75 虎は立ちあがった
驚愕に硬直した男たちふたりをまえに、メルトは言葉を続けた。
「わたくしが馬車に駆けつけたとき、陽炎さんは心肺停止と同時に下腹部からかなりの量の出血もしておりました。アデリーンさんに蘇生をまかせて止血のため応急処置を施しましたが、そこで陽炎さんが妊娠なさっていたことがわかりました」
「赤ん坊は……」
カシューの問いかけに、メルトは首を横に振った。
「壊死を起こした胎児の遺体が、子宮の炎症を引き起こしたと思われます。炎症によって子宮内部で出血が起こり、溢れた血液が胎児と接触することで汚染され、さらにその後、炎症の進んだ子宮が破裂。その結果、汚染された血液が一気に全身を駆け巡り、重度の敗血症を陽炎さんにもたらした。これが心肺停止にいたった過程です」
メルトの説明を信じるならば、陽炎の体内に宿った新しい命こそが、陽炎の生命を奪おうとしたことになる。
残酷な現実に、カシューは言葉を失った。
「お腹のなかにいた赤ちゃんは、なぜ亡くなったんだい」
それまで、自分が確認した事実だけを客観的に伝える姿勢に徹してきたメルトが、コブの発した質問には、はっきりと表情を歪めた。
「コブさんがおっしゃった、陽炎さんの体質というやつの影響ですわ」
忌々しげな怒りを隠そうともしないメルトに一瞬あっけにとられたコブだったが、すぐに思いいたったのか眉をひそめた。
「長年つとめてきた毒味役によって、体内に蓄積されていた毒物の後遺症……」
コブのその言葉に、カシューの噛みしめた顎がぎしりと音をあげた。
「そもそも、陽炎さんが妊娠できたこと自体が奇跡的と言わざるを得ません。しかし同時に、無事に出産できたかと聞かれたら、継続的な手篤い看護が受けられないかぎり不可能だったと、わたくしは否定せざるを得ません」
メルトの診断によれば、子宮や骨盤の変化の程度から、陽炎が妊娠したのはおよそ半年ほどまえと推察されるという。
本来であればはっきりと腹が膨らむ時期であり、外見からも妊婦であることがわかるはずだった。
にもかかわらず、胎内の胎児は妊娠超初期、つまり妊娠一カ月程度の状態のまま成長が止まっていたという。
「おそらく、陽炎さんご自身もみずからの妊娠に気づくことなく過ごしていらっしゃったと思います。それほどに極端な発育不全の原因が、体内に残っていた毒素であることに疑念の余地はありません。いえ、むしろ……」
淀みなく説明していたメルトが、唇を噛んだまま逡巡するように俯き、視線をさまよわせた。
「むしろ、なんだ?」
カシューの声に首をあげたメルトの瞳は、隠しきれない憐憫と悲嘆に濡れていた。
「お腹のなかにいた赤ん坊が、陽炎さんのかわりに毒を吸収していた。そう考えなければ、いまもまだ陽炎さんが生きている理由がつきません。陽炎さんのなかに宿っていた命は、その身を挺して母親を守ったんです」
喉が破裂したような呻き声が響き、その場にいた三人は一斉に背後を振り向いた。
崩れ落ちたように膝をついた戎兵衛が、大地を掻きむしりながら憚ることのない嗚咽をあげていた。
「あっしは……、あっしはなんてことを」
「戎兵衛、ちがう! きみのせいじゃない、戎兵衛!」
駆け寄ったコブにすがりつき、戎兵衛が胸を引き裂くようにして叫んだ。
「あっしの子です。司令、あっしの子だったんです」
その場から動かず腰をおろしたままだったカシューは、沈鬱な顔をメルトに向けて口を開いた。
「今日の日中、玉座の爪とかいう連中から襲撃を受けた。戎兵衛と力を合わせて撃退したが、頭目だったひとりが瀕死の状態で生き残っていてな。情報を得る目的もあって、息を引き取るまでのあいだ、陽炎が苦痛を吸い取って延命させた」
蜥蜴たちの死体を始末している最中、土気色の表情をした陽炎が震えながら脂汗を流している姿をカシューは見ていた。
あのときの自分は、不安を感じこそすれど心配はしていなかったように思う。
いまにして思えば、まさしくあのとき、陽炎のなかで命が失われようとしていたのだろう。
握りしめた拳のなか、てのひらに爪が食いこむ鋭い痛みがあった。
陽炎の命を嘆願する資格が自分にあるとは、カシューには思えなかった。
「場所を変えましょう」
勢いよく立ちあがったメルトが、決然とした声をあげた。
「こんな道ばたで、まともな治療を試みるわけにはいきません。休憩は終わりです。皆さん、移動の準備をなさってください」
「いったい、どこへ向かおうというんだ」
茫然とした顔で見上げてくるカシューに、メルトは力強い視線を向けた。
「ダンジョンに戻ります。あそこならば水場もありますから。豊富な魔素が流れてくるダンジョン内に結界を張り、陽炎さんの生命力を少しでも底上げしたうえで、体内から毒素を抜いて全身を作りなおします。全身デトックス手術です」
メルトはいまだ座りこんで涙を流す戎兵衛を見ると、きびきびとした動作で近づき、勢いのまま頬に張り手をかました。
恐怖の表情を浮かべたコブが、揺らぐようにして後ずさった。
「いつまでもメソメソしているんじゃない。死にそうなあなたを助けたのは陽炎さんでしょう。今度はあなたの番だ。料理人なら料理人らしく、陽炎さんが目を覚ましたときのためにメシを作りなさい」
張り倒されて頽れた戎兵衛は、頬を押さえたまま言葉もなく幾度も頷いた。




