、クロユリは鍵盤の蓋を下ろし、席を立った。
「いいのよ。気持ちは分かるから。でも今後は気をつけて。いいわね?」
「はい」
ややばつが悪そうにするクロユリの頭を撫でると、サクラはそのまま踵を返し、「おやすみ」と言ってから部屋を後にした。
「やっと終わったか」
部屋から出てきたサクラに、コハクが声をかけた。普段攻撃的なその目は、眠そうにしょぼしょぼとしていた。
「えぇ。根はいい子だから、ちゃんと言えば分かってくれたわよ」
「でも止めなきゃ一晩中やってたよな?」
サクラは否定も肯定もせず、「あら」と言った。
「あなたも以前、狩りの腕を褒められたからと、一晩中獣を殺し回っていたでしょう? 同じよ、それと」
「ぬ……。でも俺のアレは誰にも迷惑かけてないし」
「はぁ……? 小屋の前に血塗れの死体積み上げておいて何言ってるのよ。あんなに不快な目覚めもなかったわ。それ片付けるまで外にも出られなかったし」
サクラは眉間に皺を寄せながら、コハクを凄んだ。空気がビリビリと震える。
「ご、ごめんって……。今はもうしてないだろ」
「そうね。今だにそんなことをしているようなら殺処分も視野に入れなければならなくなるもの」
「う……。まぁ、それはいいとして、助かった。全然寝れなくて困ってたから」
「やっぱり獣人は耳がいいの?」
「うーん。サクラ達がどれくらい聞こえてるかが分からないから何とも言えないけど……多分そうなんじゃないのか?」
「そう。何にしても、これで寝られるようになったのなら、それでいいわ。おやすみなさい」
サクラはそう言って、自分の寝室──ではなく、リュカの寝室に向かっていった。
「あぁ……。おやすみ」
それを微妙な顔をして見送ると、コハクは欠伸をしながら自室に戻っていったのだった。




