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第十一夜   白片の落梅は澗水に浮ぶ

 放送室に入ってきたみことを見ると、道下は座っていたパイプ椅子から立ち上がり、CDを渡した。


「ミキサーの使い方は分かるよね」

「はい」


 昼の放送にあたっては、マイクが生えている機材と、ミキサーと呼ばれる機材の二つを扱わねばならない。ところが、この二つの機材はスペースの都合なのか、室の中央のデスクを隔てて、互いにそっぽを向く形で設置されているので、円滑な放送には二人以上の人員が必要になるのだ。


 みことが担当するのはミキサーで、CDを再生し、トラックを変更したり、音量を調節したりするための機材である。


「まだちょっと時間あるし、お昼食べててもいいよ」

「あ、はい」


 みことがデスクに置いたポテトと唐揚げのパックを見て、道下が言った。


「お昼、それで全部?」

「まあ、はい。…変ですかね」

「いや、足りるのかなと思って」


 道下はにこやかに返した。本当に、人当たりだけはいいものだ。


 それにしても、今日放送で喋るのが自分でなくて本当によかった、とみことは思った。放送室に入った瞬間から、部屋の隅の棚の下に、白い顔が見えているのだ。この状況で喋れば、声に滲む不快感や動揺をマイクがひろってしまうだろう。


「そろそろだね」


 道下が時計を見やった。みことは結局、弁当に手をつけていなかった。曲が流れている間にでも食べようか。


 二人が背を向け、それぞれの機材の前に座る。みことはプレイヤーにCDをセットした。ディスクが吸い込まれたのを見届け、腕時計に目を移す。十三時になると同時に、放送開始のBGMの再生ボタンを押した。オリエンタルなムードの、独特の音楽が流れ出す。これをよきタイミングでボリュームを絞ってフェードアウトさせ、背後の道下にバトンタッチ。


「こんにちは、放送部です。これからお昼の放送を始めます」


 津川ほどではないが、彼の声もなかなかの清音である。やや滑舌に難があるのが弱点か。


「本日のリクエストは、ラジオネーム『モモンガ』さんからで、一曲目はAerosmithで『Intro』です」


 ここまでの流れは普段と変わりない。持ち主を探すくだりは最後に回したのであろう。


 「Intro」は最初のトラックだったので、みことは道下のセリフから間髪を入れずに再生ボタンを押下した。ごく微細な音と共に、CDが回り出し、やがて鳥の鳴き声のような音が流れてきた。


 道下がマイクを切るのを横目に、みことは思わず一息ついたが、このトラックは確か三十秒弱しかないので、昼食に手を出す気にはならなかった。そのまま曲に耳を傾き続ける。


 鳥の鳴き声のような音にまずはドラムの低い音が混ざり、続いてSteven Tylerのラップが入ってくる。そして終盤にギターリフが登場し、そのまま、次曲の「Eat The Rich」になだれ込んでいく。何年か前に聴いた際の記憶から、そんなことを漠然と思い出す。


『…うう…う…う…』


 ラップに紛れて、か細い、人の声のようなものが聴こえてきた。あれ、こんな感じだっけ。女の声だ。エアロに女性メンバーはいないはずだ。みことが半瞬、訝ると、メンバーのものと思しきコーラスが流れてきた。空耳だったかと思ったが、女のすすり泣くような声もまだ混ざっている。


 それどころか、段々と女の声の方が音量を増してきていないか。みことはここで初めて「…何これ…?」と呟いた。


「神子上さん?」


 道下が話しかけてきた。既に曲の方は終わり、奇怪な音声だけが流れ続けているという状況であった。


「…これ、何? こういう曲なの?」

「分かりません…泣き声?」


 表示されているトラック番号は「1」で、間違っていない。一時停止ボタンを押してみるが、機械は全く反応せず、すすり泣くような音を垂れ流すばかり。スキップボタンもやはり効果は無い。


「何で…?」


 焦るほどに白い顔の視線を感じ、更に焦る。隣で見ている道下も、困惑するばかりで役に立たぬ。


 その時、突然に音が変わった。


「わっ…⁈」


 咄嗟に耳をふさいだ。状況を理解する前に。

 

 流れ出したのは、耳をつんざくような絶叫であった。この空間のあらゆる物体を原子から震わせ、崩壊させるかのような、禍々しい音の塊であった。みことも道下も手で耳を覆ってはいるが、信じがたい音量の叫び声には無意味に等しい。


 耳孔を通じて頭蓋が、脳が揺さぶられるような感覚になる。二人ともその場にうずくまり、ミキサーに手を伸ばすことすらかなわぬ。


 動けないまま音を浴び続けていると、不意にみことは、耳から、口から、目から、毛穴から、何かが入ってくるのを感じた。全身の皮膚が粟立つ。視覚は何も感知してないのに、確かに何かが、強引に彼女の内側に浸入しようとしている。


 膝立ちすらしていられなくなり、みことは殆ど倒れ込んだ。隣では道下が、白目をむいて気絶している。嘔吐感がせり上がってきて、喉が灼けた。視界が滲む。頭の奥の方から、段々と感覚が無くなっていく。死ぬ。わけのわからないものに殺される。


 ぼやけていく景色に、突然、黒い物体が飛び込んできた。それは黒衣の長い裾で、同じように黒い靴が見え隠れしていた。人間の声のようなものも聞こえる。


 何とか目だけ動かすと、長く白い髪の後ろ姿が見えた。


 刹那、真っ暗になった。

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