第八夜 誰とか知らむ
午後の七時を過ぎた辺りから、周囲はすっかり暗くなった。それからもう一時間は経っているのではなかろうか。
一人の変わった風体の少年が、そんなことを思いながら植え込みのベンチに腰かけていた。くるぶしまで覆う黒外套のせいで今にも闇に同化してしまいそうな風情であるが、夜気に揺れる白い長髪が、彼の存在を辛うじて主張している。
ベンチの二メートルほど向こうにはマンションのエントランスが見えるが、今は誰もおらず、眼前の道路にも人影は無い。彼は完全に一人きりであった。
何時まで粘ろうかと思い、まだ新品に近いスマホを取り出すと、画面には複数の通知が表示されていた。見覚えのある番号をみとめて、慌ててタップする。
呼び出し音は間もなく途切れた。
「もしもし」
「何が『もしもし』だよ」
荒っぽい声が流れてくる。
「君さ、私の電話には三コール以内に出ろって言わなかったか?」
「…そうでしたっけ」
「とぼけるんじゃない」
流れてくる声には芝居がかっているほどの怒気がみなぎっていて、少年はかえって状況を呑み込めなかった。相手の反応に構わず、彼の上司は喋り続ける。
「詫びろ」
「は?」
「いや、『は?』はこっちのセリフだろう、え?」
「詫びろって…」
「なーめーてーんーのーかー?」
高圧的な詰問は、途中から笑い声が混ざって聞き取ることができなくなった。少年は、電話口の相手が遂に発狂したのかと困惑した。
「…大丈夫ですか?」
「…ごめん、ごめん、最近、パワハラ上司ムーヴにハマっていてね」
「はあ」
「いや、割と本気にしてビビっちゃう子もいてだね、面白いの何の…」
「おやすみなさい」
淡々とした宣告に、悪趣味極まる彼の上司が「待て待て」と焦る。
「いや、まあ、今日の成果を聞きたくて電話したんだよ。どうだったかね、鷲谷直人としての第一日は?」
「…いいんですか? そんなの電話で話して」
「そう心配することはないよ。それで何か分かったかね? 彼女についてとか」
「何って…」
少年は「うーん」と、熟考しているかのように喉を鳴らしてから答えた。
「…美人ですね、割と」
「は?」
「ちょっと、宇多田ヒカルに似てるかなって思いました」
「えー、そんな似てるか?…じゃねえだろ。君、私が写真ちゃんと持ってるの知ってるよね」
「そうですけど。分かったかと訊かれても、二言三言喋っただけですし、何とも言えないですよ」
「何だよそれ。童貞か」
今度はセクハラ上司ムーヴだろうか。電話口の相手はわざとらしく嘆息しつつ、「まあ、君が初対面の人と会話できたんだから上出来か…」と付け足した。失礼な、と言い返したいところだが、自分が社交性に欠けていることは認めざるを得ない。
「それで、君は今何してるんだね」
「今ですか? マンションの下にいます」
「マンション? …え、尾行したの?」
上司の声が少し驚いたような響きを帯びる。
「いや、まあ、尾行というほど尾行ではないですけど」
「何それ、怖。ストーカーじゃないか」
また失礼なことを言ってくる。
「三船さんが言ったんじゃないですか、監視しろって」
「いや、千里眼貸してあげてんだから、マンションまで行く必要ないだろ」
「一応です。家に何か〈神戸の一類〉のヒントがないかと思ったので」
「あー。でも、あまりウロウロしない方がいいんじゃないのかね。君は目立つよ」
それには一言も無い。以前、黒染めするよう言われたことがあったが、彼は拒否していた。それに、天蓮寺高校では染髪が禁止されている。
電話口でライターの音が鳴った。どうやら、上司はニコチンを摂取しながら話しているようであった。
「何かありそうだった? ヒント」
「いえ、今のところは何も」
「なるほどね。まあ、奴との接触が何らかあったら、すぐ連絡してよ。後、電話もせめて三回以内には出たまえ」
「はい。…あ、ちょっと」
彼には、先程から気にかかっていることがあった。辛うじて、電話口から離れつつあった上司の耳を捉える。
「ん?」
「あの、風呂とトイレの監視もするんですか」
「そらそうだろ」
「え、嫌ですよ」
「別に当人には分からないからよくない?」
「そんなわけないでしょ。代わり誰かいないんですか」
「無理無理。千里眼一個しか無いし。じゃあ頑張れ。バイバーイ」
通話は一方的に終了した。履歴を確認すると、着信が十回も来ていた。
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