第九夜 心のどけき人はあらじな
一人きりの夕食を終え、風呂も上がったみことは、冷蔵庫にあると母に言われたカステラを食べるかどうか迷っていた。短めの髪にドライヤーの温風を浴びせながら、冷蔵庫を開ける時に白い顔と出くわすリスクを考える。冷食と母の作り置きを探して開けた時は、幸いにもその姿は無かった。その時にカステラの箱もテーブルに出しておけばよかった、と後悔する。
結局カステラのことは諦め、みことはドライヤーの電源を切った。洗面台には母が薦める化粧水が置かれていたが、変な匂いがするので彼女はあまり使っていなかった。
みことは自室に足を向けた、本当はカステラより優先して考えるべき懸案が残っているのである。勉強机で古文の課題と相対しながら、みことは嘆息した。
古文どころか全く別の言語を話しているようにしか聞こえない授業と、自らの不勉強のせいで、この期に及んで彼女が眼前の解答欄に対してできるのは、文法書の丸写しだけという状況であった。先述したように前期中間考査まで二週間を切っているので、これは非常にまずい。
みことが高校の定期考査を受けるのは、実は今回が初めてではなかった。入学から七月上旬の前期中間考査までは期間がかなり長いため、テスト範囲が広くなり過ぎぬよう、五月にプレ中間考査なるものが実施されたのだ。
そして、そこでのみことの古文の成績は言うまでもない。今回の考査も同じような結果であれば、「友の会」と称される補習に参加せねばならなくなるであろう。
何とかしないとな、と思いながら、みことはスマホを触っていた。思えば、今日初めて使っているかもしれぬ。白い顔は画面の向こうに見えることもあるので、今日のようにひどい日はテレビもスマホも避けがちであった。
白い顔に悩まされるようになって、もう何年経つであろう。物心ついた頃からいた、というわけではなかったはずだ。いつからか彼女の人生に現れ、以来、慣れるということはなく、知覚するたびに激しい不快感を与え続けている。
だが、そもそもなぜあれを目にするとかくも強烈な拒否感を覚えるのか、深く追究したことはなかったし、するつもりも無かった。生活の中で不意に、あの血走った目やこけた頬が暗渠の中に見えたら、誰だって愉快になるはずがないではないか。
いつもそれ以上に思考を進めようとはしなかった。その先に出会ってしまう結論を恐れているのかもしれぬ。
いい加減に勉強しよう、と思い、みことは背筋を伸ばした。だが、妙なことを考えたせいか、シャープペンシルを握っても脳裏に嫌な感情がちらついてやまない。
白い顔は結局、自分にしか見えないのか、他人も見えているのか。自分は一体何なのか。やはり精神異常者なのか。また出口の無い思考に引きずられていきそうになる。それを振り払うように、やたら音を立ててシャープペンシルを動かす。とっとと終わらせよう。そしてもう寝てしまおう。
目をしょぼつかせ、眠気を引きずりながら、みことは自室から出てきた。最近よく見る夢のことが気にかかるのか、まんじりともせぬまま朝を迎えてしまった。
今日の授業はどれか寝るかもな、と不届きなことを思っていると、自室の向かいにある母の部屋の扉が開いた。
「あれ、どしたん。今日えらい早いやん」
「寝れなくて…」
半瞬、母が寝坊したのかと思ったが、スマホを見るとまだ午前五時過ぎである。七時半に出れば学校には十分に間に合うので、いくらなんでも早起き過ぎる。
「スマホの見過ぎ? まだ時間あるし、二度寝したら」
言いながら、母は顔を洗うためにために洗面所の方へ歩いていった。
眠いが二度寝する気にはなれず、今日のウィークリーテストの勉強でもしようかと思って、彼女は自室に戻った。みことも顔を洗いたかったが、母が洗面所を使い終わるのを待たねばならない。
昨夜は何とか古文の課題は終わらせたものの、ウィークリーまでは手が回らずベッドに入ってしまった。夜が深まる中で、明日の昼休みにやればいい、と思ってしまったのだ。みことのクラスは七限目がウィークリーなので、理論上、それでも間に合うのである。
だが実際のところ、それは幻想で、昼休みにやっつけで対策して何とかなる難易度ではないことを、みことも薄々理解しつつある。先週のみことのウィークリーの点数は三十点中の十四点。合格点は二十四点なので当然不合格であり、しかも自己最低記録であった。
さすがに二週連続の不合格はまずい。そんな中、この早起きによって生まれた勉強時間は、いわば天祐ではあるまいか、などと思いながら、例文集を取り出そうとデイパックのチャックを開ける。瞬間、みことを見返す血走った目。
「ぎっ…!」
途切れた悲鳴が、脳内で嫌悪感となってこだまする。寝起きの時に見えなかったものだから油断していた。クソが。
デイパックを蹴り倒して中身をぶちまけてしまおうかと思ったが、早朝から階下に響くような騒音を立てるわけにはいかぬ。憤懣やるかたないまま、みことは自室を出て、母が使い終わった洗面所に向かった。鏡を見ないようにして顔を洗い、次いでキッチンに足を向ける。
「あれ、二度寝しないの?」
「うん。あんま眠くないし…あれ、食パンどこ?」
「あ、今ちょっとそっちにどかしてる」
菜箸と卵焼き器を操る母が顎で示し、「もう朝ごはん食べるの?」と問うてくる。
「たまには早めに登校して、自習でもしようかなと」
「ああ、中間テスト近いしね」
くっ、覚えているのか。いよいよ赤点をとるわけにはいかなくなってきた、と思いながら、みことはオーブントースターの扉を閉めた。
自転車を悠々と漕ぎながら到着してみると、あのスポーツウェアの先生は立っていたものの、みことがいつも通っている裏門はまだ開いていなかった。
仕方なく、学校の敷地をぐるりと回って正門の方へ向かうと、そちらは開いていた。普段はあまり目にしていない、半円形の特徴的な校舎が目に映る。一部の先生たちはもう出勤しているのだろう。もしかしたら朝練の運動部員などもいるかもしれぬ。
正門側には生徒用の駐輪場が無いので、みことは今度は敷地を縦断せねばならなかった。北館と南館の間、芝生の中庭を突っ切っていく。人影は無く、衝突の恐れも無いので、自転車の速度を大して緩めず走っていくことができた。
まだがら空きの駐輪場に自転車を停めて一組の教室に向かうと、意外なことに電気が点いていた。一体誰が来ているのであろう、と思って、スライドドアを開く。
「は?」
その声は誰が発したものであろう。みことか、それとも彼女の机に蠢く不審者か。
一体何が起きているのか、眼前の光景を咄嗟に理解できなかった。がらんとした教室で、床に膝をついてまでして、みことの机の覗き込んでいる何者か。
真っ白な長髪の不審者は、ドアが開いた拍子に弾かれたように顔を上げたが、机の中に手を突っこむよ
うな体勢までは変えられなかった。霞がかったセピアのような色の瞳が揺れている。
「…何してるの?」
声に思わず、遠慮ない嫌悪が滲む。
「…あー…」
「…そこ、私の机だよね」
「え、あ、その…机、間違っちゃったみたいで…ごめんなさい、僕こっちですよね」
鷲谷直人は動揺ぶりを隠し切れぬ様子で、慌ただしく後ろの自席に転がり込んだ。下手くそな愛想笑いを浮かべている。白々しい。この状況で、こいつの眼前に座れというのか。嫌過ぎる。
みことはデイパックも机に置かないで、入りかけた教室を出ていった。誰か、他の生徒が一組に登校し
てくるまでは戻る気になれない。何をされるか分からないではないか。
しかし他に行く当てがあるわけでもなく、廊下を彷徨い歩いた末、諸連絡が書かれている、階段前のホワイトボードに流れ着いた。しばらくそれを眺めてみたが、特に新しい情報は無かった。
腕時計を見るとまだ六時半で、誰かが登校してくるような気配は無い。しかし、それならばなぜあの男はいたのであろう。まさか、みことの机で何か邪な欲望を満たすために登校していたのだろうか。自分の想像にみことはぞっとした。あんな奴だとは思わなかった。
というか、感情的になって教室を出て行ってしまったが、自分の机に何がされていたのか、確かめた方がよかったのではなかったか。あー、マジでクソ。みことは頭を抱えたくなった。
思えば、昨日もあの男は不自然に接触してきた。もしかしたら、ストーカーみたいな気質がある人物なのか。だがどうして自分なのか。とにかく本当に得体が知れぬ。何なのだあの男は。
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