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ほしのふるさと  作者: 中村 遼生
2/15

第二幕 風の吹く場所

高校に入って二回目の夏休み。

久しぶりに家族みんなで夕食を取っていると、お母さんが一枚の絵葉書を差し出してくれた。

「そっか。あれからもう1年もたつんだ」

絵葉書の表と裏をくるくる見ながら、ため息交じりで、つぶやいてみる。

「彩夏、お返事考えなさいね」お母さんが笑顔で言う。

「えー、だってメールがあるんだしさー。この時代にさー。わざわざ、手で書かなくてもー」

「藤哉は、時間がかかっても、きっとその方を喜ぶと思うよ」

お父さんの言葉が決め手になって、手紙を書くことになりました。

でも、私もわかってたんだ。本当は。

「んー。なんて書こうかなあ」

自分の部屋に戻ってから、地元の夜景を移した絵葉書を前にして考えてみたけど、いい内容が思いつかない。

私の近況、学校とか、塾とか、バイトとか。あーそうそう、私、バンドでボーカル始めたんだ。そのこと書いたらお兄ちゃんなんて思うかなあ。

そんなことを考えている間に、ふと大好きだったお兄ちゃんの笑顔が頭に浮かんできた。

お兄ちゃんが何してるのか、なんてこと最近ちっとも考えてなかったから、少し申し訳なくなっちゃった。ちょっと言い訳くさいけれど、何処にいても、何をしてても絶対お兄ちゃんはお兄ちゃんのままだって、そう思ってた。だから、安心しちゃってたって言うのもある。でもホントはそうして、いまの自分を納得させようとしてただけなのかもしれないなあ。

「元気です。藤哉」

北海道の雄大な自然を写した絵葉書の裏には、たった一行そう書かれていた。

お兄ちゃんは、こんな所で暮らしてるんだ。

そんなことを考えてると、無性に会いたくなった。

「彩夏も元気です。お兄ちゃんに会いたいです」

細々と書くより、そのほうがお兄ちゃんは喜んでくれる。

家のすぐ近くのポストから一行の言葉とたくさんの思いを乗せて、お兄ちゃんへ送った。それからしばらくして、またお兄ちゃんから返事が届いた。

それを見た私は、思わずふきだしそうになっちゃった。一言「待ってるよ」だって。さっすが、お兄ちゃん。よくわかってくれてる。

お父さんが早く帰って来た日に、お兄ちゃんの葉書を見せて、思いっきり可愛い子ぶって聞いてみた。

「お父さん、行ってもいい?」

お父さんは、お兄ちゃんから届いた葉書をいつか私がしたように、裏表繰り返して眺めた後、私の顔を見つめて言った。

「止めても聞かないだろう?」

えへへ、と照れ笑いする私。

「気分転換にいいんじゃない?」

台所から、出てきたお母さんが、笑顔でそう言ってくれた。

そしたら、お父さんがその場でお兄ちゃんに連絡してくれた。

 久しぶりにお兄ちゃんと話すのに、「元気か?」と「葉書、見せてもらったよ。よろしくな」だけで、電話切っちゃうんだもん。代わってくれないし。私だったら、いっぱいお話するのに・・・あ、だからお父さん自分で電話したのかな。

「千歳空港まで迎えに行くから、日が決まったら連絡しておいでだってさ。元気だって言ってたよ」

 電話を切ってからいうお父さんは、少し嬉しそうだった。

「じゃあ今度は私が電話するね!」

「あんまり迷惑にならないようにするんだよ」

お父さんは、少し困ったような笑顔でそう言ってくれた。

やっぱり、私の思ったとおりだったね。

お父さん、だから好き。

お父さんは、小躍りしそうな私の様子を見ながら、教えてくれた。

「藤哉は、北海道のなまりが少し混じってたよ。まったく、順応性の高い奴だ」

こうして、私は学校の先生たちの言う大事な大事な高校二年の夏休みに、北海道に旅立つ事になった。

 どうやって行こうか返事が来てから1週間くらい色々と調べてみたんだけど、パックのツアーは、「女子高生一人旅」向きの内容じゃあないんだよね。でも普通にチケットとって行こうとすると折角のアルバイトで貯めたお金が半分以上なくなっちゃう。まあ、使うアテもないから良いんだけど。なんか通帳の残高が半減というのは、見た目のダメージが大きいよ。

居間の机の上に色んな会社のパンフレット並べて唸っていたら、仕事から帰ってきたお父さんが、私の視界に夕焼けでほのかにオレンジに染まる航空会社の封筒を滑り込ませてくれた。

「プレゼントだよ」

中を開けてみると、北海道への往復チケットだった。

「どうしたの、お父さん。これ」

「ん。マイレージが大分貯まっていてね」ネクタイを緩めながらお父さんが言うとお母さんが苦情の声を上げる。

「貴方はまたそうやって彩夏を甘やかす」

「良いじゃないか。滅多にないことだし」少し苦笑いするお父さん。

こうして小鳥遊家は今日も平和なのです。

「日付はオープンだから、彩夏から藤哉に電話して都合を聞いてから日程を決めるんだよ」

「うん」

その日、私は久しぶりにお兄ちゃんとお話した。

「お兄ちゃん?」

「彩夏かい」

「うん。久しぶりだね」

「大きくなったんだろうねえ」

「やだなあ。もう成長期は終わってるよ。2~3年くらいでそんなに変わらないよ」

「10代の2年は大人の10年くらいかもしれないよ」

うーん。流石お兄ちゃん。深いなあ、言うことが。

「さて、いつ来るのかな?」

「お兄ちゃんのお仕事の都合はどう?」

「うん。少なくとも来週1週間は日本に居るよ」

「に、日本に。てことは今どこに居るの」

「トルコ共和国のイスタンブール市郊外」

「え、どこ。それ」

「アジアとヨーロッパを繋ぐ街さ。今はねえ、31日の午後14時頃。日本との時差は大体7時間くらいかな」

ふわあ、お兄ちゃん昔言ってたみたいにホントに世界に出たんだね。すごいなあ。それもトルコって。イギリスやフランス、アメリカとかじゃない辺りがお兄ちゃんらしいや。

「じゃあお兄ちゃんの帰ってくる翌日に行ってもいい?」

「彩夏に対して閉ざす扉はないよ。詳しい時間は決まった?」

「ううん、まだ決めてないんだ」

「じゃあ決まったらまた改めて電話をくれないかな。もし繋がらなかったら、留守電に残してくれたら、それで良いから。会えるのを楽しみにしてるよ」

「うん。お兄ちゃん。私も」

「じゃあね、彩夏」

「またね、お兄ちゃん」

ふわぁ。なんか胸の鼓動が倍くらいのリズムを刻んだような気がするよ。久しぶりに話すお兄ちゃんは、変わってないような変わったような、なんか不思議な感覚。でも、なんか安心した。

その日の夜、いつになくわくわくして、はしゃぎながら旅の準備をしている私がいた。

初めての一人旅。私は、ホントに楽しみなんだ。

 お兄ちゃんにまた会える。初めて北海道に行ける。何があるだろう。何が見えるだろう、聞こえるだろう。私の中で新しい音を奏でることができるかな。

 私が北海道に旅立つ日は、お兄ちゃんの帰国から1日空けた明後日でお願いした。滞在期間は未定だけど、夏休みの終わりくらいまでいたいなあ。そしたら、優秀な家庭教師の元、確実に宿題は片付くし、できるだけ長くお兄ちゃんのところ居れるし、私としては良いこと尽くめなんだ。あ、でもお兄ちゃんの都合もあるよね。

お父さんとお母さんも久しぶりに新婚気分で楽しめるんじゃないかな。バイト先の店長もバンドのメンバーも快く送り出してくれたし。後は出発を待つだけだね。

飛行機って早いのは早いんだけど、空港まで行く時間と空港で待つ時間と飛行機の中で待つ時間とか入れると陸路とあんまり変わんないんだね。  

旅立つの日の朝。飛行機の離陸時間は午後なんだけど朝早くから眠たい目をこすって車の後部座席に荷物を枕に眠気と戦う私が居た。

「お父さん、よく毎回出張のときこんなの我慢できるねえ」

「慣れだね、慣れ」

お父さんは手馴れた様子で狭い道を車ですり抜けてゆく。お母さんは朝早いというのにお化粧ばっちり。いつものように両膝のところにお父さんがイタリアで購入してきた職人さん一点モノのハンドバックを大事そうに抱えている。

「彩夏。お父さんたちが付いていけるのは、ロビーまでだからそこから先は道に迷わないように行くんだよ」

「大丈夫だよ。案内板あるんでしょ?」

「貴女は方向音痴なんだから念には念を入れて慎重に行動するんですよ」

「はーい。わかってます。GPS携帯は常に持ち歩きます」

「GPSは正確でも、使う人が方向音痴だとどうなるんだろう」

「貴方!」

お父さんとお母さんのそのやり取りを耳にしながら私はいつの間にか眠りに落ちていた。次に目を覚ましたときはもう空港の駐車場だった。

駐車場から歩いて20分。チェックインロビーでチェックインを済まし、スーツケースを預けた。その後、家族で空港のレストランで食事。飛び立つ何機もの飛行機を見送りながら、私は呟いた。

「あの人たちは、どこから来て、どこへ行くんだろうねえ。あのジャンボ機の窓の一つ一つにドラマが詰まってるんだね」

「彩夏に詩人としての才能もあるとは知らなかった」お父さんが、ヒレステーキの最後の一切れを飲み込んでナプキンで口元を拭きながら言った。

「詩人って言うほどの表現じゃないよ。恥ずかしいなあ」

「日常の何気ない出来事を取り上げて、その人の人生を想像できる人を詩人と言うんだよ。覚えておくといいね」お父さんは微笑んだ。

「貴方。もう少しで搭乗時間ですよ」

「そうか、そろそろ行かないといけないね」

私たちが発着ロビーに着いたとき、もう搭乗手続きは始まっていた。私のチケットはちょっと特別なものらしく優先搭乗の列に並ぶことになった。お父さんとお母さんはゲートの直前まで私の横に着いてきてくれた。私まで、後4~5人まで来たとき、お父さんは、笑顔で言った。

「帰りたくなくなったら、いつでも言いなさい」

「やだなぁ、父さん。ちゃんと帰ってくるよ。幾つだと思ってるの?」

父さんはちょっと真面目な顔をして、私に家から大事に持って来てた紙包みを渡した。

「藤哉に会ったら、これを渡して。あいつ、これが好きだったから」と中をのぞくと一本の高級そうなお酒をが入っていた。私は父さんたちの笑顔を後にして、ゲートをくぐった。

初めてのことが一杯だね。お父さんたちとこうやって離れるのも、中学校の修学旅行以来のことだよ。

お父さんたち、どんな話してるんだろう?あんまり心配してないといいんだけどね。

飛行機へと続く通路の途中で振り返ってみると、お父さんとお母さん、笑顔で話してるの。

なーんだ、つまんない。

でも、どんな話してるんだろうね。久しぶりに夫婦水入らず、楽しく過ごしてくれるといいな。

こっちを向いたお父さんとお母さんに向かって、元気良く大きく手を振って、お兄ちゃんへと続く道を大きく踏み出したんだ。

飛行機の座席は、流石優先搭乗席だけあって、小柄な私には少し広い感じ。ゆったりとした空の旅になりそうな気がする。CAさんの笑顔も二重丸の上にお花をつけたくなるくらいに綺麗だし、これだけで結構快適なのかもしれない。みんなすっごく綺麗。私も大人になったらこういう風になれるのかなあ。

お兄ちゃんの所に行こうと思ったのは、決して小さい頃良く遊んでもらったからとか、受験勉強を見てもらってたからとかだけじゃない。ちょっとこの頃むしゃくしゃしてたからって言う方が、むしろ大きいかな。

学校は、勉強しろって壊れたオルゴールみたいに私の気持ちと離れた音の繰り返し。気分転換にはじめたバイトでちょっと気になる男の人に出会ったけど、彼女がいる。

友達に誘われてバンドに入ってみたけれど、なんだか胸のもやもやは収まらない。唄ってるときはすっごく気分良いんだけどね。でも、終るとやっぱりもやもやしてるの。

そんなこんなで少し気分転換がしたかった時にお兄ちゃんから手紙が来た。アルバイトのお金も入ったばっかりだったし、別に使うアテもなかったから、私はお兄ちゃんに会いに行くことにしたんだと思う。ただ、オンシーズンの北海道往復は予想以上に高かったのは驚いたよ。正直、助かりました。お父さん、ホントありがとう。

でもそんな曖昧な理由、お父さんやお母さんに言っても笑われそうだし、それに何となくお兄ちゃんなら、私のこと、理解してくれそうに思ったから。

私はきっと、教えて欲しかったんだと思う。

うまくいえないけれど。色んなことを。とにかく私は一度自分をリセットしたかった。今の私を包む何もかもから。いつの時代も旅に出る人の中にはこんな風に思う人も居たのかな。

「当機は、本州を離れ、間もなく北海道へと入ります。着陸態勢に入りますので、シートベルトをお締め下さい」

機内放送がもうすぐ千歳空港につくことを知らせてくれる。

お兄ちゃん。久しぶりに会うお兄ちゃん。私のお兄ちゃん。

着陸態勢に入った飛行機の窓から、北の大地を初めて眺めてみる。最初に空を飛びたいと思った人は誰なんだろう。その人はこんな風景を想像してたのかな。

 北海道。

江戸時代以前は「蝦夷地」と言われ、ほとんどが天領扱い。わずかに松前藩とアイヌの交易が行われていた程度の土地。それが明治維新を迎え、大規模な殖産興業が行われるようになった。お兄ちゃんのご先祖もその頃に北海道に渡ったんだって昔聞いたことがある。

なんでもお兄ちゃんのご先祖の一族は北陸の方でお庄屋さんだったんだって。その後一族で藩主の命令を受けて屯田兵として明治時代に北海道に渡って、その一族の次男か三男が、直接のご先祖らしいの。

その人を初代と数えると、初代が北海道で屯田の(かたわ)ら漁師を始めて生活の基盤を作って、二代目がそれを発展させ、数えて三代目、お兄ちゃんからするとひいじいちゃんにあたる人が「にしん漁」で一山当てて財産を築いて網元になった。ココまでは順調だったんだけど、やっぱりお約束どおりしっかりするのは三代目までなんだね。鎌倉幕府とか、室町幕府も有名なのは三代目までだしね。

比較対象が大きすぎるかな。

お兄ちゃんのお爺ちゃんには失礼だけど、四代目が財産を食いつぶして、五代目のおじさんが昭和三十年代に流行った親不孝列車で家出した。栄光と没落の歴史だって笑いながら言ってたなあ。よく調べたもんだよね。いくら歴史好きでもここまで調べようと思うかな。

ここまでするほど家とか家系とかに愛着のある人だから、おじさん、おばさんを置いて北海道に渡っちゃったって言うのが、私にはちょっと信じられなかった。

お兄ちゃん、確かに昔から年取ったら、田舎に引っ込みたいな、なんてこと言ってたけど、少し早すぎると私は思うよ。

お兄ちゃん。

きっと、お兄ちゃんみたいな人がたくさん居たら。

ううん。

お兄ちゃんだけでもいいから、私のそばにいてくれたら。

飛行機から私の荷物が出てくるのを待つ間、私の知ってる限りの話を頭の中で整理してたら、目の前を荷物がレーンを通り過ぎていった。2週目に差し掛かった赤いスーツケースを今度こそ逃がさずに両手で拾い上げると、空港ロビーに出た。

「どこかなぁ…?」

千歳空港に、お兄ちゃんが迎えに来てくれてるって話だったけど、ちっとも見当たらない。私は、そんなに高くもない背を目一杯伸ばして、あたりをずっと見渡した。

 人ごみの中でお兄ちゃんを探すのはそんなに難しいことじゃなかった。お兄ちゃんは、身長もモデル並みに高いし、剣道してたから結構筋肉質でがっしりとした体つきだし、なんというか「「雰囲気」のある人で、いる場所が、なんとなくわかっちゃう。例え姿が見えなくてもね。

自分では、こういう風に言ってたっけ。

「団体写真に、写っているのはなかなか見つからないけれど、いなければすぐにわかるんだ」って。

そうでなかったとしてもきっと、私にはすぐにわかるよ。だって、私はお兄ちゃんが必要だもの。それはきっと、私にとってのお兄ちゃんは、生きるために絶対必要な、時々は補給しないといけないほんの少しの元素みたいなものだから。

二回くらい辺りを見回した後、出入り口の方から、黒い大きな塊が人ごみを割って、ゆっくり堂々と歩いてくるのが視界に入った。

私にはそれが誰か、すぐにわかった。わかったと同時に、大きな声をだして駆け出してた。

「お兄ちゃん!」

「久しぶりだね、彩夏。大きくなったなぁ」

突然、飛びついた私に、周囲の人はびっくりしたようだった。お兄ちゃんは、昔と同じように、大きな体で私を優しく受け止めてくれた。あぁ、こうだから、私はここに来たんだなって、思った。

「やだなぁ。そんなに大きくなってないよ。そりゃ、少しは身長は高くなったし、体重は、少し増えてるかもしれないけど」

耳元で元気よくそう言ってみたら、お兄ちゃんは、昔と同じように私を軽々と高い高いして、笑顔で言った。

「そうじゃなくてさ、大人に近づいたなぁって意味さ」

「えっ?!」

少し、びっくりした。

微笑みながら、そう言うお兄ちゃんに、私がここまで来た理由を見透かされたような、そんな気がしたから。お兄ちゃんは、私を床に降ろすと言った。

「北海道へ、北の大自然へようこそ。何もないのを楽しんでいってくださいね」

芝居がかった様子で、深々と一礼しながら。

そうだ、こういう茶目っ気のある人だったなあ。お兄ちゃんを久しぶりに見てて、私は微笑んだ。

でも、「何もないのを楽しんでいって」って、どういう意味だろう?

そんなことを思ってると、お兄ちゃんは私の荷物のところまで歩いていって軽々と担ぐと、笑顔で私を促して歩き出した。

「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!」

すっと止まって、肩越しに振り向くお兄ちゃんに私は言った。

「いいよ、荷物くらい。私、持つからさ」

お兄ちゃんは、そのまま聞こえてないような感じで歩き出した。

「これくらい、軽いもんだよ」

なんだか、ちょっとずれた答えを返して、歩き出したお兄ちゃんに、少し戸惑いながら、後を小走りで追いかけていった。

そういえば、お兄ちゃんが何してるのか知らないなぁっと思って、少し小走りして追いつくと、左腕にしがみつきながら聞いてみた。

「仕事?」

お兄ちゃんは、脚を止めて、きょとんとした顔をして小首をかしげて、微笑んだ。

「私ね、お兄ちゃんが北海道に居るってことしか聞いてないんだ」

「そうかあ。春介さん、それも教えなかったのか」って小さく言ってから、イタズラが成功した子供みたいな表情を見せて

「行けばわかるよ」それだけ、答えてくれた。

お兄ちゃんの行き先は、千歳空港から車で4時間ほど走った山の中だった。

車の中ではずっと私がしゃべってばかり。私のしゃべることを、一つずつ真剣に、時にはおちゃらけながら、聞いてくれた。

変わってないなあ。すっごくものが言いやすいんだ。

やがて、車の速度が徐々に遅くなってきた。ウインカーを左に出して、手作りらしい看板を左に曲がる。看板は、そこが牧場であることを示していた。看板から、視線を外し、目の前を見ると。

緑色の絨毯を茶色の線が貫いて、空と地面の境目が溶けている。

その圧倒的な光景に、あっけに取られて口を大きく開けている私を見て、お兄ちゃんは微笑んでいるような気がする。

しばらくゆっくりと走っていく。お兄ちゃんの車は、エコカーだから、低速のときはモータで走る。エンジン音なんてほとんどしない。穏やかな風が草原を撫でて過ぎていく音さえ聞こえてくる。

音もなく進む両脇には、緑一面の地平線が広がっていた。時々、動いて見える小さな点が、馬だってことに気づいたのは、しばらくしてからだった。

 ひょっとして、お兄ちゃんは「馬の牧場」で働いているのかなあって、私はぼんやり思った。

やがて、遠めに小さく見えていた建物の前に出た。思っていたよりもずっと大きくて立派なログハウス。車は音も無く停まり、お兄ちゃんはサイドブレーキを引いて、私の方へ振り向くと、優しい声色で言った。

「ようこそ、『夢限牧場』へ。彩夏、ここが僕の仕事場だよ」

「夢限?」

「そう、『夢、限界を超えて』。好きな言葉なんだ」

なんでも元々はお兄ちゃんが受験生やってた頃にF1に参戦してた日本の自動車メーカーのチーム名なんだって。当時はローマ字表記されてたんだけど、後になって雑誌で由来を知って以来お気に入りだって教えてくれた。

 あれ、でもなんでお兄ちゃんの好きな言葉が牧場名なんだろう?

お兄ちゃんは音もなく車から降りると、私の荷物をトランクから降ろしだした。相変わらず身のこなしが軽やかだね。私も慌てて後を追ってトランクの方に回ろうとしたら、ログハウスの扉が開くのが視界の隅に入った。中から出てきたのは藍色の作業服姿のお兄さん。ちょっと体の線が細くて、丸い眼鏡と強い癖っ毛を短か目にまとめてるのが知的な感じ。でも思いっきり作業服とはミスマッチだけどね。

「よう、馬鹿社長。帰ってきたか」

お兄ちゃんは、片手で荷物を担いでくるっと振り返ると、空いた手で私の肩を軽く一つ叩いた。

「おう、おっさん。紹介するわ。この娘が、俺の従兄弟の子で小鳥遊彩夏」

「こんにちは。はじめまして。彩夏です」

挨拶してから私は重要なキーワードがいま出てたことに気がついた。

「お兄ちゃん、社長なの?!」

びっくりしてお兄ちゃんの顔を仰ぎ見るとイタズラが成功した小学生みたいな笑顔があった。

「なんや。言うてなかったんか?」

あきれた顔で言う丸眼鏡のお兄さん。

「社長だろうがなんだろうが、俺が村上藤哉であることには変わりはなかろう」

お兄ちゃんは時々こういう時代がかった言い回しをするんだ。大体、同年代の親しい人には地元の言葉やこんな感じのしゃべり方。別に機嫌が悪いとかじゃなくて、単に癖だって言ってたし、現に今も笑いの成分が多分に含まれている。あ、目下や目上の人にはちょっとアクセントが芸人さんみたいな標準語で丁寧に話すんだよ。お父さんや私の友達の時はそうだったんだ。

「まったく。性が悪いというか、ひねくれているというか」

あきれたような声に

「せめてイタズラ好きと言うてくれ」と、切り返すお兄ちゃん。

お兄ちゃん。

悪いけれど、これはちょっと意地悪かなと私も思うよ。でも確かに自分から社長やってる、とは言いづらいかなあ。

あ、大切なこと忘れてた。

「ごめんなさい、挨拶の途中で」

私は丸眼鏡のお兄さんに大きく頭を下げて、自分の靴を見てから上げた。そこには微笑を浮かべた優しい顔があった。

「桐生です」

差し出された右手は、線は細いけど思ったより毛深かった。

「彩夏、握手だよ」

ぼけーっと桐生さんの手を見てたら、お兄ちゃんがそっと耳元でささやいてくれた。

慌てて手を出したら、しっかりと握ってくれた。なんだかほっとする暖かい手だった。

「日本じゃあ、初対面で握手するなんてあんまりしないからなあ」

微笑みながら言うお兄ちゃんの言葉がうれしかった。

「慣れてないから、仕方ないんだよ」って言ってくれてるように感じたから。

「そうやなあ、俺はお前のせいで外国の人とも会う機会が多いからなあ」

「そない言うなよ」

「事実や」

絶妙の掛け合いというのは、こういうのを言うんだろう。

悪態をつきながらも、楽しげな二人を見てて、出発前にお母さんから聞いたお兄ちゃんの親友って言うのは、この人のことなんだなあって、私にはなんとなくわかったんだ。

「帰る早々で悪いんやけどな」

荷物を降ろしてるお兄ちゃんの背中に語りかけた桐生さん。

「いい知らせか、悪い知らせか?」

「両方、かな」少し首をひねって微妙な表情を浮かべる桐生さん。

「じゃあ、悪い方から聞こうか」

「ふむ。吉事は延期できるが、凶事は延期できないからな」

「抹香臭いこと言うとらんで」

「さっきお隣さんから電話があってな」

「ホースランドさんから?」

「うん。最近妙な事務所荒らしが出没してるらしいから、気をつけるように、だと。後で詳細はFAXで送ってくれるとさ」

「不景気やからなあ。しゃあないかもな」

「さてな。犯罪行為に手を染める不逞(ふてい)(やから)の考えることなんざ、俺にはわからんよ。詳細は後で届くFAXでも見ることだな」

「へえへえ。で、吉報は」

「うむ。お前さんの予想通り、残念ながらトルコで見つかった」

「ほぅ。これであんたの計画通りあいつを『男』にしてやれるかもしれんなあ。しかし、『残念ながら』、とはね」

お兄ちゃんは、その一言に順調ではない何かを感じ取ったのだろう。しばらく私の知らないお兄ちゃんの雰囲気を出してじーっとそのまま動かなくなってしまった。で、桐生さんがお兄ちゃんの背中を軽く叩きながら

「資料は事務所のデスクにおいてある。四方山はその後にしよう」

お兄ちゃんは我に帰ったかのように、振り返って

「彩夏、ごめんね。これからちょっと仕事の話をしなきゃいけないんだ」

お兄ちゃんは、いつの間にか降ろしていた私の荷物を担ぎなおして、桐生さんに向かって言った。

「おっさん、藤谷君はいてるか?」

「さあ」

「『さあ』とは?」

「UFOにさらわれるとかしてなかったら、タケルのところにおるやろ」

「ほぅ。桐生源三がUFOなんぞを信じとるとは、ついぞ知らなんだ」

「ありとあらゆる可能性を否定的に見ることは科学者の端くれとして正しい姿勢ではないからな」

お兄ちゃんは、しばらく無言で微笑んでじっと桐生さんの顔を見つめていると、笑って言った。

「じゃあ、悪いけど彩夏をタケルのところにまで案内してやってくれへんか?その後は、藤谷君に言って、牧場を案内するように」

「おお。それはかまへんけど、お前は?」

「仲買に電話するさ。直接話は俺が聞くよ。」

「いろいろと事前に耳に入れときたいこともあるから、先に資料に目を通しておいてくれ。それとFAXにも気をつけとけよ」

「ああ。じゃあ、後ほど」

「うん。じゃ、いこうか。彩夏ちゃん」

こうして、私の不思議な夏が、静かに始まろうとしていた。

きっと、ここなら、私に響く新しい音を見つけられる。

外国の映画に出てくる執事さんを呼ぶような小さなベルの音が、心のどこかで、微かに鳴った気がした。



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