5 傷つけてしまいました
お嬢様の髪を、丁寧に梳かします。丁寧に、丁寧に。私はこうしていると、ゆるやかな夜の海をそっと撫でているような、穏やかな気分になります。
「サヤナ」
「はい、どういたしました?」
「……ふふ、なんでもないの」
お嬢様は、本当に良く笑うようになられました。それに、以前はご自分から口を開くことは滅多になく、あってもアスタリド様が側にいらっしゃるときでした。
そんな変化が、沁みるように嬉しく、そして、沸き立つように憎らしい。
ああ、駄目です。こんな気持ちで、こんな気持ちでいては。私は私の、ある種呪縛のようなこの気持ちこそ憎らしい。お嬢様の侍女でいるべきなのに、私はどうしてもアスタリド様を想う一人の女になってしまう。
お嬢様は、おそらくもう大丈夫でしょう。彼女の変化のきっかけとなったカシャーダ様はとても良い方です。このまま上手く進めば、きっと……。
ああ、でも、きっと、アスタリド様は傷つくことになるのでしょう。
どうしたら良いのでしょう。私はそればかり考えています。良い考えは何一つ浮かびません。私は、よくよく考えてみると、彼の喜ぶことを何も知らないのです。
やはり。やはり、私は屋敷を出るべきなのでしょうか。何も出来ないどころか、お嬢様を傷つけ、アスタリド様を傷つけてしまうかもしれない身勝手な自分は。
職を辞する旨を書いた手紙は、着物の中に潜ませてあります。
いつでも辞める準備は整っています。あとは心の準備だけ。
……もう少し、頑張ってみても良いのでしょうか。アスタリド様を癒そうと頑張ってみても、許されるでしょうか。私が何をしても無駄だとわかるまで、お嬢様へのこの毒々しい感情が抑えきれなくなるまでは。
お嬢様が不思議そうにこちらを見る目と目が合って、頭を振って考えを切り替えます。
「……お嬢様。本日はカシャーダ様から頂いたこの髪飾りにしましょうか」
微笑みかけると、お嬢様は恥ずかしそうに頬を染め、それでも嬉しそうに頷きました。
どうしてアスタリド様ではいけなかったのですか。
私はその質問を、無理やりに飲み込みました。
今日、お嬢様はカシャーダ様と初めて外出なさいます。カシャーダ様が良くお話になる冒険譚に興味をお持ちになり、その冒険譚を元にしたというオペラに行くことになったそうです。
お嬢様は緊張しながらも、わくわくと目を輝かせていらっしゃいます。
迎えにいらっしゃったカシャーダ様を、アスタリド様が出迎えます。その眉間にはくっきりと皺が。
「わかってるな?オペラを観るだけだ。万に一つでも変な真似をして泣かせてみろ、二度と陽の光は浴びれないと思え」
「はいよ。全くお前は。少しは妹離れしろよ……お前、この間言っていた好きな奴はどうしたんだ?」
「…………」
アスタリド様はカシャーダ様から目を逸らしました。顔が「余計なことを…」と言っています。多分、それは……。
「おいおい、まだヘタレてるのか?そんなんじゃ一生独り身だぞ、そもそもその子はどこの誰なんだ」
「しつこいうるさいだまれ。はぁ、もう良いから早く行けよ。可愛い妹を預けるんだ、しっかり楽しませろよ」
そう言ってアスタリド様はそっとお嬢様の肩を押します。
「ミーフレア。楽しんで」
「はい、アスタリドお兄様」
無邪気なお嬢様の笑顔を、アスタリド様は眩しそうに見て、そうしてカシャーダ様の方に、今度は少し強めに押しました。
カシャーダ様は危なげなくそれを受け止めます。お嬢様のお顔が真っ赤に染まります。
私は、それを静かに見ていました。馬車に乗り込むお二人の姿を、黙って、じっと見つめるしかありませんでした。
「……サヤナ、お茶に付き合ってくれるかい」
はっ、としてアスタリド様を振り向きます。
「ミーフレアもカシャーダも行ってしまったし、話し相手が欲しいんだ。どう?」
「……私でよろしければ」
アスタリド様は笑って、私の頭を撫でました。
お茶は何故かアスタリド様が淹れてくださいました。私がやると言うと、「駄目。僕がやる」と言って引きません。笑ってはいらっしゃいましたが、その言葉には強い響きがあって、私はそわそわしながらも椅子に座って待っているしかありませんでした。
「どうぞ、お嬢様?」
くす、軽い笑みとともに、後ろからお茶が出されました。意識せずとも色気の滲んでしまうらしい声が、耳元近くから吹き込まれます。
「……坊っちゃま、今度は一体なんの冗談ですか?」
「給仕ごっこ」
私は音を立てる心臓を必死で抑えているというのに、アスタリド様は余裕のある笑みで私を見て、自らも席に着きました。
「…………坊っちゃま」
「ん?」
にっこり笑って首を傾げておりますが、誤魔化されません。
「何故隣の席なのですか」
「座りたかったから」
近い。近いです。それに答えになっていません。正面の席が空いているというのに、アスタリド様は私の真隣に座っております。加えて、体ごとこちらに向けてテーブルに頬杖をつきながら私をにこにこと眺めております。
「………………」
「お茶をどうぞ?」
促されるまま、とりあえずティーカップを手に取りますが……飲みづらい。
「……坊っちゃまはお飲みにならないのですか」
「僕は猫舌だから、もう少ししたらね」
「初めて聞きますが」
「初めて言ったからね」
嘘を仰い、アスタリド様が熱々のスープを平然と飲むのを、私はこの目で見ているんですからね。
じっ、と睨むもののアスタリド様は私が飲むまで自分も飲まないつもりらしく、私はため息を吐いてカップの淵に口をつけました。
ふわり、と暖かみのある茶葉の香り、包み込むような甘さと深い苦味。
思った以上に美味しく、私は驚いて瞬きます。
「どう?」
「美味しい、です」
何だか心も温まった心地がして、私は口元が緩むのを感じました。
「良かった」
柔らかい笑顔。私は何となく、近頃沈みがちだった私にお気づきになられていたのかもしれないと思いました。この席は、お嬢様のことを切り替えようと気を紛らわすために誘ったのではなく、むしろ私を元気づけるためのものなのかもしれないと。
私は、元気づけたいと思っていた方から逆に励まされてしまったと少し落ち込みましたが、すぐにじわじわと嬉しさが滲んできます。
「……ふふ、ありがとうございます」
「ん、どうかした?」
「いえ、何でもありません」
私はもう一口とカップを傾けます。
そういえば最近アスタリド様は何かと私を構ってくださっていました。お嬢様のことを考えないように気を紛らわしていらっしゃるのだと思っていましたが、私を心配してのことだったのかもしれません。自意識過剰な考え過ぎだったとしても構いません。ただ、私が今嬉しく思っている、それだけで良いのです。
一人にやにや不気味に笑う私を、アスタリド様は不思議そうに眺めていました。そうして次に、羽毛のお布団のようにふかふかな笑顔を浮かべました。
私はつい見惚れてしまいます。
「……勿体無い」
「ん?」
小さく溢れてしまった言葉が拾われてしまいました。私は目を逸らしてお茶を飲み込みますが、アスタリド様に引く気は無いらしく、首を傾げて促すように見つめられます。
「……勿体無い、と」
「勿体無い?」
「……その、折角それほど優しい顔がお出来になるのに、他の方にあまり知られていないことが勿体無く思えてしまって」
余計なお世話でしょう。いくら尋ねられたからといって、自分は何を言っているのかと居心地が悪くなります。
「優しい顔、……そんな顔してた?」
「はい、その、お布団、みたいな」
「お布団!ふ、そうかお布団ね」
何かの琴線に触れたのか、アスタリド様は楽しそうにくすくすと笑います。
「サヤナはお布団みたいな僕の顔は好き?」
「は、」
「ん?」
いきなり何を仰るのでしょうか。私は二の句が継げずただただ口を開閉させるしかありません。にこにこと楽しそうに笑うその顔に他意はなさそうで、意識してしまう自分を後ろめたく感じます。
「……その、素敵だと」
「そう、良かった」
心底嬉しそうになさる様子を直視出来ず、私は意味もなくソーサーの上のスプーンの持ち手を弄ります。
「サヤナが知っていてくれたらそれで良いよ」
「え?」
「僕がどんな表情をするのか、僕が何を思うのか。君は人を気遣える人だから、僕のことだってきちんと見ていてくれていることを知っている。だから、別に他の誰かに理解される必要はないよ。サヤナが知っていてくれるだけで良いんだ」
真っ直ぐにこちらを見るその瞳は真剣で、単に仕事ぶりを褒めてくださっているだけだと自分に言い聞かせても、激しく音を立てる心臓が宥められません。
それでは、それではまるで、私だけが特別だと言っているようではないですか。
落ち着けと繰り返し心の中で呟く。屋敷の人間に目を配れる侍女になれていると、勇気づけてくださっているだけです。
それでもその見るものを惹きつける深い藍の瞳から目が離せず、私は何とか言葉だけ必死に紡ぎます。
「……あ、ありがとうございます、そんな大層な人間じゃ、ありません、けど」
「そうかな」
「そ、それに、やはり、私だけが知るだなんて、駄目、ですよ」
「どうして?」
「だ、だって、坊っちゃまだっていつか結婚なさるでしょう。相手の方と理解し合わないままなんて、坊っちゃまがお辛いでしょう。そ、そもそも坊っちゃまにはお嬢様やカシャーダ様や屋敷の皆さんがいらっしゃるじゃないですか!私だけなんて、そんなことありません」
そこまで言って、はっと気付きます。違う。今お嬢様やカシャーダ様はアスタリド様の理解者ではありません。理解者になってはいけないのです。
アスタリド様は、はっきりと傷ついた顔をなさっていました。
もしかして、私が彼の気持ちに気付いていると、知っていらっしゃった?
だから、それで先程の発言を?私のことを、自分を理解してくれる存在として見てくださっていた?私は、そう信じてくださっていたアスタリド様に、何を……
私は血の気が引いていくのを感じます。知っていた、知っているのに傷つけてしまった。
「あ、あの、坊っちゃ」
「サヤナ。君は……」
す、と手が伸ばされ、頰に触れかけた直前でぴたりと止まりました。
「……君は、僕の気持ちを分かっているね」
「……っ」
「……そう、やっぱりか」
美しい藍の瞳。先程までの楽しそうな色はそこになく、潜るように深い。
「あ、の……ごめんな、さい」
「……いいよ。ごめん、本当は僕も知っていたんだ」
知っていた?
私が顔をあげると、暗い暗い瞳が私を映していました。
「君の気持ち。本当はどこかで気付いていて、知らない振りをしていた。僕の気持ちを押し付けてごめん」
私は衝撃に言葉を失います。押し殺していた筈の想いは、他でもない本人に知られていた?
「君が弱っていたから、つけ込んだんだ。最低な奴だよ。僕の行動は全て自分本意だ。ミーフレアのことだって……」
そこで、アスタリド様は唇を噛みしめました。
「……失望した?それとも、もしかすると聡い君には、僕の事は全てお見通しだったかな。ごめんね、でも、これが僕だ」
ずきずきと、痛い。頭か、耳か、心か、それとも他のどこかかもしれません。単純に自分の気持ちも痛い、けれどそれ以上に、私を傷つけたことで自分まで痛そうにするアスタリド様が、痛くて痛くて苦しい。
「……あ、すたりど、さま……」
何とか声を発すると、アスタリド様は自嘲するように口を笑みの形になさいました。
「今、そう呼んでくれるんだ。……ごめんね。苦しいね。でも、駄目だよ」
頰の手前で止まっていた手が、するりと頰を撫でて行きます。
「僕には、この屋敷には、君が必要なんだ。苦しくても辛くても、ここに居てくれないと駄目だよ」
そう囁く声は、ぞっとするほど艶やかで。
私は、何も考えられないまま、無意識に後ろに下がりました。がたん、と、椅子が倒れ、私はバランスを崩しました。
「サヤナ」
いつの間にか立ち上がっていたアスタリド様に支えられ、私が転ぶ事はありませんでした。私を掴むその腕は私よりもずっとたくましく、いつかのように受け止めようとして一緒に倒れてしまうことはあり得ないように感じました。
そして、いつかと同じように。
倒れかけたはずみに、服に忍ばせた辞職を願う手紙が、するりと滑り落ちました。
「……」
アスタリド様は無言でそれを拾い。中身に目を通すとそのまま、破り捨てました。
私はそれを、為す術もなく見ているしかありませんでした。
「サヤナ、……君は、ミーフレアを見捨てるつもりだった?」
そっと耳元で囁かれ、私は必死で首を振ります。
「あんなに君を慕っているのに、その気持ちを裏切って何も言わずに去るつもりだった?」
「ち、ちが……」
「妹は、もうすっかり君を寄る辺にしている。少しずつ成長しているけれど、まだ不安定だ。今君がいなくなれば、あっという間に心の均衡を崩すだろう」
そんな、そんなことは。
無いと言いたかった。けれど、もしかするとそうかもしれないとも思いました。本当は気付いていました。お嬢様が私を深く信頼してくださっていること。私が消えれば、不安定になってしまうかもしれないこと。私は自分を軽んじるふりをして、その実お嬢様を軽んじていたのです。傷つけるのが怖くて、自分を制御できる自信が無くて、逃げることばかり頭にありました。逃げるためだけに、私は、お嬢様を捨てようとしていたのです。
そんな醜い自分に直面し、怖くて怖くて堪らなくなります。
こんな今になっても私は、醜い自分を知られてアスタリド様に嫌われてしまっていないかとそればかり考えてしまいます。
「サヤナ、逃げないで」
逃げなくても良いのですか?
「ここに居るんだ」
ここに居ても良いのですか?
「君が必要なんだ」
必要としてくれるのですか?
私をがんじがらめに縛ろうとするその声が、何故か、心を落ち着かせました。




