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第十三夜   新路は如今宿雪を穿つ(下)

 六月も暮れという日、彼はついに初登校日を迎えた。糊のきいたカッターシャツを着、その上から黒外套を羽織る。


「今日から暑くなるらしいから、上着はええんちゃう?」

「いえ、これは通気性が良いから、暑くないんですよ」


 少年はなぜか自慢げに言うと、黒いデイパックを背負ってドアを開け、鷲谷直人としての生活の第一歩を踏み出した。


 最寄りの谷町六丁目駅から大阪メトロに乗る。数日前に一度下見をしていたので、迷うことはなかった。内心では自分の方向感覚が当てになるとは思っておらず、京極に送ってもらうことも考えていたのだが、杞憂になりそうである。


 地下鉄の音を聞きながら、校内図をあらためて確認しておく。まず職員室に行かねばならなかった。


 十分ほどで文の谷駅に到着し、下車して地上に出る。駅の出口はあびこ筋という幹線道路の脇にあった。この道路に沿って真っ直ぐ歩き、マクドナルドのある十字路で右折して、と高校への経路を反芻する。


 早めに出発したつもりだったのだが、同じ出口から、彼の向かう高校の生徒と思しき背格好の人々が十数人ばかり吐き出されていて、この人々についていけば道を覚えていなくても迷わぬように思われた。神子上みことは自転車通学なので、ここにその姿は無い。


 学生たちのまばらな人流に紛れて歩いていくと、当然というべきか視線を感じた。この生徒たちは自分を何者だと思っているのであろう。天蓮寺高校は確か染髪が禁止だったので、よもや同じ目的地に向かっているとは思うまいか。好奇の視線には慣れているが、煩わしさは拭えなかった。

 

 緩やかな坂を上った先に見えてきた門には、二人の教員が立っていた。一人はスーツ姿で、もう一人はスポーツウェア。スーツ姿の方は、門を通っていく彼の奇異な姿を二度見していたが、何も言ってこなかった。地毛だと証明する手段が無かったので幸いである。


 門をくぐると、すぐ脇に駐輪場が見えた。神子上みことの自転車の写真は添付されていなかったので、彼女が既に登校しているのか、この場では分からぬ。


 南館は各クラスのホームルーム教室があるので、門をくぐった生徒の大半が南館に吸い込まれていく。彼は一人、教室ではなく職員室に向かった。


 職員室のスライドドアには、テスト前なので立入禁止だという掲示と共に、こちらは国語科のドアだと掲示があって、数学科の教員に用があるなら反対側に回らねばならぬとのことであった。面倒だなと思いつつ廊下を縦断し、数学科のドアをノックする。


「失礼します。一年一組の鷲谷です。岡田先生はいらっしゃいますか」


 ドアを開けたところにあるホワイトボードには、親切なことに言うべき内容が書かれていたので、彼は全くその通りに喋った。「大きな声で」という事項だけ守ることができたか微妙だが。


 またしても彼の風体を見た教員たちの注目を浴びる中、一人の若い男がデスクから立ち上がって、ドアの方へ歩いてきた。これが鷲谷直人の担任か。


「おはよう。……君が鷲谷君?」


 さっきそう名乗ったはずだが、信じがたいという目顔であった。彼の外見については連絡が回っていないのか。


「はい」

「教科書とか、色々渡さなあかんものがあるから、そこの机でちょっと待っておいてください」

「分かりました。お手数おかけします」


 廊下の曲がり角に、広いテーブルと椅子が置かれていた。布張りの椅子に腰かけながら、あの岡田という教師は、彼が鷲谷直人を騙る不審者であることを知っているのだろうか、と考える。三船によると、校内でも最低限の関係者しか把握していないらしいが、岡田はその中に入るのか否か。


 それにしても、仮に岡田が彼を偽鷲谷と知っていたなら、相対した時に警戒心を示すのは当然であって、その可能性に思い至るより先に自分の外見を気にしたというのは、自意識過剰なのではあるまいか。若干、自己嫌悪の苦味が滲む。


 いや、そんなことより、これから考えねばならぬ懸案がいくらでもあるのだ。


 例えば生徒。教員の口止めは三船を信頼して間違いなかろうが、万一、本物の鷲谷と面識のある生徒がいればどうするか。同じ小、中学校に在籍していた在校生はいないそうだが、中学生対象の学校説明会で知り合った、などということが無いとも限らない。鷲谷の交友関係が狭いことを祈りつつ、いざという時の対応策は考えておかねばならなかった。


 そのうち、岡田が厚い封筒を複数抱えて、職員室から出てきた。腕時計を一瞥してから、彼に向き合う格好で腰かける。


「……えっと、これが教科書とか、諸々の書類になります。各教科から配布されるものもあるかもしらんけど、また見ておいてください」


 会釈しながら封筒を受け取る少年を見る目に、無聊や不信の色が見てとれる。話しぶりもやや切り口上である。これは知っているな、と彼は判断した。一体何と説明されたのだろう。


「教室がどこにあるかは知ってますか?」

「大体は」

「そっか……。じゃあ、八分くらいになったら一緒に上がるから、もう少しここで待っててくれますか?」

「分かりました」


 再び席を立った岡田を見送りながら、彼は少しあの先生を気の毒に思った。真面目そうな人なのに、このような珍奇な企みに付き合わされるとは。


 八時八分になり、彼は岡田に連れられてテーブルを離れ、二階に上がった。一年一組の教室に到着すると、ちょうど八時十分のチャイムが鳴る。岡田が合図してから教室に入るよう言われ、彼は廊下で待つことになった。


「えー、知ってる人もおるかもしらんねんけど、今日から鷲谷が学校に来れることになりました」


 生徒たちがさんざめくのを耳にしながら、彼はスライドドアを開け、教室に足を踏み入れた。その姿に、一斉に驚き、次いで好奇の視線が注がれる。「えっ」とか「朝、見た人や」などと声を発する生徒もいる。だが、どれも有象無象でしかない。教卓の脇に立って向き直る。


「えっと…初めまして。……鷲谷直人といいます。あ、名前書いた方がいいですか」


 平然と偽名を名乗りながら、彼の両眼は目的の人物を探していた。廊下側の前から五番目の席。写真で見たのと同じ人物が座っている。目が合った、などと気取られぬよう、視界の隅で観察する。


 うなじの半ば辺りまでを覆う長さの髪は、月夜の涼しい空のような色であった。襟足は夏燕の尾羽を思わせる。目元は清爽として唇は薄く、色も白くてすっきりした顔立ちで、「クールビューティ」と評されるのもうなずけた。


 ここまでは写真を見た際の所感とほぼ同じなのだが、実物を目の当たりにして初めて気づいたことがあった。目が違う。瞳の様子が他の生徒らと違う。


 一見しただけだと、黒目がちだという印象、あるいは色気未満の何かが感じられるという程度なのだろうが、彼は最初から観察する姿勢で臨んでいたので、瞳に覗く暗さに気づいた。


 光が無いというわけではない。だが、見る者に著しい遠さを感じさせる暗闇である。その闇の向こうには、他人には絶対的に理解できない世界が開けているように思えるのだ。


 こんなことは、よほど彼女の外貌に固執して観察しないと知覚しがたいのだろうが、特に他意なく接した人間でも、一種の近づきがたさは覚えるのではあるまいか。だから「一匹狼」という評はいささか極端としても、交友関係が狭くなっているのではないか。


 そんなことを考えていたので、自分が何を喋っているのか、特に意識もしないまま簡便な自己紹介を済ませ、神子上みことの背後の席に座る。彼女に接近する方策を検討し始めた矢先、隣席から声がかかった。


「なあ、何で休んでたん? ……神隠しってほんま?」


 誰だこの男、と一瞬思ったが、彼の席が分かるように手を挙げた生徒だ。名前は分からぬ。鷲谷直人と神子上みこと以外の生徒の名前は、リストを貰ったものの殆ど記憶していなかった。人の名前を覚えるのは得意ではないのだ。


 初対面の生徒からの直截な質問に、必要最低限の返事で応じていると、今度は隣の隣の席に座る女子生徒が声をかけてきた。この髪が地毛かだと。


 結局、その日は昼休みに至るまで、彼は色々な生徒に話しかけられ、その対応に追われることとなった。自分からコミュニケーションをとるのが得手ではないから、話しかけられるのは決して悪い気はしないのだが、今の彼にとって本意ではない。


 しかも、肝心の神子上みことは全く彼に寄ってこない。調査書の通りというべきか、休み時間も一人で席に座っているばかりだ。その様子に、以前の自分自身を見たような気もして、彼は不本意に不快を重ねた。


 とはいえ、このままだと神子上みことに接触する機会は得られそうにない。監視するならそれでも支障は無いが、彼の上司は「見極めろ」と言った。三船のプランを実行するには、神子上みこと本人の意思に基づいた協力が必要なのだ。


 勿論、本人に気取られぬよう彼女を利用する手もあり、また、本当はこれがベストな選択肢であった。ただ実現可能性が薄く、同時並行で検討してはいるが、この手段のみに彼と彼の組織の命運を預けることはできぬ。


 ならば、やはり観察するだけではなく、直接に彼女と関わり、信頼に足るかを判断せねばならない。もし信頼に値せぬのであれば、強制的に協力せざるを得ない状況に追い込むか。いずれにせよ時間的な猶予が無いので、気の進まない限りだが、何とか自分からアクションを起こすしかない。


 昼休み、彼は美術室に足を向けた。本物の鷲谷は芸術科目の選択をする前に失踪していたので、美術に決めたのは彼である。別に絵が好きなわけではなく、神子上みことが美術選択だったことが理由であった。


 道に迷う可能性を想定し、神子上みことの監視は一旦諦めて早めに美術室に向かったのだが、迷わなかったので彼が一番乗りで到着してしまった。


 ここでもまた、担当の古村という教師に話しかけられたり、後からやってきた見知らぬ生徒に質問されたり、遠巻きにじろじろ見られたりした。元来、対人関係が下手な彼は、おかげで授業が始まる前にすっかり疲労していた。この際、神子上みこと以外の人間には気を遣わず、邪険に接してもいいような気がするが、情報源になるかもしれないので、そういうわけにもいかぬのだ。


 授業も邪険に受けてしまえばいいと思ったが、体内のどこかに転がっている優等生の残骸のためか、彼は背筋を伸ばして座学に取り組んでいた。勿論、古村の説明に耳を傾けつつ、神子上みことの観察も続けている。そして六限目の途中、彼はあることに気づいたのであった。


 美術室の後方には、イーゼルやデッサン用の胸像などが林立していて、彼の座る九班の机の近くにも、描きかけと思しき五号くらいのキャンバスたちが、イーゼルに載せられ並んでいた。そして、白布に覆われたそれらの間にできた影に、何とも無気味な白い顔が浮き出ていたのだ。


 首や腕があるわけでもない。ただ顔だけが、異常に生々しいレリーフのようにして、彼の肩くらいの高さにいる。それはあまりに奇怪な光景であった。大きく見開かれた両眼は血走り、ほぼ色の無い唇は固く結ばれ、頬は頭蓋の形が分かるほどこけている。頭髪は影と同化しているのか、禿頭なだけなのかは判然としないが、男であるように見えた。


 そういえば一組の教室にもこんなのがいて、一度、自分と目が合ったような気がしたのだった。その時は、見知らぬ生徒に話しかけられた拍子に視界から消えたので、特に気にも留めなかったのだ。


 今、再び眼前に現れた白い顔は、今度は彼がいるのとは違う方を向いているように見える。その視線を目で辿ってみると、その先にいるのは何と神子上みことではないか。ひどく顔色が悪く、同じ班の生徒に心配されているようである。


 教室で目にした白い顔も、彼を見ていたのではなく、神子上みことを見ていたのであろうか。試みに額の辺りを指で小突いてみたが、微動だにせず彼女の方を見続けている。食い入るようなまなざしである。


 神子上みことの方に目を向けると、彼は危うく笑いそうになった。彼女はあまりに呆然としていて、表情筋の一切が弛緩してしまったかのようであった。あんな間の抜けた顔をするんだ、とおかしく思いながら、同時に、彼女にもこの顔が見えているのだ、と確信する。顔色が悪かったのもこれのせいなのだろうか。そう危険なものには見えないが、どうなのだろう。


 彼は一抹の親切心と多分の好奇心から、少し力んで、人差し指を白い顔の左目に突っ込んだ。水っぽい木の実を押し潰すような音がして、指先が眼窩に潜る。引き抜くと同時に白い顔の形は崩れ、黒いヘドロのような物質に変わり、キャンバスや床を静かに汚した。これは後で掃除しないといけないな、と思う。


 案の定、神子上みことの視線は彼とキャンバスの辺りに釘付けになっていて、授業など全く耳に入っていないようであった。リアクションが面白いからと、つい調子に乗り過ぎてしまったかもしれぬ。気を引くことにはなったろうが、変に警戒されてしまってはまずい。


 彼は自省しつつ、神子上みことと接触する方法について思いを巡らせた。

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