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ほしのふるさと  作者: 中村 遼生
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第七幕 風の種

「彩夏かい?」

そおっと、事務所の扉を開けて抜き足差し足でお兄ちゃんたちのいる部屋を通り過ぎようとしたんだけど、やっぱり気づかれちゃった。

私は、静かにお兄ちゃんたちの部屋のドアを開けて、中の様子を伺った。開けたドアの隙間から、ほんのり暖かい空気と北欧系の音楽が流れている。今日はクラシックじゃなかったんだね。でも肌寒い北海道と北欧の音楽はいい感じの空気を作り出してると思うよ。暖炉で小さな炎を灯す薪の爆ぜる音がちょうど良いアクセントになってる。

お兄ちゃんと桐生さんは二人して、少し高級そうなソファに向かい合わせで胡坐(あぐら)かいて、ガラス張りのテーブルの上に立派な将棋盤を置いて指している。

「夏とはいえ、まだ肌寒いから早く布団にもぐりこむと良いよ」

お兄ちゃんはそう言ってくれたんだけど、私はまだねむたくないのって答えた。だって、この二人がどんな話をしてるのか、すっごい興味があったんだもん。

「仕方がないなあ。じゃあ中に入りなさい」

お兄ちゃんに促され、私は二人の間の背もたれのないソファに暖炉を背にして腰掛けた。じんわりと暖かさが沁みてくる。

盤上を眺めると、お兄ちゃんは穴熊に構えて、守り重視。だけど定跡にあんまりない形。桐生さんは典型的な棒銀戦法。ぱっと見た感じ形勢は甲乙つけがたいかな。

これでもお父さんに子供の頃から将棋の指し方は教わってるし、大体わかるんだ。

洋風の部屋と北欧の澄んだBGM。将棋と日本酒の熱燗、肴にスルメっていうまったく違う文化をくっつけた多国籍な二人は、盤面を挟んで会話している。

二人の向こうの壁に映し出される二人の揺らめく影だけ見ると通天閣辺りで将棋指してるおじさんたちみたい。

「どうだい?彩夏。みんなと少しは話ができたかい?」

お兄ちゃんが、手の中で駒をもてあそびつつ、声をかけてくれる。

「うん。みんな、いっぱいお話してくれたよ。でも、よくわからなかったんだ。でもサクラさんの話はなんか、切なくなったよ」

「サクラさん。あの話したんだね」

お兄ちゃんの指が、しばらく盤上をさまよった後、五5に乾いた音を響かせて角を力強く打ち込んだ。

「みんな、もう飲んだくれて誰も聞いてなかったみたいだったけどね」

「基本的に酔っ払いは、同じ話を何回も繰り返すからな。みんな聞き飽きたんだろう」

と身も蓋もないツッコみを横から入れる桐生さん。

「しかし」

桐生さんは静かに駒を進めて言う。

「藤谷のアホ、遅くなってはええとは言うたが、起きてこなんだら、しばき倒さなあかんな」と真顔の桐生さんに、お兄ちゃんは視線を送り、微笑みを浮かべる。

「何分遅れても良いと言わんかったあんたの負け」

桐生さんは、お兄ちゃんの言葉を受けて、少し悔しそうにお猪口を空け、徳利を取り上げて、次の一杯を注いで、一口。その間にお兄ちゃんが受けの一手を返す。お猪口越しに盤上の形勢を眺める桐生さん。その視線を受け流しつつお兄ちゃんも空のお猪口に一杯注ぎながら言葉で絵を描く。

「春に散った桜が、秋空に狂い咲く事があってもいいよな。たった一本きりでも。永遠に咲き続ける桜が世界のどこかにあってもいい。風を受けて永遠に吹雪続ける桜がな」

ロマンチックだねえ。世界のどこかに一本きりの桜かあ。もしあるなら見てみたいなあ。

次の一手を静かに進める桐生さん。

「まあ、温暖化が進んでるし、桜がこれだけ植えられるようになったのも、近々たかが百年程度のことやし。探せばどっかにはあるかもしれんな」

少しお兄ちゃんの顔が少し青くなった。ふーん。そこで3六桂か。桐生さん、升田幸三先生のこと好きなのかな?桂馬の使い方がうまいネ。でも、ロマンを論理で返されるとなあ。「頭から水をかけられる」ってこんな感じかな。

「風流を(かい)せんねえ」

少し顔を歪めてお兄ちゃんが桐生さんをかるく非難する視線を送る。多少負けず嫌い根性を見せているお兄ちゃんを桐生さんは意にも介さずに、

「腹の足しになるのならな。それに栄枯盛衰は世の常。いったん栄えたものが栄え続ける、昨日と同じように明日が来ると考える方がどうかしとぉわ」

と面白くもなさそうな顔をして、次の一手を指すように促す。

彩夏は、そんな二人の掛け合いを聞きながら、ほんの一時間前に、ほろ酔い加減のサクラさんの語った物語を切なさの欠片と一緒に思い出していた。

「サクラの物語」

それは世の中にいっぱいあるドラマの一つで、体験したその人にとってはかけがえのない人生の一部なんだね。

大和サクラ 27歳。

夢限牧場事務長。

桜の季節に生まれたから、「サクラ」だって、安直な名前だよねって言ってたけど、私も桜は好きだよ。

だからかな、私、サクラさんのことも好きになっちゃった。でも今のサクラさんは好きだけど、昔のサクラさんに会ってたら、どうだったかなあ。

私はソファに体育座りして、膝に顔を乗せてついさっき聞いたばかりの「サクラの物語」を思い出してみた。そして静かに言葉を紡ぐ。お兄ちゃんと桐生さんの駒の音が響く部屋の中で。

私、昔東京に住んでたことがあるんだ。やっぱりね、田舎育ちだとどうしても憧れるんだよね、「東京」に。もうずいぶん昔みたいな気分になってるけど、たった八年ほど前のことなんだけど。

わざわざ東京の短大を選んでさ就職も順調に決まって、卒業してすぐ働いて、それなりに仕事もできたし、彼氏もすぐに出来た。友達もたくさんいたしね。楽しかったよ。

東京ってさ、最初から住んでる人なんてホントに一握り。大多数の地方出身者が、お互い肩を寄せ合って生きてるような街なんだ。

あの頃が一番幸せだと思ってた。このまま彼と結婚して、東京で暮らして、子供を育てて終わるんだろうなあって、漠然と思ってた。

それでも良かったんだけどね、私は。

でも、その日は突然やってくる。前を見つめて歩いてる人が、足元のことになんて気づかないよね。違うなあ。気づいてたんだと思うんだけど、認めたくなくて知らない振りをしてたのかもしれない。

 会社がつぶれちゃったの。それもね、銀行の悪質な貸し剥がしにあっちゃってさ。ま、社長の奥さんが財務やってるような会社だったから、いざ銀行が本気になってかかってきたら、対応できなかったんだよね。だから仕方ないんだけどね。私は好きだったなあ。家族みたいな会社だったから。

でも目の前まっくらよ。ホントに。

しばらくはさ、失業保険もあったし、給料は安かったけどそれなりに貯金してたからね。その間に、なんとか次の仕事を見つけなきゃって一所懸命。でもさー。新卒でも苦戦するのに、一回私みたいにどっかの色に染まっちゃったらなかなか採用って無いのよね。それに、そんなに専門的な職種でもなかったしねー。

その頃から彼ともその頃からギクシャクしだしてさ。

私はもうちょっと働きたかったんだけど、彼は結婚して家庭に入ってくれって。短大の時からの付き合いだから、それでもいっかなーなんても思ってたりしたんだけど、でもなんかイヤだったの。なんていうかね。

 今ならなんとなくわかるんだけど、自分を縛りたくなかったんだと思うの。まだ若かったし。色んなことができるんじゃないかなあって思ってた。

そんな頃かな?

あの仔に出会ったのは。

忘れもしない九月のあの日。

友達ですっごい競馬好きの子がいてさ。あんまり沈んでる私を見かねて、あんたとおんなじ名前の馬が出る競馬場があるからっていう理由で府中に誘ってくれたんだ。

東京競馬場は、周辺地域の名前を取って別名「府中」って言ってさ。当時は関東の大馬主のお膝元。その馬主さんは東京競馬場でたくさん新馬デビューさせるから、秋の初めには私と同じ名前の馬が一杯出走するんだよ。私は安直な自分の名前が好きだし、もちろん花も好きだったから、その誘いに乗って出かけてみたんだ。

馬券の買い方もわかんないし、競馬場に行くのももちろん初めて。

でも、スタンドから、ゴール前から見た生のレースの、あの感動はまだ覚えてるよ。初めて大声だしてね、「お願い、残って~」とか。

初めてでそういうことができる辺り、私も才能があったのかもね。馬券と言うより、競馬に、ね。初競馬場は、ほぼ惨敗。儲けることなんてできやしないよ。だって、なーんにもわかんないから名前で買ってたもん。名前に花の名前のついてる馬とか、ファンシーな名前の馬とか、面白い名前の馬とかね。

でも、その日の最後を飾ってくれたのは、桜が千歳に咲き続けるという思いをこめた馬名を持つあの仔。あぁ、ホントか嘘かはわかんないよ。私が勝手にそう思ってるだけだから。三歳時に無理にダービーに出走したから、後半戦を棒に振ったみたいなローテーション。四歳春にようやく初重賞を制覇して復活の狼煙を挙げたものの、春シーズンの最後を飾るグランプリでは惨敗。

捲土重来、秋シーズンに向けた飛躍を期しての秋初戦。

当時の日本レコードとなる一分三十三秒二、上がり三ハロン。最後の六百メートルのことなんだけどね、三十三秒九の切れ味を炸裂させて快勝。この馬のスタイルだったんだけど、いつも四コーナーで最後方。届くか、届かないかギリギリの勝負。

その日はずーっと「馬名」で馬券を買ってたんだけど、ようやく取れたのはそのレースだけ。だから余計に印象に残っているのかもね。

終わってみれば、直線だけで一馬身と少しの差をつけて圧勝。

あの仔が勝ったとき、なんだかいろんなものが吹っ切れたんだよね。うまく言えないけれど、「あ、いいんだ。これで」みたいな感覚。

そう思って、田舎に帰ることを前提にいろんな準備をはじめたの。彼氏とも別れたし、帰ってからしばらく食いつなぐために貯金を一生懸命しようと思って、色んな仕事をしたんだよね。

で、なんやかんやあってお父さんの知り合いだった先代の誘いに乗って、この牧場の経理で雇われるってことが決まってさ。北海道に帰ることを決めた頃なんだ。

まだその頃は先代も元気だったしね。

 先代?

先代は、自分で牧場経営するつもりはなかったのよ、元々。だって本人はお医者さんだし、他にも息子さんたちに任せて色々と事業してる人だし、どっちかって言うとこの牧場は趣味の世界だもん。だから、適当な人が決まるまでは自分で見てたけど、ご長男が今の社長と牧場長連れて来て、それで決まり。自分はオーナーになったの。まあ、大きな病気しちゃったのも事実だけどね。給料とかは、私たちは固定給だけど、社長と場長は、歩合じゃないかなあ。

そうね。私と高山さんたちは先代の頃からのスタッフなの。他のみんなは、社長と場長が来てからのスタッフだけどね。

私がこっちに帰ってくる直前くらいに、あの仔もGⅠ制覇の最期のチャンスを求めて秋の府中に出走してくることが決まったんだ。

主戦騎手は引退して年が明けたら、調教師になることが決まってたし、このコンビ、調教師さんも入れて、トリオで望む最後のGⅠ。

一番人気は、別の有力馬に譲ったけど、春先の重賞を圧勝した後に、患って春シーズン全休して、今回のレースが復帰緒戦のその仔に、私は彼が負けるとは思わなかった。なにより私は彼を信じてた。

引越し代を除いた有り金、貯金も全部ひっくるめて彼の単勝馬券握り締めてさ。今までの人生で出したことのないような大きな声を出して、応援して、彼が大外からハナ差で差しきって勝ったんだ。当時勢いのあった皐月賞馬を。本当のギリギリ。1995m走って、残り5mで差しきったんだ。なんだかわからないけど、涙が止まらなかったなあ。おかげでちょっとは財産築いて北海道に帰ってくることはできたよ。

その時にさ、思ったんだ「そうだ、私は桜だ。春を彩るだけじゃない。千歳の桜があってもいい。私が生きている限りずっと続く『サクラの物語』があってもいい」ってね。これが私の「サクラの物語」。

この物語は終わらないよ。少なくとも私が生きてる間はね。

そう言って、サクラさんは静かに微笑んで、500mlのビール、6本目を飲み干す。と同時に、休憩室のソファに横倒しに倒れこんで、真っ赤な顔で高いびき。

気を利かせた陽子さんが毛布を掛けて、宴会が終わるまで起きてこなかったんだよね。でも次に起きた時にはしっかりしてたのは流石だなあと思ったよ。

私がつたない表現でちょっと前の記憶を一通りお兄ちゃんと桐生さんの前で再現し終わって、深呼吸を三回くらいできる時間が過ぎた。

「みんな、色々な事情を抱えてここに来て、色々な思いを実現するためにがんばっているからね」お兄ちゃんが、私の心の動きをなぞるかのように言ってくれる。どうしてこの人はこういうことができるんだろう?

駒台から取り上げた駒をしばらく盤上に漂わせ、乾いた音を響かせて一手指した。

桐生さんが、その音の消えぬ間に胡坐を組みなおす。

「ほぉ。なかなかの手を指すようになった。言葉にも思いやりが見えるようになった。どうやらお前も人間やったらしい。年と敗戦を重ねるとやはり成長するものと見える」

お兄ちゃんは傍らのお猪口を取り上げて、少し自慢げに。

「ふん。負け続けて百敗した馬もいたが、その内に何回かは掲示板に乗ったさ」

「ふむ。勝つより負ける方が学ぶ方が多いとも言うしな。しかし、ハナ差でも負けは負け。勝ちにつながらん負けに何の意味がある」

桐生さんは、その言葉が終わるか終わらないかのうちに受けの一手を指し返す。

私はお兄ちゃんの困った顔を見つめながら、よく焼けたするめを一口サイズにちぎって、口に放り込んだ。我ながらちゃっかりしてる。きちんとカボスで風味をつけてあって焦げてる部分とうまい具合に調和してる。お兄ちゃんも私に続いて口にほうりこんで、よく咀嚼(そしゃく)して、猪口の日本酒で流し込む。

飲んでる日本酒は、この辺りの地酒みたいだね。横においてあるお酒のビンに生産者北海道室蘭市なんとかって書いてあるもん。

やがて、お兄ちゃんが受けの一手を部屋の空気を震わせて力強く打ち込む。

「面白い手を打つな」

桐生さんの顔がほころんだ。

「おぉ、永世名人と同門やった男に面白いと言われたか」

お兄ちゃんの顔もほころんだ。

「うむ。久しぶりに見た悪手やな。このままなら二十手先に投了やろ」

間髪入れずに桐生さんが打ち込んだ桂馬を見て、お兄ちゃんが唸りだした。

桐生さんは、そんなお兄ちゃんの様子を真正面からじっと見据えながら言葉を押し出した。

「ともあれ、うちはいままで三年。牧場の経営基盤を固めるためにオーナーのツテを頼って、預託と育成をメインにやってきた訳だが」

お兄ちゃんは、左手を広げてじっと見る。私ものぞいて見たけど、銀が一枚しかない。これじゃあ、この局面は打開できないよね。

お兄ちゃん、相当思案顔。盤上に身を乗り出して、盤面をじっと見てる。桐生さんは涼しげに、ソファにもたれかかって、お猪口を空けた。お兄ちゃんに黙って空の猪口を差し出すと、お兄ちゃんは猪口に熱燗を注ぎ、スルメを適当に細長く千切ってのせた。

桐生さんは猪口の上にのせられたスルメを取り上げ、一口噛み千切り、日本酒を口に含んで飲み下し、喉を湿らせる。

「ようやく経営も安定し、従業員の給料その他諸経費の収支も月毎ベースに見て、安定を見てきた。概ね馬主さんからの評判も良い。調教師さんからは、走る云々というより、気性が落ち着くと言う評価も得ている。ま、この数字で推移するならオーナーも」

お兄ちゃんは、右手で桐生さんを制して

「『走る』と言う評価が得られてないのは辛いが、まぁ良しとして。月にどれくらい黒が出るかね?」

「大体そうさなあ、俺とお前が月に四回場外に行ける位か」

もちろん、年金だの何だの法人として当たり前の費用、食費なんかの生活費、来年度の購買、種付け費用なんかは除いてな。と桐生さんは付け加える。

「黒字が出るだけマシ。人間一日に一汁一菜で三食。きちんと寝る場所があって、やるべきこともあればこれに勝る幸せはないさ。しかし、正直これだけやってもその程度かっちゅう思いはぬぐいきれないね。しかしまあ、何も知らない素人二人で始めてとりあえずココまでこれたのは幸運というべきかな」

盤上から顔を上げて、桐生さんの顔をじっと見る。

桐生さんは軽くうなずくと

「珍しく謙遜する。一度時間があるなら、車でゆっくりとこの辺りを回ってみたらええ。新聞でも競売物件の数が日に日に増えていきよる」

熱燗を一気に飲み干して、真顔で返す桐生さん。

右手の人差し指でこめかみの辺りを軽くかきながら、多少の恥じらいを見せるお兄ちゃん。褒められることにあんまり慣れてないみたいだね。

「しかし、まだまだかかりそうやな。基盤は大方オーナーが整えてくれていたとはいえ、ここで牧場を始めて、三年目か。預託が五頭。育成五頭。自前の繁殖牝馬は六頭。期待の持てそうなのはタケル一頭」

桐生さんの言葉を聞いているお兄ちゃんはなにが面白いのか、笑顔を見せ始めた。桐生さんの話してる内容が、あんまりいい内容の雰囲気でないことくらい、私にも空気でわかるよ。

「まあ幼駒六頭だけでも二人で血統構成をきっちり検討して購入したもんやし、普通の牧場経営者じゃ見向きもせんような血統を入れとるから、格安で仕入れた繁殖ばかり。配合を考えに考えて、その中から一頭だけでも期待の持てる奴が出たことは幸せなことやと思うけどね。それにこう言っちゃあ何だが、最初から結果が伴うほど甘いもんでもないことは俺も良くわかってるさ。だが、しかし馬産は基本的に運否天賦に左右されるからな。いまのご時勢どんな馬にだって過去の名馬の血が入ってる。どんなきっかけで、その血が目覚めるかなんて誰にもわからないことだろう。そこに賭けてみると言うのは、さほどおかしなことでもない」

お兄ちゃんの言葉に、桐生さんは深くうなずくと

「ま、この時点ではダービーだろうが天皇賞だろうが夢見ることは自由やからな。いずれにせよ、確率の低い宝くじであることに変わりはない」

桐生さんは顔色一つ変えずに誰にでも辛らつとわかる言葉を淡々とつむぎだす。お兄ちゃんはそれでも相変わらず笑顔だ。

「世の中には、約五百万で買われた貧弱な馬だったが、最終的に千二百億は稼いだ奴もいる。四百万程度で購入された馬だが、GIを7勝もした例だってあるじゃないか」

「前向きにも程がある」

桐生さん少々あきれ気味。

「知ってるさ。だが、思い通りの配合が出来た。これは商売抜きで『夢』を見れる零細牧場の特権だろう」

地酒のビンを取り上げて、冷酒でええか?と問いかけるお兄ちゃん。

桐生さんは、黙ってうなずくと立ち上がって、部屋を出て行き、コップを二つと私のために缶入りの果汁百%オレンジジュースを一本持ってきてくれた。

コップ二つと一升瓶を目の前に並べて置かれたお兄ちゃんは、少し酔いの回った感じの目元でふちのギリギリまでお酒を注ぎ込んだコップを桐生さんの前にゆっくりと滑らせる。自分のコップは少し余裕を持たせてんの。子供っぽいんだ。

桐生さんは中身をこぼさないように注意しながら、口をコップに近づけて一口音を立ててすすり上げる。

私は、ちょっとお下品なその所作に、あんまり不快感を抱かなかった。なんだろ?

普段はそういうのあんまり好きじゃないのに。少し浮世離れしたこの場の空気のせいかなあ。なんとなーく不思議。

なんだっけ。中国の寓話(ぐうわ)でこんなのあったよね。二人で囲碁打ってるところに、人が迷い込んでって。なんか、あんなモノトーンな感じ。

「まあな。確かに、その点は同意する」

桐生さんは、コップから口を離してつぶやく。お兄ちゃんは盤面を覗き込みながら、頭を軽くかいて言う。

「スタミナ系でまとめられた日本在来牝系で名牝の末端。期待できるのはスタミナと成長力。牡系には四代に渡り繋げられたスピード。アウトブリード、ニックスを念頭に置いた配合で体質も足元も今のところ問題はない。気性は荒いが人間には従順。最低でもオープンまで行って牧場の礎を固めてくれそう、だと期待したいが」

お兄ちゃんが言った言葉に即座に反応する桐生さん。

「それは何とも言えんだろう。競走馬は、競馬場に行ってなんぼだからな。大体、安馬がGⅠ勝って有名になるのは、奇跡に属することだとみんな理解しているからだ。ただ、短距離化してもうた種牡馬で八大競争が狙えるかね?もって千六までじゃないか」

「いけるさ。短距離限定種牡馬と思われていた馬が、中長距離の勝ち馬を出す例は枚挙に暇がない。逆もまた然りさ。それにむしろ種牡馬としては現役時代の成績が短距離と思われる種牡馬の方が産駒は中長距離で活躍する傾向にある、と俺は思う」

この瞬間、お兄ちゃんはあっさりと桐生さんに頭を下げた。

「これで、百二十六戦百二十六敗」

ああ、そういえば二人して将棋指してたんだっけか。よくややこしい話しながら指せるよね。二人ともどういう頭の構造してるのかな。

「予定通り、二十手か。経営手腕はなかなかやのに、将棋の腕はボロボロやな」

桐生さんは、棋譜を思い出しているのか、盤上を覗き込んでいる。

「最初は大駒落ちで五十手かからんと負けとったのが、今じゃ平手で二百手近くまで粘るようになっとるからな。元少年名人相手にここまで戦えるようになったことを認めてくれ」

「お前と出会ってから約八年。勝てるようになるまで、あと何年かかるかね」

玉将をつまみあげてお兄ちゃんに向けると、おどけた調子で動かして見せる。

お兄ちゃんは、ちょっと悔しそう。この人でもこういう表情することがあるんだね。ちょっと意外。

駒を一つ一つ丁寧に並べ直しながら、桐生さんは続けて言う。

「いずれにせよ、牧場の基盤固めは大体見えてきた。今後しばらく安定傾向で進めるか、拡大傾向を目指すか、近いうちに選ばにゃならん」

お兄ちゃんは、一升瓶から地酒をお互いのコップに注ぐと、少しだけ口に含んで飲み下した。

「方針は既に決まっている。フェデリコ・テシオのやったようにやるさ。俺はそこに『伝統』というスパイスを加えたいと考えている。俺らの財力的にもそれしかないだろう。それには安定した経営基盤を築きながら、少しずつ牝系を、ボトムラインを整えていくしかないだろう。途中で大物が出れば儲け物やわな」

「うちみたいな零細牧場が掲げるには少しばかり大きすぎる目標だと思わんか?ましてや、そうやって生産された産駒が、調教師に受け入れられるとも思えんし、よしんば受け入れられるとしても定着するまでに何年かかるかもわからん。それに、お前が考えているのはそれだけじゃあるまい」

そう言って、桐生さんは綺麗に並べ直した将棋盤ごと回して先手後手を入れ替えた。

「競走馬版『コロンブスの交換』」

お兄ちゃんは、口笛を軽く吹いた。

「流石、桐生源三。そこまで気が付いていたとは」

「本当は、アラブあたりでやりたいんだろう」

お兄ちゃんは下を向いて肩を震わせている。

「これだから、桐生源三との付き合いはやめられない。奥の奥まで見透かされてるとはな」

「ふん。大体がアラブがサラブレッドより能力が落ちるなんて誰が決めたっちゅう話よな」

「まあ、それでも八代続けてサラブレッドを配合すればサラブレッドと認めるって決まりが出来ただけマシだよ」

「八代やぞ。一世代最速四年で回していっても最低三十年強かかる」

「『夢』なんてのは大きいほうが良い。その中でステップを定めて一個ずつできることを達成していく事で『夢』へたどり着くんじゃないかな。すぐ達成できる『夢』より、一生を賭けるに値するものである方がいいだろうさ」

「ご高説はごもっとも。だが俺はともかく、みんなの生活がかかっていることだけは忘れるな」

刺すような眼をして桐生さんが言った言葉には、いつもとは違う重さがあった。お兄ちゃんは、いつものおどけた調子ではなく、その視線を真っ向から受け止めて、手のひらで遊ばせていたコップの中身を空けて、傍らの一升瓶を右手で掴んだ。

それを合図に桐生さんも空にしたコップをお兄ちゃんの方に差し出す。

お兄ちゃんはお互いのコップに次の一杯をギリギリまで注いだ。

二人には、これで十分なんだろうね。ホントうらやましいなあ。

「それはそうと、調教師すら滅多に尋ねてこないこの零細牧場に、どういうステップを求める気かね?」

「うん。昔勤めていたときに仲良くなった土地家屋調査士が馬主資格を取ってな。安くて走りそうな馬を探してる。お供に新進気鋭の調教師が来週来てくれることになってる。確か、アイルランド帰りの、中央初の女性調教師」

「土岐さつき。ダブルだったな。アイルランド人の父と日本人の母。一時(いっとき)専門誌を騒がせた」

「うん。しかも師匠はアイルランドでも名伯楽と称えられた人だしな。まあ将来性に賭けてみるのも悪くはないさ」

「何が将来性だ。宣伝効果にも期待してる癖に。お前はホントに悪知恵だけはよく回る」

「先祖伝来だよ。口が立つのも悪知恵も。出たとこ勝負の山師根性も」

お兄ちゃんは小さく笑ってうそぶいた。

桐生さんは更紗でできた駒袋に駒を綺麗に収めて箱に直し、カヤで出来た立派な将棋盤の上に置いて、将棋盤ごと自分の右に()けた。そして小首を傾げて戻す。

「ところで」

お兄ちゃんは、イタズラが成功した悪ガキの表情でその呼びかけに顔を上げた。桐生さんはお兄ちゃんの顔を見据えて、言葉を繋げた。

「それは、『来週』って言うより、『明後日』言うた方がえーような気がするんやが?」


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