第一幕 風の予兆
高校に入って、初めての夏休み。
アルバイトから帰り「ただいま」の言葉を玄関に置いて思いのほか疲れている体を引きずり、廊下を通り抜ける。居間で待っていたのは、お母さんの「おかえり」の言葉と小さくない「驚き」だった。
私は一瞬言葉にならない声を出して、その場で立ちつくし、もう一回聞きなおした。「村上のお兄ちゃんが?」
「仕事辞めて北海道に行っちゃったんだって」
気持ちを立て直せずに居ると、お母さんが、「せっかく一流企業に勤めてたのにねえ」なんてことをお料理しながら言っている。しばらくして私は、カウンターキッチン前の居間のソファーに疲れた体と荷物を投げ出す。
なんだか、呆けちゃった。
足を広げて座ってたら、たまねぎをみじん切りにしているお母さんに、「彩夏、お行儀が悪いわよ」って注意されちゃった。器用だね、いくつ目がついてるのかな。
お父さんが、その様子をおかしそうにカウンターの向こうからお母さん越しに横目で見てる。
お父さん、今日は仕事早く終わったんだね。アパレルメーカでバイヤーをしてるから、うちに居ない事が多いんだ。海外出張とかでね。時々真夜中に帰ってきて仕入れてきた商品のどこがいいとか、こういう人にこれは似合うとか講義が始まっちゃうこともあるんだよね。そういう時のお父さんはホントに嬉しそうで、まるで子供みたい。でもここ最近は毎日、日本の事務所に出てるみたいだから、割に暇なんだろうね。晩酌用にブランデーセットを取りにキッチンに入ったところ、かな。
お父さんのお決まり。
帰ってきて、夕食の前にブランデーをロックで嗜む。
それでリセットするんだって。何をリセットするのかは、よくわからないけど、お父さんがロックを1~2杯飲み終わるのが、我が家の夕食開始の合図。
シルバーのお盆にセットを一式載せて私の向かいに座るお父さん。
お父さんが教えてくれた一味違う水割りの作り方。丁寧にロックグラスに氷をトングで3個入れ、マドラーで小気味よくかき混ぜる。グラスを十分に冷やしてからグラスに水を注ぐ。それからブランデーを注ぐ。
このとき、氷が溶けた水はいったん捨てること。出ないと余計な水が混じってブランデーの味が薄くなるんだって。冷たいものはより冷たく、暖かいものはより暖かく、混じりっ気はできるだけないように。それが美味しく作るコツなんだって。
お父さんはそうして冷やしたグラスに水を注いだだけのものを、そっと私の前に滑らせてくれた。
その水を一気に飲み干して、人心地ついた私は
「急に仕事辞めて、大丈夫だったの?」
と、目の前で涼しい顔してブランデーをロックで飲み始めたお父さんに聞いてみた。
「残務の整理やら何やら、色々と大変ではあったみたいだけど。とりあえず円満に解決したみたいだよ」
お父さんは、私のグラスに次のお水を注いでくれる。
「ふーん。でもさすがお兄ちゃんだね。やることが」
今度は軽く口をつけるだけにした。お腹冷やすと体に良くないもんね。
「『思い立ったが吉日』を地で行く奴だからなあ。あいつが学生の時も突然学校休学してヒッチハイクで日本一周とかしでかしたし。あの時は、美恵子姉ちゃん大分心配してたよ」
あ、「美恵子姉ちゃん」て言うのは、お父さんの叔母さん。だから、私からすると大叔母さんになる。でもお爺ちゃんと大叔母さんは7人兄妹の1番上と6番目だから、お父さんからするとちょっと年上のお姉さんって感じなんだって。
「突拍子のない行動をするあたり、あいつも小鳥遊家の血が十分に流れているよ」
そう、私は小鳥遊彩夏。
「小鳥が遊ぶ」と書いて「たかなし」。小鳥が遊べるような土地には鷹が居ないって由来の名字らしいけど、なんかいわくありげで気に入ってる。
「でも突拍子のなさじゃあ、お兄ちゃんの家系の方が数段上ってお父さん言ってなかった?」
お兄ちゃん、村上藤哉さんは、私より9歳上。お父さんと「いとこ」で、私とは「いとこちがい」になる。一般的には、「遠い親戚」って言った方がわかりやすいのかな。私は兄妹みたいに感じてるんだけどね。
「うん。だから藤哉は二倍だね」
「足して二で割るじゃなくて?」
「そう二倍。小鳥遊、村上両家で大学以上の高等教育を受けることができたのはあいつだけ。あの集中力と行動力と要領の良さがあれば、なんだってできるようにお父さんは思うよ。多分、両家の才能のいい所を受け継いだんじゃないかな。ちょっと時代にそぐわない気がするけれど」
ん?
「時代にそぐわない」
どういう意味だろう。
お父さんの言葉を受けて、少し考えて会話を止めた隙にお父さんが、満面に笑顔を浮かべて言った。
「でも、あいつらしいよ」
そしてブランデーグラスを手のひらの中で二、三回揺らした。ブランデーをグラスの中で動かして香りを開かせるためだって前に教えてもらった。
お兄ちゃんらしいとは、私も思う。
お兄ちゃんには、私が高校を受験する前に1年だけ国語、数学を中心に家庭教師をしてもらった。
国語は問題提出者の意図を正しく理解するために必要。数学は論理的に物事を考えるための基本だからというお兄ちゃんの方針だった。家庭教師と言うと必要以上にえらそうに振舞うか、馴れ馴れしいかどっちかかなって想像してたんだけど、お兄ちゃんはそのどっちでもなかった。
あ。私その時まではっきりとしたお兄ちゃんの記憶がなかったんだ。ずーっと昔。私がまだ幼稚園くらいのときは良く遊んでもらってたらしいんだけど。
お兄ちゃんはすごく自然体な人だった。
質問には必ず手を止めてこちらを向いて向き合って答えてくれたし、言葉遣いは丁寧だし、教え方も上手だったし、人間としてもなんだか尊敬できる感じ。うちのお父さんと似てる空気を持ってる人だった。外見はまるで似てないんだけどね、お兄ちゃんとお父さん。
だけどなんか共通する「匂い」みたいなものはあるような気がしてたなあ。
いつか学校で習った「メンデルの法則」。
正確には「優性遺伝の法則」って言うらしいけれど、人でも何でも生き物であれば全て優れた部分が優先的に選択されて次の世代に伝えられるっていう法則のこと。それを教えてもらったときに、なんとなくわかったんだ。きっとお父さんとお兄ちゃんのご先祖様にそういう部分を持った人がいて、それが伝わっているんだろうね。だって、私はお父さんとお兄ちゃんのそういう部分。大好きだもん。
人のこと、優れてるとか、駄目だとか言うのはあんまり好きじゃないんだ。でも、私の好きなところ。そういうなら、わかりやすいし、気持ち悪くないもん。
たまには学校の先生もいいこと教えてくれるよね。そう思ってから一人っ子の私は本当のお兄ちゃんみたいに安心して甘えられるようになったんだ。遊びに連れて行ってもらったりもしたし、学校の勉強以外の「勉強」も教えてもらったりね。
私のわがままを聞いてくれるときのお兄ちゃんは、一回はだめだよって言って、それから駄々をこねると困ったみたいに頭とか頬をかいて見せて、微笑みながら言ってくれるんだ。
「仕方ないなあ。今度だけだよ」って。
でも本当に駄目なときは、しかめっ面して言うんだ。
「それはよくないなあ」って。けっして、私の言ったことを否定したりしないんだ。そのことに気づいたとき、お兄ちゃんに思い切って聞いてみたことがあるんだ。
「お兄ちゃん。なんでお父さんやお母さんみたいに私の言ってることを駄目ってはっきり言わないの?」って。
そしたらお兄ちゃん、優しく、わかりやすく教えてくれたね。
「あのね、彩夏。僕は思うんだ。『子供は大人が思うほど子供じゃないし、大人は子供が思うほど大人じゃない』ってね。だから、『大人』ぶって偉そうに物事を決めつけるのが嫌なんだ」
「よくわかんない」
子供みたいに、人差し指をくわえて甘えるようにわざと言ってみたら、お兄ちゃん、私の頭を優しく撫でて、笑いながら続けてくれたね。
「そうだなあ。じゃあ、彩夏はいままで『大人』の言うことを聞きなさいって教えてこられたと思うけれど、例えばなにが『大人』なんだと思う?」
えっ、それってそんなに難しいことなの?って、一瞬パニックになっちゃって、どう答えていいかわからなくなっちゃった私に、お兄ちゃんは、思いついたままでいいんだよって言ってくれた。
「20歳を超えた人!」
まだ、20歳になるまで何年も残している私には、その歳になると、いまわからないことや、できないことができるようになって、いっぺんに大人になるように思えてた。だから、思いっきり、そう答えてみた。
「元気が良いね」
思いもかけずにほめられたから、えへへってなる私。そんな私を見ながら、お兄ちゃんは、私しか知らないお兄ちゃんの顔をしてる。そういうお兄ちゃんの気を抜いた顔見るのも好きなんだ。
「法律上は、そうなんだろうね。でもね、彩夏。僕は今年で23歳になるけれど、自分のことを『大人』って思ったことはあんまりないんだ」
「あんまり?」
「そう、あんまり」
ちょっと混乱してる私を楽しそうに余裕たっぷりで見ながら、お兄ちゃんは続けてくれる。
「大人だとか、子供だとかいうのは、人が決めることじゃなくて、自分で決めることなんだと思う」
「自分で決めること?」
「そう。だから、自分で今は大人なとき、子供なときって言うのを使い分けていいんだよ。僕は一日のうち、半分以上は子供だから、『あんまり』大人じゃないと思うんだ」
「じゃあね、お兄ちゃん。今日、いまから私が大人ですって思えば、それは大人で良いの?」
「僕はそう思うよ」
「じゃあ、私は今日から大人だね」
少し冗談めかして胸を張る私にお兄ちゃんは、言葉を続けてぶつけてくる。いつになく、少し厳しい感じがする言葉を。
「でもね、彩夏。大人になるって言うことは大変なことなんだ。いろんなことを自分の責任でしないといけない、人を傷つけることもあるかもしれない、自分をなくしてしまうこともあるかもしれない。だから、難しいことなんだよ」
「ふーん。お兄ちゃんは、じゃあ子供でいたいの?」
「そうだね。20歳になるまでは、早くなりたいと思ってた。自分で何でもできるからと思ってたからね。でも、いまは子供でいたいと思うよ。自分がまだまだ未熟だって言うのがわかってきたからね」
お兄ちゃんは、傍らのカップを取り上げて、コーヒーを一口。お兄ちゃんは、コーヒーが大好きで、私の家に居る3~4時間の内に5、6杯は飲んでる。あんまりに飲むものだから、自分専用のインスタントコーヒーを持って来てるくらいなんだ。お父さんもお母さんもそんなことは気にしないんだけど、気を遣う人だからね。お兄ちゃんは。
「お兄ちゃんが、自信ないくらいなんだね。社会に出ることって」
私には、お兄ちゃんは何でもできる人に見えてた。でも、その人でも、こんな風に考えてるんだと思うと、ちょっと、怖くなった。
お兄ちゃんは、私のそういう様子を見て、少し困ったような顔になったけど、言葉を継いでこう言ってくれた。
「だから、いつまでも子供でいたいと思う。でもみんながそう思うと、世の中が成り立たなくなる。そのために、20歳を超えたら大人って言う決まりができたんだと思うよ。だから、僕は『20歳になったら大人になる』んじゃなくて、『遅くても、20歳から大人になるように努力しなさい』ってことだと思ってるんだ」
笑顔でそういうお兄ちゃんの顔は、余裕があるように思えた。きっと、お兄ちゃんもいろいろ考えたんだろうね。それで、そういう結論になったんだろうね。だから、嬉しそうだし、自分で出して、間違ってないと思った答えだから、余裕があるんだね。
「そっか。じゃあ、今から焦らなくてもいいんだね。別に」
ほっとした。さっきまでの不安な気持ちが、温かい言葉に触れて冬の朝霜のように溶けてなくなってしまったみたい。
「でも、できるだけ普段から自分で考えて、決めることができるようにしておけるといいね。自分で考えて、迷ったら、相談においで」
「その時は、助けてくれるんだね」
無邪気にそういう私の言葉に、お兄ちゃんは、ゆっくりと頭を振って言った。
「その時は、僕がおかしいなと思う部分を彩夏に教えてあげる。だから、後は自分で考えるんだよ。それで失敗したとしてもそれはそれでいいと思うよ」
「えー、失敗するのはいやだなあ」
「でも、僕の言うがままに動いてそれで成功しても面白くないだろう?それに、いつも彩夏のそばに、僕がいるとは限らない。できるだけ自分で何でもする癖をつけておくといいね」
こういうのを、古い中国の言葉で「匹夫もその志を奪うべからず」って言うんだって。後で笑いながら、ちょっと意訳が入ってるけどねって、そう教えてくれた。難しくて彩夏にはいまでも、良く意味がわからないんだけどね。
お兄ちゃんは色んな意味で変わった人だった。変わってるって言うのが、「変」って意味じゃなくて、良い意味で常識外れって言う感じかな?
普通にしてると、身長も高いし、整った顔立ちだし、「男前」って言っていい部類の人なのに、時々独り言を言ってみたり、突然「ああ、なるほど」「そういうこと、か」みたいに、相槌を打ったりしてた。どうもお兄ちゃんは頭の中で考えてる事の経過や、結論を独り言で言う癖があるみたいなんだ。私も独り言の癖はあるけど、お兄ちゃんほどじゃないと思ってたんだけどね。お母さんに言わせると大して変わらないみたいなんだ。
傑作だったのは、差し入れにきたお母さんに二人して気づかなくて、お母さんは二人で会話してるって思ってそっと部屋を出て行ったらしいんだけど、後で「さっきは何の話してたの?」って聞かれたときに、何のことかわからなくてさ。よくよく考えたら実は二人とも延々独り言を言ってただけってわかって家族みんなで大笑いしたことかな。
でもその後、私は憮然としたんだ。
だってお母さんたら、ひとしきり笑った後にお父さんに真剣な顔で「あなた。彩夏も変わり者にならないかしら」って。
お父さん、それに答えて。
「さあ。曲がりなりにも彩夏は藤哉と遺伝子の1/4を共有してる訳だからなあ」
「ちょっとぉ、それってどういう意味?」と抗議の声をあげる私にお父さんは、笑顔で言った。
「んー。蛙の子は蛙ってことさ。藤哉からすれば、お前は『孫』みたいなもんだからね。似ても不思議はないんだよ」
ふーん、ってそのときは妙に納得させられちゃったけどさ。これって、結局私とお兄ちゃんが似るってことの裏付けでさ、お母さんの疑問に対する答えじゃないよね。相手を煙に巻くような話し方、お父さん時々しかしないけど、お兄ちゃんと似てるといえば、似てるところ、だね。
そうそう。そう言えばお兄ちゃん料理が上手なんだ。一度お父さんもお母さんもいないときに、作ってくれた有り合わせの材料で作ってくれたチャーハンとお味噌汁、すっごくおいしかった。
「おいしいっ!」って、大きな声に出しちゃったくらい。
正直にそう思ったから言ったんだけど、お兄ちゃんは照れながら
「僕のは必要に応じてできるようになっただけだから、あんまりほめられるとなあ」
って苦笑い。そして、子供の頃、家にお父さん、お母さんが家にいない日が多かったことや、貧乏だったことなんかを話してくれた。
お兄ちゃんが優しいのは、自分が辛かったからなんだね。でも、それってお兄ちゃんが強いからできることだと、私は思うんだけど、違うのかなあ。
お兄ちゃんは、中学校1年生のときは、学年で最下位くらい。2年生で真ん中くらい、3年生では上から10番以内っていう比例関数みたいな成績の上がり方をしたんだって。
学校の先生もびっくりしてたって言ってたっけ。お兄ちゃんにどうやったら、そんな風になれるのって聞いたら、当たり前の答えが返ってきた。
「人の倍以上、勉強して、コツをつかんだんだよ」
そう答えたお兄ちゃんの横顔に、
「そんなのわかってるよ。でもね、そのコツがわからないんだよ」
って抗議したら、お兄ちゃんは笑顔で答えた。
「それを教えるために、僕はここにいるんだよ。だから、だまされたと思って、僕のいうとおりにしてごらん」
優しい顔だった。私は素直にお兄ちゃんの言うとおりにやってみた。そしたら、びっくりするくらい成績が上がっていったんだ。
「物事には全て順序とか段取りがある。テストでもそれは変わらない。第一問から解いていって、最後の問題にたどり着くし、問題それ自体にも解方と言う順序がある。『天才』とか言われる種類の人は、そういうのを無視して、いきなり答えにたどり着ける人、『秀才』と言われる人は、訓練で間の段取りを飛ばせるようになった人のことさ。だから僕は彩夏を『秀才』にしてあげられるよ」
あの人のおかげで、中学生2年生以降は、平均で80点を切ることはなかったなぁ。数学なんて大得意になっちゃったんだよ。
でも、本人は一番数学が苦手だって言ってた。理数系で有名な学校に行ってたのにね。だから、自分は本当にこの道に合ってるのかなあって考え出しちゃったんだよね。その為に世界を見てみたいなあって思ったらしいんだけど、日本も知らないのに世界に出るのはおこがましいって考えて一年間ヒッチハイクで日本中を旅して回ったんだって。勉強の合間にその旅の話を面白おかしく聞かせてくれた。
その話の方が良く覚えてるんだ。
トラックの運転手さんに乗せてもらったら、北海道の原野で放り出されてシカと一緒に眠ったとか、船に弱いくせに、北陸では漁師さんと一緒に沖に出て、何の役にも立たなかったことだとか、九州で炭焼きのおじさんと日長1日ボーッとしてたとか。話を聞いた日にお父さんにその事を言ったら一言だけ返って来た。
「あいつは、強いからな」
今とおんなじ様にソファーに腰掛けて、ブランデーをグラスの中で転がしながら。
お父さんは、その日の夕食の時にお兄ちゃんは高校時代まで剣道をやってて相当強かったことを教えてくれた。知ってたら絶対試合とか見に行ってたよ。だってお兄ちゃんのホントにかっこいいところなんてあんまり見れないんだもん。のほほんとしてて、時々きりっとした顔を見せたり、それで、そんなに強かったり、とにかくどこか変わった人だった。
でも頭の中身は一流。あの人のおかげで頭のいい人って、みんなどこか変わってるのかもしれないって、ずっとそう思ってる。だから、私も付き合うなら変った人がいいなあって思うようになっちゃった。変わってるっていうのは、そうだなあ。「自分を持ってる」っていうくらいの意味かな?
今日は、久しぶりの家族そろっての晩御飯なのに、私はお兄ちゃんのことばかり考えてた。報せを聞くまでのお兄ちゃんをまとめると、一流の高校を出て、一流の大学に入り、一流の会社に入った。今時良くある成功の波にうまく乗った人だった。それでいて、親孝行で、面白くて、色んな経験をしてる。そんな人だ。
会社を辞める理由なんて、どこにもない。私には、そう思えて仕方なかった。
私は、お兄ちゃんにはなれないけれど、お兄ちゃんに近づきたいと今でも思ってる。そしたら、少しでもお兄ちゃんのこと、わかるような気がしてるから。
でもこうなってみると、私はお兄ちゃんのことはわからないね。当たり前のことなんだろうけれど。それでも、いままではそばにいてくれたような気がしてた。でも、なんだかお兄ちゃんが、感覚として遠くに行ってしまったような、そんな気にさせられる報せだった。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんが、奏でようとしている音は、どんな音なんだろうね」
私は大体北の方を向いて、心の中で呟いた。




