4 どうしたらよいのでしょうか
側に行ってやっと、その表情がはっきりとしました。
アスタリド様は、柔らかい笑顔でこちらを見ていらっしゃいます。
「折角だから、ここで選んではどうだい。丁度話し相手が欲しかったんだ」
「ええ、では、失礼致します」
抱えていた化粧箱をテーブルに置き、中から一つ一つ丁寧に髪飾りを取り出します。蝋燭の柔らかな赤い光に照らされて、髪飾りは昼間とはまた違った美しさで煌めいています。
「坊っちゃまは、どうしてこちらに?」
「特に深く何かを考えていたわけではないよ。気がついたらここに居た、って感じかな」
私は、ずきりと心が痛みました。アスタリド様はきっと眠れないのでしょう。
不意に髪に何かが触れ、それがアスタリド様の手だと分かって心臓がひっくり返ったような心地になります。
「アスタリド様と、さっきは言ってくれたのにね」
髪に絡められた指が、緩く動いて、さらりと髪を梳いています。いつもはまとめている髪も、寝る間際の現在はおろしてしまっているのです。
今までに無かった行動に、私はどうしていいか分かりません。
「……聞こえていたのですか」
小さな呟きを拾うだなんて、どれ程神経を尖らせていたのか。そこまで考えて、やっと私はこの行動の意味に思い至りました。……人肌を、求めていらっしゃる?
「もしかしたら、君がいると分かっていたから、ここに来ていたのかもしれない。無意識だったけれど、君の『アスタリド様』を聞けたのだから正解だったな」
少し艶めいた、からかうような声。くすくすと笑うその声は、本当に楽しそうで、無理をなさっているようには感じられません。
もし、私の言葉一つで一時でも痛みを忘れられるのなら、幾らでも言って差し上げるのに。けれど、実際名前呼びを安売りしてしまえば、新鮮な驚きは消えて悲しみが戻ってしまうでしょう。どうにか、この会話を繋げなければ。
「……そうして私をからかっていらっしゃるうちは、私は『坊っちゃま』をやめませんとお伝え致しましたけれど?」
「ふふ、つれないな」
そう言うアスタリド様は、私の髪を梳かすのをおやめになりません。
私はそれが悲しく、つらく……そして愚かにも、喜んでしまうのです。
そんなぐちゃぐちゃな気持ちが、やがて、抑えられなくなってしまいました。
私は、つい、この雰囲気を壊したいと願ってしまったのです。
「お嬢様は、随分明るくなられましたね」
お嬢様のお気に入りの赤い髪飾りを手に取り、私はアスタリド様の心を抉ります。自分で自分の言葉にどうしようもなく失望して、私は息を詰めて返事を待っておりました。
アスタリド様はぴたりとその手を止めて……「そうだね」と一言。それは、優しくも、確かに、寂しさが滲んでいて。
後悔をしながら、もう一つの感情が湧き上がるのを止められませんでした。
「カシャーダ様は、とても素晴らしい方ですね。彼がいらっしゃると、屋敷が明るくなったような心地がします」
どうして。どうして、親友を選んでしまったのか。アスタリド様を苦しめるその相手に、どうしてよりにもよって大切な友人を選んでしまったのかと、詰め寄りたい気分でした。お嬢様の世界を広げたいならば、他の知り合いでは駄目だったのか。どうして自分の首を絞めるようなことをなさったのか。
分かっています。身勝手な気持ちです。大切なお嬢様だからこそ、任せるのは大切な友人が良かった。信頼できる人間以外にお嬢様を託すことなどするわけがない。これは、お嬢様にも、アスタリド様のお気持ちにも失礼な感情です。
それでも私は、分かるのです。自分の想う方が、自分の大切な方に想いを寄せる。その時の心が。
「…………そう、だね」
今度は、長い間の後、躊躇いがはっきりと言葉に浮かんだのを、私は聞き逃しませんでした。
辛いに、決まっています。
分かっていて私は彼を傷つけました。
出来ることなら、隠さないで欲しい。
想うまま心の内をどこかに、お嬢様にでも、カシャーダ様にでも、私にでも、ぶつけて欲しい。
八つ当たりをして欲しい。我儘を言って欲しい。
お願いですから、耐えないでください。
「サヤナは、カシャーダを気に入った?」
「……ええ、とても良い方だと思います」
嘘ではありません。けれど、アスタリド様を傷つける彼を、手放しで好きだとは言えません。理不尽だと分かっていても、それは変えられない気持ちです。
「そう。……あいつは、良い奴だよ。妹も、あいつが来ると喜んでる。僕と違って、人を幸せに出来る奴だ」
その言葉に自嘲が滲んでいるのを聞いて、私は慌ててその言葉に言葉を重ねます。
「坊っちゃまも人を幸せに出来ます!」
勢いのまま振り向くと、驚いた顔のアスタリド様がいらっしゃいました。
やがて、ふわりと微笑むと
「……ありがとう、サヤナ」
優しい手が、私の頬を撫でました。
その顔はお礼を言って微笑むお嬢様とあまりにも似ていて。ああ、兄妹なんだ、と悲しくなりました。
兄妹なのです。どれだけ望んでいても、兄妹以外にはなり得ないのです。アスタリド様が想いを遂げて、二人が心を通わせたとしても、決して誰にも、神にすら祝福されはしないのです。
二人だけ、二人だけの世界で、お互いだけを見て過ごす。それはそれで、私には羨ましい世界ではあります。それでも、それが一番幸せな形なのか。反対に周囲から祝福される形ならばどれもが幸せなのか。
私は、分かりません。本人にしか分からないことです。
そして、アスタリド様はきっと、祝福されない形を幸せだとは思えなかったのでしょう。
だから、お嬢様の解放を望んだ。
どうにかしなければ。
どうにかしなければ。
癒さなければ。慰めなければ。側にいなければ。
どうにか……どう、すれば。
貴方を、救えるのでしょうか。
貴方のために、私は何を出来るというのでしょうか。
―――
うんと幼い頃のことです。
私はまだマレイラン家の令嬢でした。
お洒落が大好きで、よく侍女の管理する部屋に忍び込んでは私の化粧箱や宝石箱、クローゼットを開いて組み合わせて遊んでいました。
しかし、私の組み合わせは、旧くからある名家の令嬢の着るものとしては、遊びを取り入れ過ぎたものでした。
中々その組み合わせは許されませんでしたし、なんとか許可を取ってそれを着て外に出ても、遠慮を知らない同年代の子供たちには変だとばかり言われて来ました。そうして私の衣装を担当する侍女まで悪く言われてしまうようになり、私は泣く泣く着るのを諦めました。自信はすっかり折れてしまいましたが、それでも私の頭の中には理想の、好きな服が現れ続けました。
着ることはなくとも、絵の中の人物の服として描きだすことで、私は自分の趣味を保ち続けていました。
そんな時です。
私は両親とオペラ鑑賞に行っておりました。二人がオペラに夢中になっているその後ろで、こっそりと役者の方が着ている服を自己流にアレンジして描き出していました。
終わった後は持ってきていた本に挟んで隠し、何事も無かったかのように家路につこうとした時。
ロウリエル一家、つまり、アスタリド様たちご家族と出会ったのです。
両親同士は、社交界で面識があったのでしょう。にこやかにご挨拶し合っておりました。
利発そうな上のお兄様、サトレイル様は、両親から話を向けられはきはきと答えていらっしゃいました。
そして、アスタリド様は。
「こんにちは。僕はアスタリド・ロウリエル。君は?」
「サヤナ・マレイランです。よろしくお願いします」
本を抱きしめ、少し緊張しながら挨拶を返すと、彼はにっこりと微笑みました。今のような艶めいた感じはありませんでしたが、十分に魅力的な笑顔でした。
「君は、きちんと丁寧に話せるんだね。僕はまだ慣れないんだ。大人と話すときは気をつけるんだけど、なんだか恥ずかしくてさ」
「普段と違う話し方は、恥ずかしいですよね。私は、お父様にこの口調で話すように言われて来たので、柔らかい口調で話すのが苦手なんです」
普通と違うこの話し方は、人に壁を与えてしまっていました。なんとなくそれを感じていた当時の私は、それが悲しかったことを覚えています。
それを、アスタリド様は。
「なんだ。じゃあ、同じだね」
再びにっこり笑って、嬉しそうに私の手を取りました。その言葉が、どれだけ嬉しかったか。
つい、本を握る手の力が緩んでしまったとき。
どん、とどなたかに打つかりました。
よろめいてしまった私を、アスタリド様が慌てて抱きとめ……られず、二人で後ろに倒れます。
「どうなさったの!?」
両親たちが急いでこちらに寄ってきて、私たちの身体に怪我がないか確認しました。
その間、私は……あることに気が行って、それどころではありませんでした。
本の間に挟んで、丁寧に二つ折りしていた紙が、ひらりとすべりだしホールの端の石像の下に挟まってしまったのです。
アスタリド様はそんな私の視線に気がついたようでした。確認が終わって両親たちが酷いものだと言い合う間にひっそりその紙に寄って、取ってきてくださいました。
私は、二つ折りにしたそれが開いているのを見て、血の気が引きます。
変だと言われてしまったらどうしよう。
感謝の気持ちより絵の感想の方が気になって、小さく震えました。
アスタリド様は丁寧に二つ折りに戻して、両親たちの視線から隠すように渡してくださいました。私が動かなかったのを見て、見られたくないと察していたのでしょう。
「君の衣装、今はまだ早いかもしれないけど、いつかきっとみんなが好きになるよ。だって、僕は好きだからね。今まで、好きになったものは必ずみんなが好きになっていたんだ。約束するよ」
悪戯っぽく笑うアスタリド様を、私は呆然と見ていました。
だって、今まで私の考えたものを好きだと言われたことなんて、一度もなかったのですから。
アスタリド様は付け足して言いました。
「もしだめだったら、僕を叩きに来るといい。そんな日は来ないけどね」
自信たっぷりに言う姿がおかしくて、嬉しくて、私はぷっと笑いだしました。
「ふふふ、ありがとうございますアスタリド様。さっきも、それからその前も。アスタリド様は人を幸せにする天才ですね。……でも、だめだったら本当に叩きに行ってしまいますからね?」
そう言うと、アスタリド様も優しく笑ってくださいました。
そうです。そうなのです。
アスタリド様は人を幸せに出来る人なのです。
私が、どれだけの喜びを、あのたった一回の出会いで感じていたか。
アスタリド様は分かっていらっしゃらないのです。
私はそんなアスタリド様のようになりたくて、アスタリド様の恩に報いたくて。
今まで、生きてきたのですから。




