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第十夜    魂を悩まさむとす

 廊下で、みことはデイパックを背負い直した。みことの机を覗いていた鷲谷も気色悪いが、白い顔も相変わらず見えている。


 ホワイトボードの横手には六組の教室があって、そこの掃除用具入れからこちらを覗いているのだ。だらしないことに戸がきちんと閉められていないせいで、少し視線を動かしたら目が合ってしまう。六組の連中め。


 こんなことなら家にいた方がましだったか、とみことが悔恨の念を募らせていた時、不意に背後から声がかかった。


「おはよう、神子上」


 聞き覚えのある若い声に振り向くと、そこに立っていたのは彼女の担任であった。


「あ、先生…おはようございます」

「今日えらい早いねんな」

「ああ…そうですね」

「いつもならまだ誰も来てへんのに、この時間。放送部って朝練とかあるん?」


 岡田は喋りながら、ホワイトボードに備え付けられているペンをとった。数学科から何か連絡でもあるのだろうか。


「そういえば神子上、鷲谷の近くの席やんな」

「え、はあ」


 よりによって鷲谷の話題。返事に思わず露骨な嫌悪が滲む。


 岡田はみことの口ぶりに気づいたのか、微妙に表情を変化させたような気がしたが、確証は持てなかった。


「…神子上は、鷲谷に会ったことある? 高校に入る前」

「え? いや、無いと思いますけど…」


 岡田はまだ二十代の若手で、清潔感があって背も高く、女子生徒などから一定の人気を博している。聞いたところではこの高校の卒業生らしい。


 みことも好感の持てる先生だと思ってはいるが、とはいえ、一対一で会話するのは気まずさが勝った。まるで友人か何かのように教員と接する生徒もいるが、彼女にとって教員というのは、何とも言えぬ喋りづらさを感じさせる大人なのである。


 しかし、岡田はそんなみことの様子を感知していないのか、無視しているのか、ペンを走らせながら話しかけ続けた。


「そうなん? いや、昨日一緒に掃除してたから、前から知り合いやったんかなって」

「ああ…」


 見られていたのか。向こうが一方的に話しかけてきただけです、というセリフが浮かんだが、別に会話を広げたいわけではないので言わないでおく。


「あ、そや、神子上、先週のウィークリー不合格やったって聞いたで」

「う」


 急にまずい話になった。


「今日はいけそうなん」

「…まあ、はい」

「ほんまかいな」


 あまり自信を感じさせない返事に、岡田は笑った。


 副担任が英語科だから、そこから話が回ったのであろう。最初の頃は満点の週もあったのに。


「七時間目やったけ、ウィークリー。頑張りや」


 岡田は会話を終わらせると、六組の隣にある学年準備室に歩いていった。先生が一組に行くならそれについていこうと考えていたのだが、その目論見は崩れたようである。


 まだ生徒が登校してくる気配は無い。教室で鷲谷と二人きりになるのは避けたいが、ウィークリーの予習をせねばならぬ。このままでは二週連続で不合格の憂き目を見ることになる。


 結局、みことは階段を下りて屋外に出た。向かったのは中庭である。


 中庭の一隅には藤棚があって、椅子とテーブルも設置されていた。今の季節は暑熱と虫さえ我慢すれば割と便利な場所である。東屋の屋根を覆う植物は密度が高くないので、暗渠もできづらい。


 教室の自席がいつの間にか他人に占領されている時などは、みことはここで弁当を食べていた。今の時間、当然ながら先客はいない。


 恐る恐るデイパックを開けると、幸い白い顔はいなかった。年季の入った木製のテーブルに筆記用具などを広げ、プリントでウィークリーの出題範囲を再確認する。ワークブックと例文集。覚える例文は二十。みことは見開きに目を落とした。



 

 七時を回ると、登校してくる生徒の数も段々と増え始めた。中庭を通っていく者もいて、彼らの視線に集中力が鈍磨していくのを感じる。


 こんな場所で、朝から一人で勉強している人間はどう思われるのだろう。自意識過剰であろうが、一度気にしてしまうといけない。長椅子の下に白い顔がいるような気までしてきて、みことは教室に戻ることに決めた。まだ七時二十分くらいだが、さすがに一組にも人がいるだろう。


 そう思って教室に戻ったが、いたのは鷲谷直人と、今しがた登校してきたばかりと思しき男子生徒の二人のみであった。後者の名前をみことは知らぬ。気まずさに大きく変わりは無いように思えるが、鷲谷と二人きりでないだけましであろう。彼女は意を決して自席に足を向けた。


 鷲谷直人は、自席で本を読んでいるようであった。教卓近くの席に座る名も知らぬ男子は、みことと同じでウィークリーの勉強をしているのに、呑気なものだ。あるいは、そもそもウィークリーの存在を知らないのかもしれぬ。仮にそうだとしても、他人の机を覗くカスに教えてやる義理は無い。


 みことは、後背の鷲谷の存在など感知せぬといった風で自席に腰を下ろした。彼の方も何らリアクションを示さない。それはそれで少し無気味な気もするが、彼女は背後を一瞥もせず、表現集とワークブックを用意した。現時点で覚えられたのがちょうど半分の十文なので、このペースでいけば何とか間に合いそうである。


 そのうち一人、また一人と生徒が入ってきて、七時五十分頃には、教室内はかなり騒がしくなっていた。野々宮もそれくらいの時間に姿を見せた。駅前のアイス屋のミント味みたいな色のワンピースが、いかにも涼しげである。


 今日はみことの元に挨拶しには来なかった。野々宮には他にもたくさん友人がいるので、別に気にすることではない。そもそも、教室の入口から野々宮の席に行く途上で、普通はみことの席の近くは通らないのである。だから、ここでみことの方から挨拶しに行くのも不自然なのだ。


 みことは半瞬、瞑目した。そんなことをいちいち考える自分が少し嫌だった。英文をぶつぶつ唱え、思考を嫌悪感ごと押し流す。


 やがて八時十分のチャイムが鳴って、岡田が教室に入ってきた。その後から駆けてきた遅刻者が一人。彼は二週間以内にもう一度遅刻すれば、何らかのペナルティを課されることになる。もっとも、岡田の課すのはちょっとした雑用とか、その程度の軽いものだが。三組などは反省文を書かされるらしい。


 日直の生徒が前に出て、朝の挨拶などを済ませる。今日の日直は大築という女子生徒であった。


 日直はウィークリーテストがあることなどの諸連絡を行うのが朝の役目である。ホームルームを生徒主導で行うべきだということで、出欠の確認も生徒が担当する。先生も前に立っているが、求められない限り発言することは無い。昨日の鷲谷の件のような重要な連絡だけは、教員の口から行われていた。


 朝のホームルームが終わると、生徒たちは廊下に繰り出したり、一限目の準備をしたりし始めた。みこともデイパックから数学のノートと教科書を取り出す。背後では鷲谷直人が、「ウィークリーって何ですか…?」と隣の水原に訊いていた。こいつ、本当に知らなかったのか。


 さすがに一日経って、鷲谷への数多の好奇の視線や質問攻めといった現象は沈静化していた。もう彼は一組の要素としてそれなりに受容されたのであろう。今朝の一件のせいで、みことには受け入れがたかったけれど。


 八時二十分、一限目の数学の授業が始まったが、今日もやはり不快感との戦いであった。白い顔がいる。カーテンの裏に、教卓の下に、ガラス窓に映る教室の中に。平気な顔をして座っておくだけで、みことの忍耐は精一杯であった。


 それでも何とか授業を乗り切って、五限が終わり、放送の時間を迎えた。喋るのは道下だけなのだが、みことは妙な緊張感を覚えていた。まだ慣れていないからであろうか。


 一応、弁当箱を持って放送室に向かうと、既に道下が準備を始めていた。


「あ、神子上さん。こんにちは」

「こんにちは」


 会釈を返す。これが更なる災厄の端緒になるとは、みことは夢にも思っていなかった。

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