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ほしのふるさと  作者: 中村 遼生
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8/15

第八幕 風の天佑

 今朝はぬけるような青空。

三階の天井にあつらえられた大きな窓から見える夏空はどこまでも高く澄みきっていた。天気が良いと、それだけで何か良い事がありそうな気にさせてくれるから明るい朝は大好き。

私は優しいベッドの上に起き上がって、大きく一つ伸びをして、首を左右にひねってみた。小気味良い音がする。

でも都会で見る空の色と、こっちで見る空の色ってぜんぜん違うんだね。写真なんかじゃ伝わらないよ。

 私は少しぼーっとした頭をはっきりさせるために、昨日起きた出来事を一つずつ整理してみた。

 昨日。

午前中に自宅を出て、千歳空港到着は午後を少し過ぎたくらい。お兄ちゃんの牧場に着いたのは午後3時くらいだったかなあ。それから「風の丘」で桐生さんとお話して、タケルを見に行ったんだよね。

タケルは、綺麗な仔だった。お兄ちゃんと桐生さんの夢の形、第一ステップ。

お兄ちゃんと桐生さんはあの後、遅くまで私の質問に付き合ってくれた。ぜーんぶ話を聞き終わったのは、午前を少し過ぎた位だったかなあ。サクラさんたちの歓迎会が六時から始まって九時に終わったでしょ。そっから1時間くらいお兄ちゃんたちの話にお相伴してたから、けっこー余分に時間使わせちゃったね。ごめんねお兄ちゃん。

でもおかげでだいぶ勉強できたよ。競走馬生産には血統が大事で、しかも母系が重要なんだね。たとえばタケルから見て、お母さんのお母さんのお母さんのお母さんのって追いかけていくのがボトムライン。このボトムラインにお兄ちゃんは日本でも伝統のある系統を選んだ。お兄ちゃんがいまだに日本で一番万能と信じる競走馬の血統でまとめた牝馬を見つけた。それを日本でも屈指のスピードを誇る馬と結婚させたんだね。

結婚?

私もどういうことをお兄ちゃんがしてるのかわかってる。わかってるけど、まだあんまり素直に受け入れられない。桐生さんが、「サラブレッドは経済動物だからな」って言ってた意味が、なんとなくわかるけど。

フェデリコ・テシオは、十九世紀末から二十世紀半ばまで活躍した生産者兼馬主。彼の生産した色んな名馬が、今の活躍しているサラブレッド達の祖先になっている。

テシオは馬産に関していろんな著作を残してる。で、その基本は、アウトブリード。父と母の間、五代前までに共通の先祖がいないことを重視する。牝系は自ら育て、種牡馬は外から積極的に外部から導入し、常に新しい血を維持する。って事が書いてあるらしい。お兄ちゃんと桐生さんはそれを忠実に守って、できることを一つずつ着実に実現していくつもりだって、そう言ってた。

まあ、最後の方は、二人ともいい加減お酒回ってたみたいだけどね。様子を思い出すと、ちょっと笑っちゃうくらい。

 あれ?私どうやって部屋まで帰ってきたんだろ。いつの間にか寝ちゃったのかな。

ベッドの上で大きく伸びをして、飛び降りると、荷物の中から化粧セットを取り出して、私は手早く薄化粧。できるだけ動きやすい格好に着替えて、リズムよく階段を下りていく。

あっちゃあ、食事もう終わってるね。

あ、でも楓さんがメモ残してくれてる。

なんだろ。

「昨日は社長に付き合って遅くまでご苦労様。朝ごはん準備しておきます。暖めて食べてください。若いんだからもう少し太った方がいいよ」

かわいらしい文字だなあ。ホント実年齢に合わない若々しい感じ。

楓さんの心遣いに甘えてから、洗い物、お片づけまでしっかりして事務所に顔を出した。

「おはようございます」

元気一杯に挨拶する。

事務所に居たサクラさん、楓さんがおはようと明るく返事をしてくれた。

「気持ちいいねえ、若い娘さんの挨拶は。こっちまで元気になるよ」

「あら、楓さん。私もまだ十分若いつもりですけど」と微笑みながらサクラさん。

「サクラちゃんも若いけどね。十代にはかなわないよ」

そんなやり取りをしてると、奥の扉が開いてお兄ちゃんがゆっくりと入ってきた。

「おはよう、彩夏」

「おはよう、お兄ちゃん」

「今日は乗馬に行くんだってね。先方には挨拶しておいたから、陽子ちゃんに指導してもらうといいよ。彼女は大学の馬術部出身だからね。いま放牧に出ているはずだから、厩舎事務所で待ってるといい」

あれ。私いつの間に今日乗馬に行くことになってるんですか?あ、サクラさんが声をひそめて笑ってる。犯人はサクラさんだな。

「じゃあ、彩夏。今日はお客さんをお迎えする準備とか、留守中の業務整理とかあって、ゆっくり相手できないけれど、しっかり楽しんでおいで」

お兄ちゃんは大きな背中を見せて、また奥の部屋に戻っていった。

いいのかなあ、一人だけ別の部屋で仕事なんかして。

「社長はね、集中して仕事するときに音楽を大音量でかけながら仕事する癖があってね。他の人の迷惑になるからって、閉じこもって仕事するのさ。あれで一日で一週間分の仕事を片付けちゃうからねえ」

きょとんとした私の表情を見て、楓さんが北海道弁のイントネーションで教えてくれた。

「ゴメンね、彩夏ちゃん。今朝、社長に昨日安着会でこんな話が出たんですよ、って話したら、あの人、『うん。それはいいね』ってその場で決めちゃって、即手配しちゃったんだ」

「『即断即決即実行』は社長のモットーだからねえ。ま、たまに早とちりしてえらいことにもなるけど、そりゃご愛嬌だね」

「もうそろそろ陽子ちゃんが朝の調教から帰ってくるわね。厩舎事務所の方へ行ってみたら。今週は久しぶりに社長がこっちに詰めてるから、場長があっちにいるし」

あらかじめ用意してあった牧場の地図を私に手渡すとサクラさんは優しく微笑んだ。その向こうでは楓さんが、がんばっといでと言わんばかりに手を振ってる。「有無を言わせぬ呼吸技」って言うのはこういうのを言うんだね。私は昨日のお礼もそこそこに、厩舎の方へ向かう。空の真ん中よりはかなり手前に位置する太陽の陽気と草を鳴らして渡る風が心地よい。この雰囲気、音に合わせて何か歌を奏でられないかなあ。なんて考えながら、厩舎へと向かう。 遠く青い空と緑の大地の間に走る土色の道に馬を連れた人の姿を見つけた私は、大きく手を振ってみた。向こうも私に気がついてくれたみたい。小さく手元で手を振ってくれているように見える。私は小走りで厩舎事務所へ向かい、階段を静かに駆け上がると、扉に向かいノックを二度繰り返す。

 中から、「どうぞ」と聞き覚えのある声がした。思ったより重い扉をそれなりの力を込めて引いて開ける。

「おはようございます。桐生さん」

入り口に背中を向けてスポーツ新聞を広げていた桐生さんはわざわざ丁寧に新聞を折りたたんで机の上に置くと、椅子を回してこちらに振り向き直って、「おはよう」と優しい声音で言ってくれた。今日の桐生さんは、背中に「夢限牧場」と墨書した薄い青のつなぎを着てる、牧場の作業着なんだろうね。しかし、ホントに礼儀正しい人だなあ。人徳っていうのかな、自分に自信を持っている人、自分を疑わない人って言うのはみんな最終的にこんな感じになるのかもしれないね。

「昨日は遅くまでご苦労様。良くわからない話だったろう?」

「正直、そうですね。でも、お兄ちゃんと桐生さんが、何を夢見てここに来て、何をやろうとしているのか、その内の少しくらいはわかったと思います」

「そうか。そう思ってくれたのならありがたいな。お茶、コーヒー、紅茶、どれがいい?」

私は少し考えて、紅茶をお願いします。と言った。

「いい選択だね。この辺の湧き水は少し硬めなんで、紅茶には向いている。アールグレイだけどかまわないかな」

「あ、はい」

桐生さんは、私にソファーに腰掛けるように進めると、奥の方へ行って、サーバ式のティーセットを持ってきて、紅茶の準備をする。えらく本式だね。

「結局、藤谷のアホは遅刻したよ。まったく」

そういう桐生さんは少し笑っているように見えた。

「でも桐生さん、あんまり怒ってないみたいですね」

そう言った私の言葉に、一瞬動きを止めて

「そうだね。僕とあいつの若い頃は、もっと酷かった気がするしねえ。人間は成長するものだから、長い目で見てやるのが一番だしね。モノづくりは人づくり。何事も、時間がかかることを覚悟しないとね」

ま、それまで僕たちが踏ん張れるかどうかも大きいけど。

と小さく続けたのを私は聞き逃さなかった。人の人生を預かるってことだもんね。なかなかプレッシャー大きいよねえ、それは。

ちょうど茶葉も頃良く蒸れて、桐生さんは二つのティーカップに順番に味、色が均等になるように紅茶を注ぐ。午前中のティータイム。雰囲気も含めてかな、心地よい雰囲気が、厩舎事務所を包む。

この穏やかな空気がいつも感じられれば、きっとみんな幸せに暮らしていけるんだろうね。

「人生、+と-があって、何かを得た人は何かを失っている。何もかもをすべて手に入れるってのはきっと誰にもできないことなんだろうねえ。まあ何もかもを全て手に入れることが『幸せ』だとは限らないが」

私の心を見透かすように、桐生さんは窓の向こうを見やりながら、独り言をつぶやく。

そうかなあ、そうかもしれないなあ。でも私はまだ子供だから、何もかもを手に入れることができると信じたいな。かわいらしいカップに淹れてくれた紅茶を一口飲んで、テーブルに置く。

「そういえば今日は、陽子ちゃんと乗馬に行くんだって?」

はい、いつの間にかそう決まってました。心の中でそう言って、私は小さくうなずいた。

「サクラさんから話を聞いたあいつが朝から隣のホースランドさんにお願いして、用意してくれてたみたいだよ。もうすぐ朝の調教から帰ってくるから、帰ってきたら一緒に出かけるといい」

「はい。乗馬、初めてなんで楽しみです」

「うん、僕もやったことはないからねえ。結構筋肉使うらしいからがんばりなさい」

「あれ?失礼ですけど、桐生さん『牧場長』なのに乗馬、しないんですか?」

桐生さんは微笑みながら答えてくれた。

「僕は場長とは言っても配合研究が主な仕事だからね。場長としての主な業務は、高山の親父さんがこなしてくれてる」

あっさり言った。

「あと安全装置か。あいつは自分にできることは誰にでもできると思っている上に、努力さえすれば自分にできないことはないって思い込んでる奴だからなあ」

「お兄ちゃんなら、なんでもできるんじゃないですか?」

「人間、そう都合よくはできていないよ。生涯かけて一芸に秀でるのが精一杯さ。万能の天才と呼ばれたダヴィンチや平賀源内、司馬江漢だって、ね」

「万能の天才なら、万能なんじゃないんですか?」

私は、正直な感想なぶつけてみた。

「万能というのはあくまで後世の評価であって、事実の表面をなぞっているだけに過ぎない。本質は更に奥深くにあるんじゃないかな。ダヴィンチを例に取ると彼が実績として残しているのは主として絵画の方面であって、それ以外は全て考察にしか過ぎない。然るに彼を評するには、残された事実に基づいて『美術の天才』というのが相応しいと思う」

はあ。この人もやっぱりお兄ちゃんの親友だけあって同類、かな。

「あのー。桐生さん」

「ん」

「お兄ちゃんとはいつもそういう話も?」

「そうさなあ。あいつと出会ったのは、僕が二十歳の春だった。僕の居た歴史研究サークルの唯一の新入生があいつだった。生意気な奴だったよ。小手調べに議論を吹っかけたら、堂々渡り合いになってねえ。確かその時のネタは『ナポレオン戦争の功罪』だったかな。それから数限りなく議論を繰り返してきて、いまじゃあ酒のつまみに議論だね」

「それで結論を出してどうするんですか?」

半ばあきれつつ聞いてみた。

「別に結論は求めていないよ。議論を楽しんでいるだけで」

桐生さんは飲み終えたカップをお皿の上に優しく置きながら、真顔で言った。

今度は完全にあきれた。世の中には色んな人も居るもんだなあ。

「お待たせ」

「は、はひっ」

陽子さんの声が突然聞こえたから両手で抱えてたカップが浮き上がるくらい驚いた。良かった、中身がほとんど入ってなくて。完全に気配を消して、しかもドアを開ける音さえさせずに入ってくるんだもん。

「お疲れ様。今日はどうだった?」

「一人だけ、ちょっと後脚引きずってるから連れて帰ってきた」

「どの仔?」

「ヌト」

「ヌトかあ。あいつ体質弱いからなあ。代々屈腱炎持ちの家系だし。ま、それだけ競争能力が高いかもしれないと言えるか。念のため、ダイブッさんに来てもらっておこうか」

「その方がいい」

陽子さんは癖なんだろう、文章を単語毎に切って、はっきりと話す。ただ、敬語とかはあんまり得意じゃないのか、常に相手と対等の目線で話をする。それだけ公平な人、とも言えるんだろうけど、いままで損して来たことの方が多いだろうなあ。

「じゃあ、ダイブッさんは僕が呼んでおくから、彩夏ちゃんをホースランドさんへ連れて行ってあげて。社長が今日一日で乗れるようにしてくれって言ってたから」

桐生さんは苦笑いを浮かべながら言う。陽子さんは笑顔でうなずいた。これは何かイヤな予感がするなあ。

「場長、車で行っても良い?」

「車は、いま高山の親父さんが使ってるんだ。申し訳ないけど、歩いて行ってくれないか」

「わかった」

陽子さんは右手で扉を開けて、半開きにした体をこちらに向けた。

「じゃあ、行こう。彩夏ちゃん」

 桐生さんと同じつなぎの作業服を腰の所でくくった陽子さんの姿は、太陽の光を浴びて、格好良かった。

「陽子さん」

ホースランドさんへ向かう小高い岡への道を歩いている間に陽子さんに色々聞いてみることにしたんだ。だってなんか一番興味深いんだもん。まずは手始めに、近場の話題からはじめよう。少し先を行く陽子さんは、初めて気付いたのか歩くペースを少し落として、私の横にまで来てくれて、目を半月の形にして「なに」と穏やかに言った。

「だいぶっさんって、何ですか?」

「だいぶつさんは、獣医。ホントは大仏って書いてオサラギって言うんだけど、見た目が大仏そっくりなんで、みんなダイブツさんて呼んでる」

空間に指で漢字を書きながら教えてくれる。

「じゃあ、ヌトは?」

「ヌトは、うちでお預かりしてる馬の育成名。古代エジプトの星空の神様の名前」

「へえ。ロマンチックな名前ですね。誰の趣味ですか?」

「うちに居る仔はほとんど社長の趣味。星に関連する名前が多い」

「星、ですか?」

「名前だけでも、輝かせてやりたいからって、社長言ってた」

「名前だけでも、ですか」

お兄ちゃんらしいなあ。競馬場に行って輝くことがなくても、ココで輝かせてやりたいってことかな。

「私たち、お預かりする仔たちは、人で言うと小学生から中学生くらいまでの間。この期間の教育がしっかりしていれば、例え競馬場で結果を残せなくても馬のためには色々と幸せになることがある。社長、そのことを良くわかってるから育成、馴致に力を入れてる」

陽子さんは、黙って太陽の少し下の方を指差す。ああ、ココからは牧場の全景が見えるんだ。改めて見ると広いなあ。

「ここのあるもの、ほとんど社長と場長の手作り。法律に触れるものは外部委託したけど、坂路とウォーキングマシン、防犯装置。他にも必要があれば作ってる」

「え?手作り、ですか」

「うちの牧場、貧乏。でも馬のためにはいい環境で教育をしないといけない。なんでもそうだけど、費用で一番かかるのは人件費。外注に出すとそこに利益が乗るから余計高くなる。だから、社長と場長二人で作った。二人とも理工系。必要な資格は大体持ってる」

そっか。お兄ちゃん、昔よく言ってたことを実践したんだね。「やりたいことがあるなら、やればいい。自分のできる範囲でやればいい。なんだかんだ理由をつけてやらないのは、やりたくないのと同じだよ」

「あの、陽子さん」

他にも聞きたいことがあったんだけど、陽子さんがふと立ち止まり、まっすぐ伸ばした指先に、アーチ型をした看板があった。「続きは帰りね」と笑顔を見せて陽子さんが言ってくれたのが嬉しかった。もう三十分も歩いたんだね。早かったなあ。

「ホースランドクラブ」

看板にはそう書いてあった。ここは、引退した競走馬を乗馬に転用して、一般に開放し、馬事文化の普及を図る施設らしい。サクラさんが出る前に教えてくれた。できるだけ温厚な馬ばかり集めているからそんなに心配しなくて大丈夫よって言ってくれた。

その時は、それで安心したんだけど、今はなんか「ナマコ」をはじめて食べた人の心境だよ。もう胸の鼓動が東南アジア系の民族音楽みたいな早いリズムを刻んでる。

アーチの下には、少し年配に見える方が一人立っていた。

近づくと、総白髪だから見た目より老けて見えるけど、肌の張りや表情からすると、多分まだ五十歳を少し過ぎたくらいかな。その銀髪を綺麗にオールバックにまとめて、古い映画に出てくるみたいなイギリス式の三つ揃いスーツをまとっている。

「お久しぶりです。春日様」

先方の呼びかけに陽子さんは小さく会釈を返した。

「貴女が小鳥遊彩夏様ですね。村上様から電話を頂いております。あの方のお願いは快いですね。わたしはこの牧場で案内役を勤めさせていただいております小菅と申します。本日はゆっくり楽しんでいってください。初めての方にする話ではございませんが、このところの不況でめっきり私どものクラブもお客様が減っておりましてね。お陰で上級コースでしかご提供できないような優駿をご用意できますので、ご存分に乗馬を楽しんで頂けると幸いです」

ではどうぞ、こちらにと手を差し伸べてアーチの向こうへと案内してくれた。

「あの人はここの総支配人」

陽子さんは私にそっと耳打ちしてくれる。

へえ。お兄ちゃん総支配人にわざわざ連絡してくれたんだ。ありがとう。でもなんかちょっと職権濫用な気がするなあ。

「こちらのホースランドクラブでは二十三頭の馬を飼育しておりまして、うち三頭がSランク、以下五頭ずつA,B,Cの三ランクに分類されております。残りの五頭は調教中と言いますか、ま、研修中でございます。そもそもこちらのクラブは、馬事文化の普及、育成を目的として開設されたもので特に引退競走馬、種牡馬の受け入れに力を入れている所が大きな特徴です」

あれ、ということは。私は小さく手を上げて、前を行く小菅さんに質問の声を上げた。

「あのー」

小菅さんは、何か、という表情で振り返って次の言葉を待ってくれた。

「こういうところに受け入れてもらえないお馬さんたちはどうなるんですか?」

きょとんとした小菅さん。でもなんか次の言葉が言いづらそう。深呼吸を二回くらい出来る時間が過ぎて、私の隣で寂しげな声が言葉を紡ぎだした。

「廃用」

「えっ」

「年間生産される競走馬は約八千頭。その内、繁殖として無事に牧場に帰ってこれるのは、一%にも満たない。じゃあ残り九十九%はどこに行くか。こういう施設に引き取られたり、大学なんかに研究用として渡るのがもう少し。残りは私にもはっきりとわからない」

「信じたくない数字、ですね」

数字って残酷。数で表現すると、それほどにも思わないけれど、競走馬を生産する行為そのものが、年間八千頭弱の廃用を生んでいるのだとしたら、私は「競馬」というスポーツ自体を許せなくなっちゃうかもしれない。

「でもこれが現実。競走馬の世界で生き抜くことはそれ自体が奇跡だと言っても良いと思う」

「その点、村上様は他の牧場より一歩も二歩も先を進んでおりますな」

少し悲しい気持ちに傾いた私を半分だけ救ってくれたのは、小菅さんの言葉だった。

「日本で廃用の烙印を押されかけた種牡馬を競馬後進国に輸出し、貸し出しする事業を展開したり、ある程度の実績を残した競走馬をこのようにして保護する事業を進めたり、とにかく可能な限り生き残らせて、どんな形でもいいから血統を後世に残そうとしていらっしゃる。そもそも日本競馬は、ヨーロッパ、アメリカ等から馬を集めることから始まりました。今日本は幸いにして、超一流の血統の精華にあります。その精華を更に後進国に分けて全世界的に競馬を発展させようという村上様の試みはなかなかできることではありません」

陽子さんもうなずいてるから、今までは九十九%は良くわからないことになってたけど、これからはそうじゃなくするようにお兄ちゃんが頑張っている、ってことだね。そっか。やっぱり彩夏の大好きなお兄ちゃんだ。

「さて、お二人とも乗馬服はお持ちではないでしょう。こちらでお着替え下さい。その間に馬の方を用意させていただきます。春日様は」

着替え室に私たちをいざないながら言う小菅さん。

「彩夏ちゃんの分をお願いします」

「承知しました。では、後ほど」

着替えながらちょっと悲しい気持ちになってた。

その様子を入り口近くで見てた陽子さんが

「ここは貸し出し専用の乗馬セットの部屋。自分のサイズに合うのを探して着るの」

「ねえ、陽子さん」

「なに」

「サラブレッドって残酷な生き物ですよね」

「そう?」

「そうって」

「だって牛や豚、羊、魚、みんな食卓に並ぶ。食卓に並んだものを見て、残酷って思う?犬、猫なんて年間何十万頭も保健所で処分されてる」

私は言葉に詰まった。

確かにそうだ。私はそんなこと思いもしなかった。なのにサラブレッドに対してのみ、そんな風に思うのはおかしい。桐生さんが言うサラブレッドは経済動物って言うのは、この辺のことを指してのことなんだろう。

「私たちだって辛くない訳じゃない。でも、引退した仔たちを全て受け入れるのは物理的にも経済的にも不可能。とすると、やっぱりそういう仕組みは必要になる。だから社長は一般に乗馬に不向きって言われてるサラブレッドができるだけこういった施設に受け入れやすくなるように、初期教育にしっかり取り組む」

陽子さんの声を背中で聞きながら、着替え終わった私。仕方のないことなんだろうけれど、かわいそうだなという想いが拭えなかった。

陽子さんはそんな私を見て、後ろから軽く抱きしめてくれた。

「だからね、彩夏ちゃん。こうして帰ってきた仔たちと精一杯楽しむのは、私たち馬産に関わるものたちの義務。偽善かもしれないけれど、それが命に関わる仕事をする責任」

「はい」

振り返ると、薄く涙を浮かべた瞳で見つめた陽子さんの笑顔があった。きっと陽子さんも同じようなことを想い、苦しんだことがあるんだろう。

「さ。着替えよう」

その声に、迷いや憂いはなかった。

 ねえ、お兄ちゃん。

命に値段をつけること、私はまだ納得いかないんだ。値段を付けられるような命なら最初から生まれてこなければいいとさえも思う。でも、望む人がいて、生まれてくる命なんだよね。その命に最後まで責任を持とうと努力するお兄ちゃんの考え方と行動はすっごく理解できるよ。どうしてみんなそんな風に考えられないんだろう。風は、優しい風だけじゃないんだね。でも、いつかきっと木枯らしから春一番に変わる季節(とき)が来るよね。お兄ちゃん。私はそう信じてるよ。

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