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3 お嬢様が心配です


 私の決意は、突然変化した状況に、脆くも崩れてしまいました。

 というのも、アスタリド様が突然友人を招くとおっしゃったのです。それも、一言お嬢様に挨拶をさせたいと。

 お嬢様にはどんなにか苦痛のことでしょう。同性、そして普段関わりのある侍女という立場の私にも怯えていた彼女です。

 いくらアスタリド様のご友人でも、お嬢様が怖がられないはずがありません。

 しかし、今回のアスタリド様には譲る気はないようです。優しく、しかしきっぱりと言うアスタリド様に、お嬢様は青ざめ、震えながらも頷きました。


 アスタリド様は、決意なさったのだ。私はそう思いました。

 このどこか不安定な関係と、そして、ご自身の叶わぬお心と決別される決意を。


 駄目だ、と私は思いました。恐らくご友人と挨拶されて不安定になってしまうだろうお嬢様と、その悲壮な決意の中一人耐えるアスタリド様を、見捨ててはいけない。お二人を支えなければ。

 勿論、屋敷の方々もお二人を支えようとなさるでしょう。私一人が残ったところで何も益はないかもしれません。しかし、それでも、何の力にもなれなくとも、彼らの味方は一人でも多くいた方がいいと思うのです。


 一度決意したことを翻すのは、あまり褒められたことではありません。私自身、そういったことはしないようにと心がけておりました。もしかすると、離れる道を選んでいながら、浅ましくも離れないための理由をどこかで探していたのかもしれません。

 それでも、大切に思う方々を支えたい、その心は変えることができません。



 お嬢様は、アスタリド様の友人に挨拶なさると決めた日から、不安定になってしまわれました。ぎゅ、と小さく握った拳をもう片方の手で包み、祈るような姿で部屋の端に縮こまっております。それでも、決してやめたいとはおっしゃいませんでした。お嬢様もまた、変わる決意をなさったのです。


「お嬢様、ハーブティーはいかがでしょう」

 私は同僚(と、言っても良いのでしょうか。飾ることしか出来ない身では、未だに戸惑ってしまいます)のハーネーゼに頼んで、ハーブティーを運ぶ役目を譲って頂きました。ハーネーゼは美しく、さっぱりした性格の、私を真っ先に受け入れてくれた方です。侍女としての役目を奪ってしまうことを謝ると、「貴女が淹れたお嬢様への心遣いを貴女が渡すだけでしょう。何を謝ることがあるの」とあっさり笑って送り出してくださいました。寝巻き姿のまま部屋で過ごしがちになったお嬢様に会う機会は、少なくなってしまいました。どうしても、自分の目でお嬢様の姿を確認したかったのです。

 お嬢様は自分もお辛いでしょうに、私に柔らかく微笑みになって、「ありがとうサヤナ」と感謝の言葉を述べられました。

 私はその笑顔に胸が苦しくなります。

 私は、その笑顔を曇らせてしまうかもしれない存在です。笑いかけてもらえる資格など、あるのでしょうか。ああ、でも。


「……お嬢様、私も、側にいますからね」

 どうにかして勇気をつけてもらいたかった。この口は、あまりにも軽い、嫌な口です。

「……ふふ、サヤナ、本当に、ありがとう」

 儚くも優しいお嬢様。アスタリド様が大切になさる気持ちが、よく分かります。お嬢様、必ず、お嬢様を私から守りますから、ですからどうか、ずっと笑っていてください。



 そうして、ついにアスタリド様のご友人であるカシャーダ・ソーレイン様がいらっしゃる日になりました。お嬢様は、お部屋から出てはいらっしゃいますが、今まで以上にそわそわとしています。


 アスタリド様の後をちょこちょことついていき、そのお召し物の裾を小さく握ったままお離しにならない姿はお可哀想で…………そして、この上なく、お可愛らしいです。

 駄目です。お嬢様は怖がっているのです。可愛いだなんて、そんな、そんなことを思うのは不謹慎……か、可愛い。目を潤ませて震えながらアスタリド様から離れられないその姿は、親鳥の後をついて回る雛のような愛らしさです。嫉妬や心配などその他の感情を圧倒的に上回るこの感情が、少し怖いほど。

 耐えきれず口元を押さえながら悶えていると、アスタリド様と目が合いました。

 アスタリド様は苦笑して、それでもやはり嬉しそうになさっています。どことなく誇らしげです。少し妬けてしまいますが、そんな表情も素敵です。


 そんな平和な光景の中、不意にアスタリド様が窓の外へ目を向けました。

「ミーフレア、もう直ぐ着くようだよ」

 その言葉に、お嬢様の顔が強張ります。

「……落ち着いて。大丈夫。僕が居る。それに、サヤナも。カシャーダはミーフレアが嫌がることはしない。約束するよ」

 私は自分の名前が出たことに驚きました。アスタリド様は少し私を買い被っていらっしゃる節があります。

 頭を撫でられたお嬢様は、微かに頷かれたようでした。


 いらっしゃったカシャーダ様という方は、とても快活そうな方です。そして、大らかそうな見た目に反し、気遣いにも満ちた方でした。執事として屋敷を纏めるシドガン様が出迎えた際、きちんと目を合わせてお礼をおっしゃいました。高貴な方でそういった対応をなさる方は、なかなかおりません。

 私は、ひっそり安堵しました。

 そして同時に、言い知れぬ不安感に襲われたのです。


 侍女のヘレニがカシャーダ様をアスタリド様の元にお連れしている間、私とハーネーゼはお嬢様を迎えに行きました。本来挨拶をする際は、アスタリド様とご一緒に客間で迎えるべきなのですが、それではお嬢様の心の準備が整わないだろうとアスタリド様はお考えになったのです。


「お嬢様」

 ハーネーゼが軽くノックして呼びかけると、細く扉が開きます。隙間から見えたノブを持つお嬢様の小さな手が震えております。ぎゅ、と一度その手に力が入り、お嬢様がドアを開きました。


「お嬢様、大丈夫ですよ」

 私とハーネーゼが頷くと、お嬢様も頷かれました。



 後から入ってきたお嬢様を見て、カシャーダ様が目を瞬きました。

「カシャーダ、妹のミーフレアだ」

 アスタリド様の紹介に、お嬢様が一歩、足を踏み出します。

 カシャーダ様は何となく何かをお感じになられたのでしょう。震えるお嬢様に訝しげな視線を投げることもなく、静かに見つめます。


「……ミーフレア、で、ございます。本日は……お越しいただき、あ、ありがとう、ございます」

 震えた声で、それでも精一杯最後まで言い切ったお嬢様。私も、アスタリド様も、それから屋敷の皆さんも、お嬢様に手放しの賞賛をあげたい気持ちになりました。十分、いえ、十二分の成果です。

 カシャーダ様は、その拙くも一生懸命な挨拶に柔らかく微笑みました。

「ああ、お招きありがとう。カシャーダだ。君のお兄さんには世話になっているよ……いや、世話しているか?」

「おい」

 戯けたようにおっしゃるカシャーダ様を、アスタリド様が軽く睨みます。


 私は、とても驚きました。

 お嬢様はそのお返事に、何一つ責めることもなく場を和ませたカシャーダ様のお言葉に、沸き立つ感情を抑えるように唇を噛んだ後、

 花が咲くように、笑いかけたのです。


 場が、しん、と静まりました。


 お嬢様が初対面の方に笑顔を見せたのは、これが初めてのことだったのです。衝撃に固まり、やがてじわじわと喜びがせり上がってきます。

 カシャーダ様はそんなお嬢様に見惚れていらっしゃったようでした。我に返ったように目を逸らすと、気まずげに咳払いをなさいました。

 お嬢様はふと緊張が途切れたのでしょう。

 よろめきそうになる細いそのお身体を、慌てて支えます。


 息を呑んで固まっていた周囲の時も、徐々に動き始めました。


「お嬢様、家庭教師の方がいらっしゃる時間が迫っておりますよ」

「ええ……」

 人と接することが苦手なお嬢様は、家庭教師ではなく執事のシドガン様に学んでおりますが、とっさに用事が思いつきませんでした。

 お嬢様は私の思惑にお気づきになられて、同意してくださいます。


「失礼ではございますが、お嬢様はお約束があるので、このまま失礼させていただきます」

 深く礼をし、カシャーダ様が頷くのを確認すると、私は直ぐにお嬢様を部屋の外へとお連れしました。


「ありがとう、サヤナ」

「ふふ、お嬢様はお礼ばかりおっしゃいますね」

「お礼を言うようなことばかり、サヤナがやってくれているのよ」

 お嬢様が少し悪戯っぽい口調で、それでも真摯な瞳でおっしゃいました。小さなことでも感謝を忘れないその心は、尊いものでございます。

 私は、このままお嬢様が少しずつ世間へと開けて行けば良いと思う一方で、喜びが治まった冷静な頭の中、先ほどどんな表情をなさっていたのか確認出来ずにいたアスタリド様のことが、気になって仕方ありませんでした。




 それから、カシャーダ様は月に幾度かおいでになるようになりました。お嬢様はその度挨拶に向かいます。徐々に、青ざめる頰も、震える足も、見ることが減って行きました。

 それを見るたび、私は喜んで良いのか悲しんでいいのか、複雑な感情に困惑することになりました。

 私は未だに、カシャーダ様とお嬢様の三人でいらっしゃるときのアスタリド様の表情を、見ることが出来ておりません。




 いつものように髪飾りを吟味しようと、衣装部屋からリビングルームの一室へ向かいます。屋敷には、ソファやテーブル、娯楽用具などが置かれたリビングルームが幾つかあります。私は、髪飾り同士が触れ合って傷ついてしまわないよう、広げて置くための大きなテーブルのある一室を使わせて頂いているのです。その時、不意にいつものリビングルームの隣の一室の灯りが点いていることに気づきました。

 どなたかいらっしゃるのでしょうか。

 遅くにこっそり自作のクッキーを頬張ることが好きなヘレニかもしれません。もしくは、最近眠れていないと嘆いていた料理人のグラドでしょうか。


 そっと扉を開けると、椅子に座っていらっしゃる後ろ姿が。

 あの、藍色の長い髪は……


「アスタリド様?」

 小さく、呟きます。


 気配に気付かれたのか、彼がこちらを振り向きました。逆光になって、お顔がよく分かりません。


「サヤナ。……ああ、そうか。髪飾りを選んでいるんだったね」


 思いの外柔らかい声に、私はほっと息を漏らしました。


「……こちらにおいで」



 私は、招かれるまま、彼の側に寄って行きました。




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