第十二夜 新路は如今宿雪を穿つ(上)
梅雨明けの報道が段々と出てきて、次第に気分は夏へと向かっていた時分であった。
けたたましいコール音に午睡を妨げられた白髪の少年は、三分の二ほどしか覚醒していない足どりで、卓上の受話器へ歩いていく。
「……もしもし」
「お、やっと出た」
「三船さん。どうしたんですか」
「えらくぼけた喋り方だな。寝てたんだろ」
彼は答えず沈黙した。
「……もしもし?」
「はい」
「急に黙るなよ」
「すみません」
彼の上司であり保護者でもある人物は、わざとらしく嘆息した。電話口からは、煙草を灰皿になする音が聞こえる。
「ま、いいや。君さ、高校行く気ない?」
「高校?」
あまりに予想外で唐突な提案に、彼は二の句を継げなかった。三船は意に介さず話を続ける。
「そうそう、高校。大阪の」
「大阪? どうしてまた」
「いや、だってだね、高校までは出とかないと、さすがに大変だよ」
「その話は前もしたじゃないですか」
「そうだが……。最近の君の生活ぶりを見てるとね、さすがにちょっとまずいかなって」
痛いところを突いてくる。
「……別に、学校に行っても改善はされないですよ」
「改善の余地があることは認めるのか」
三船は電話口で微苦笑したようであった。彼ははぐらかされているように感じて、少しじりじりする。
「三船さん、ちゃんと話してください。急に高校なんて、理由があるんですよね。何か起きたんですか」
「んー……。じゃあ、ちょっとパソコン開けてみてよ」
「パソコン?」
彼は受話器を握ったまま、卓上のノートパソコンに手を伸ばした。起動させ、指示されたファイルをクリックする。表示されたのは、一人の女性に関する調査書であった。
「神子上みこと……? 誰ですか、これ」
一ページ目は、神子上みことなる人物の生年月日、住所、家族構成などがまとめられている。年齢は同学年。顔写真も添付されており、美人だが影が目立つという印象である。
「高校生になって、その娘のことを調べてほしいんだよ」
「調べるって……。この人、天蓮寺高校なんですか」
三ページほどの調査者を概観しながら彼が言った。
「天蓮寺高校なら、僕が行く必要なくないですか」
「いや、君にやってほしい」
「どうして」
「『O』ってファイル、開けてみてよ。同じフォルダの」
訝りながらも、言われるままにクリックする。表示された内容に、彼は我が目を疑った。
「……何ですか、これ」
「何って、そこに書いてある通り」
三船はこともなげに言う。
「……一般人を巻き込むんですか」
「そうなるね」
「いや、こんなの……」
彼は白い頭髪をかきむしった。あまりにも、にわかには受け入れがたい話だ。しかし上司の口ぶりから察するに、もう決定事項なのであろう。
「嫌がりそうでしょ、あの子は。やれと言ったらやるだろうけど、それで中途半端な仕事になってもね」
「嫌がるって、確かにそうでしょうけど、僕だって……。しかも、〈神戸の一類〉って、これ」
「あまり手段を選んでられる状況じゃないこと、君も分かるだろう?」
電話口の声に、不意に有無を言わせぬ微粒子が混じった。
「〈神戸の一類〉と接触できることが確認されているのは、今のところその神子上という娘だけだ。そして私たちは一刻も早く、〈神戸の一類〉と接触しないといけない」
「はい」
「こちらのことは秘匿したまま、彼女を利用できるならそれがベストだ。その方法も模索してほしい。でも、それだけでは厳しい可能性も大いにあるよね」
「そうですね」
「だから見極めて。この娘が信頼できるかどうか」
想像以上の重責が、彼の双肩にのしかからんとしている。眠気はすっかり吹き飛んで、言い知れぬ緊張感や不安が胸中に広がり始めていた。
もし彼がこの神子上という人物を見誤れば、その余波が及ぶのは自分一人では済まない。しかし彼に拒否権は無かった。他の手段を今から模索するのも、おそらく非現実的な試みであった。
「……分かりました。やってみます」
こうして彼は三か月余のブランクを経て、六月半ばを目処に学生生活に復帰することとなった。
それからは慌ただしかった。
まず天蓮寺高校には編入試験の制度があるものの、対象は高校三年生のみとなっている。神子上みことは一年生なので、三年生のクラスに編入しても意味は薄い。
「どうするんですか?」
「鷲谷直人って覚えてる? 先月くらいに話したよね」
翌日、高校のホームページを眺めながら、彼は再び上司と通話していた。
「覚えてます、結構びっくりしましたから。まだ三船さんのところにいるんですか」
先月、京都市の郊外で、三船は一人の少年を保護した。警察に頼んで身元を調べたところ、今年の三月から行方不明となっていた、鷲谷直人という大阪在住の少年であることが分かった。
なぜ京都で見つかったのか、なぜ「神隠し」と称されたほどに足取りが掴めなかったのかなど、疑問はいくつもあったが、最も奇怪だったのは鷲谷の肉体の状態であった。
発見された鷲谷には意識があった。対光反射も見られ、自立歩行もかなりできた。だが会話ができなかった。どのような質問にも、石のように黙ったままなのだ。警察に連れていってもそうであった。
失踪中に身体に異変があったのかもと種々の検査をしたところ、何と脳や心臓をはじめとする彼の臓器はことごとく停止していた。当然ながら脈拍も無い。だが彼は歩けるし、発語こそしないが、音や光に対しては正常な反応を示している。こんなことはあり得なかった。
生きているとも死んでいるともつかない鷲谷は、三船の要望により、警察ではなく三船の保護下に置かれることとなった。鷲谷の両親には、残酷なことだが現在まで報せていない(そもそも何と言って報せるのか、という問題もある)。
先月、三船からその話を聞かされた彼は、なぜ秘匿にするのか、正直なところ解せなかった。
「一日の大半は眠っているね。呼吸していないから、あれを睡眠というのか分からないが……」
「それで、鷲谷直人と今回の話と、どう関係があるんですか」
「実は鷲谷直人って、天高の生徒らしいんだよね。入学式の前に失踪してるけど、入試は合格していて、手続も済んでいる」
彼は嫌な予感がしてきた。彼の上司は、先述の鷲谷を巡る対応からも分かる通り、法律や社会規範を遵守する姿勢に欠けている。
「だから、君を鷲谷直人ってことにしようと思って」
「……無理じゃないですか、そんなの。学校に、本物の鷲谷の写真とかあるでしょ」
「その辺の融通は私の方で何とかするよ。君は安心して、引っ越しの準備をしておきたまえ」
この場合の融通とは、恐喝を意味する。彼はその被害に遭うであろう大阪府の教育委員などを思い、心中で合掌した。
初登校を目前に控えた土曜日、彼は住み慣れた宮津のマンションを離れ、単身、大阪市中央区へ向かった。三船に指定されたマンションに向かい、重いトランクを片手に二〇四号室のインターフォンを押す。
扉を開けたのは、人参色のパーカーを着た、ひょろりと背の高い男であった。眼鏡をずり上げて、戸口の奇抜な少年を凝視する。
「あ……」
「君が三船さんの言ってた子? 遠いとこからようこそ」
差し出された手を慌てて握り返すと、少し緊張が解けた。優しそうな人でよかった。
「今日から、お世話になります」
「ええよ、硬くならんでも。入って」
この男は京極冬雄といって、大学院生らしい。三船の協力者だと彼は聞いていた。無精ヒゲや手入れの行き届いていない髪など、一見では風采の上がらぬプータローという印象だが、なかなか優秀な研究者の卵らしい。
入ってみると、部屋は外観より広く感じた。ここに大学院生で一人というのは、割と贅沢なことではなかろうか。
「実はこの間、ルームシェアしてた男が蒸発しちゃって。家賃払えなくなるところやってんけど、三船さんが出してくれるって言ってくれたんよ」
なるほど。その交換条件として、彼の面倒を見ることになったのか。
京極が洗面所の隣にある扉を開けた。中にはベッドと、カラーボックスがいくつか置かれている。
「ここ、君の部屋にって考えてるんやけど、どうやろ」
「そんな……ありがとうございます」
まさか自室が与えられるとは思っていなかったので、不満などあろうはずもない。
「そら良かった。じゃあ、適当に荷物とか広げといてくれていいから。他に必要なものとかある?」
「生活必需品は家から持ってきてるので、当面は大丈夫だと思います」
「そっか。まあ、何かあったら遠慮しないで言ってや」
京極はにこやかに言うと、部屋を出、その向かい、トイレの横にあるドアの中に消えていった。どうやらあの部屋が彼の私室らしかった。論文でも書くのだろうか。
彼はベッドの脇にトランクを置くと、契約したばかりのスマホを取り出した。中学を卒業した時、学年で持っていないのは彼一人であった。校内でも唯一だったのではなかろうか。電源を入れると、メッセージアプリの通知が来ている。
慣れぬ手つきでアプリを開く。登録されている友だちは「ミフネ」のみ。そういえばこの人のアイコンは何なのだろうと思って見てみると、何と彼と彼の妹の幼い時の写真だったので驚愕した。恥ずかしく思うと同時に、こんなのずるい、とも思う。
妹は知っているのか、と彼は考えたが、あれは兄に先がけてスマホを持っていたので知っているはずだった。七つ下の妹は同じく三船の被保護者という身分で、宮津の小学校に通っている。
気を取り直してメッセージを開いてみると、三つのPDFと共に「がんば」という雑な文言が添えられていて、彼の若干の感傷も霧散した。
「1」というタイトルのPDFをタップしてみると、以前に見た調査書や、高校の校舎配置図などの資料であることが分かった。神子上みことに関する情報は、本人と接触するまでに頭に入れておくように、との追記もある。
先日は流し読みしただけだったので、あらためて調査書に向き合ってみる。
神子上みこと、四月二十九日生まれの十六歳。出生地は神戸市須磨区藻塩町。血液型はA型。出生時の姓名は吉岡みことで、父は康平、母はかおり。
小学六年生の時に両親が離婚し、母方の「神子上」に改姓。同時期、母と共に現在の居住地である大阪市東住吉区北多部に転居する。学業成績は優秀で、中学受験を目指していたが結局受けず、公立の中学校に進学。両親の離婚が影響か。
中学でも上位の成績を維持し、今年度、府内でも進学校とされる天蓮寺高校に合格。現在に至る。
末尾にはどこから入手したのか、高校入試の際の順位や、小中学校の通知表まで掲載されていた。
「う、負けた……」
神子上みことの中学卒業時の成績は全科目5。彼は体育だけ3だった。実技の部分で点を落としたのである。
まあ、本気を出せば体育だって5もとれたし、などと心中うそぶきつつ、更に資料を読み進める。三ページ目からは、周囲の人々による彼女の人物評が列記されていた。
まず、中学時代の同級生Aによる神子上みことの印象は「一匹狼のクールビューティ」。同世代の他の女子のようにやみくもにつるまず、孤高を保っている感じだったという。一方で中学時代の担任Bは、人付き合いに苦手意識のある生徒だったと評している。好んで一人でいたわけではないということか。
更にスクロールしていくと、小学校、幼稚園時代の関係者らの述懐まで書かれていた。それらによると、たまに変なことを言い出す子供だったらしい。
神子上みことに関する資料を読み終えると、次は「2」のPDFをタップする。鷲谷についての資料のようである。
神隠しにあったという少年なのだが、添付されている写真を見る限り、ありふれた男子学生という印象しか受けない。三船はこの少年の出現に何かきな臭いものを感じているようだが、それが具体的に何かは検討もつかぬ。
「3」のPDFを開こうとした時、彼は自分の背後に気配を感じて、弾かれたようにふり返った。しかし、見回しても部屋には彼しかいない。立ち上がって扉を開け、廊下に顔を出してみると、目の前に見知らぬ男がいたので思わず「わっ」と声をあげてしまった。
「どうかした?」
京極が自室から出てきた。
「いえ、あの……」
彼は眼前にのっそりと立っている若い男を眺めやった。中肉中背の金髪で、焦点の合わぬ暗い目をして
いる。
「……ルームシェアされてた方って、金髪でした?」
「え? そうやけど」
「……じゃあ、もしかしたらその方は、もうお亡くなりになっているかもしれないです」
え、と京極が息を呑む。彼は、京極には見えない男の首元に目をやった。赤黒い蛇のようなアザが痛ましく走っている。
「……そっか……でも、君が言うのなら、そうなんやろな」
京極は驚きを隠せぬ様子だが、思い当たる節でもあるのか、半ばは覚悟していたようにも見える。
「そこにおるん?」
「はい」
「……ええ奴やってんけどな」
翌日、奈良県の山中で、首を縊った男の死体が発見された。身寄りが無かったので、京極は身元確認のため奈良へ向かい、彼は早くも留守番をすることになった。
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