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41 牙が抜け落ちるとき


 二十年を越える月日が流れた。


 四十三歳となったカシューは、かわらず国防の最前線で活動をつづけていた。


 頑健な肉体はいまだ往時のキレを保っていたが、ふとしたはずみに、肉体の底に(おり)のように残った疲労を感じるときがある。


 成人を迎えた十五の(とし)から数えて、もはや四半世紀近く。

 叩き上げられて身につけた経験と習慣は、恐るべき実力となって羊の暗号名をもつ諜報員を形成していたが、一方で、いつ果てるとも知れない暗部での人生にカシューの精神は()みきっていた。


 死の恐怖に対する無感覚さは、行動から慎重さを奪う。

 老練にして狡猾な生粋の諜報員という周囲の評価とは裏腹に、カシューだけは年々増えていくおのれの失敗を自覚し、忸怩たる思いを抱いていた。


 平民初の管理官となったコブは、その後も順調に栄達の道を進むかと思われたが、そうはならなかった。


 彼が用いる工作員は、カシューを筆頭とする平民出身のものたちにかぎられている。

 組織が王家直属である以上、上層部はすべて貴族に占められており、大きな権限をもつ階級を目指そうとすれば貴族社会を相手にした政治活動が不可欠だった。

 それはとりもなおさず貴族間の派閥抗争に身を投じることを意味する。

 コブがそんなものに労力を傾けるわけはなく、彼は早々に出世競争からの離脱を宣言した。


「安全保障戦略なんてものはお偉いさんが考えればいい。僕は言われた方針に沿って作戦を立案し、実行するための調整役さ。無理に雲の上まで登りつめたって、足がすくむだけだからね。僕は地に足がついてないと不安なんだ」


 その言葉どおり、コブは淡々と役目をこなすだけの日々を二十年以上にわたって送りつづけた。

 それはまさに、かつて神童、(とし)をとればただの人という格言を体現する姿であり、周囲のものたちは、いつしか彼のことを嘲りを込めて昼行灯と揶揄するようになっていた。


 貴族社会から排斥を受けているという意味では、カシューもまた同様だった。


 諜報員としてデビューした当初こそ、その有能さが自分たちのもつ特権を脅かす存在だと邪推を呼び、貴族たちから目の敵にされていたカシューだったが、かつてコブがいったように、無茶な命令が下されようと文句もいわず、困難な任務を達成しても過大な報酬を求めることのない彼の姿勢は、いつのころからか、実力はあるが出世に興味のない愚鈍な現場作業員という評価に落ち着いていた。


 選民意識に凝り固まった貴族からは、使い勝手のいい駒と認識されており、コブが陰に日向(ひなた)に手をまわしてくれなければ、とっくに使い潰されていただろう。

 そしてその危険は、自分が諜報員でいるかぎりつづいていくであろうことも、カシューは痛いほど理解していた。


 休みがあうたび連れだって飲みに行く習慣は、二十年以上が過ぎたいまもつづいていた。

 ともに家族はなく、貴重な私的時間を潰してまでつきあうような友人関係もつくってこなかったカシューとコブにとって、それは唯一の心安らぐひとときであり、だからこそ、日頃かたく閉ざしていた心が無防備になる瞬間でもあった。


「コブ、おれは疲れたよ」


 意識せず口から漏れた言葉に、カシューは驚いた。

 そんなことを言うつもりではなかった。


 気軽な冗談にまぎらわそうと苦笑しながらコブに顔を向け、カシューは動きを止めた。


 口元を強く引き締めたコブが、見開いた瞳いっぱいに涙をためていたからだった。


「知っている。カシュー、君は疲れている」


 ふいに視界が滲み、カシューは慌ててうつむいた。

 握りしめたグラス。

 そこに満たされていた酒の表面に一度だけ滴が落ち、波紋が生まれた。

 食いしばった歯のあいまから、震えた吐息がもれるのを止められなかった。


「すまなかった、カシュー。すまなかった」


 嗚咽の混じったコブの声を聞きながら、カシューはただ、首を横に振りつづけた。



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