第七夜 夢の裏
ドアを開けると、静寂がそこから流れ出してきて、身体にまとわりつくような奇妙な感覚にとらわれた。外の共用廊下も静かなはずなのに、おかしなことだ。
ブレザーを抱えて玄関に入ると、いつも通りみことの他に人間はいない。学校から帰ったら「ただいま」という台詞を言っていたのはいつまでのことだったろう。母は早くても夜の十時か十一時まで帰らぬ。
ドアを施錠したみことが最初にやったのは、電気を点けることであった。ベランダからのカーテン越しの明かりで、家の中は十分過ごせる程度の薄暗さだったが、彼女にはそれが不快なのである。中途半端な闇では、白い顔の姿が目に入る可能性が高まる。暗渠も影も、なるべく無くしていたいのだ。
玄関にあるスイッチで点くのは廊下の照明のみなので、あまり感心しないと思いつつ、手を洗わずにそのまま歩き、廊下の先にあるダイニング、リビングのスイッチも押す。窓から入る自然光と共に、家の中がやたらと明るくなった。玄関の足元灯まで点いていて、まるでお化けを怖がる子供の留守番である。
しかし実際、それと大差ないか、と自嘲しながら、みことはブレザーとリボンタイを廊下に放り出し、洗面所の電気を点けて手を洗い始めた。鏡を見ず、ひたすら蛇口と手元と水道水の流れに目を落とす。
それにしても、鷲谷や純はあの気色悪いものが見えていて平気なのだろうか。二人のみならず、もし本当に誰でも白い顔を認識できているなら、どうしてかくも何気なく生活できるのだろう。
みことなど今日のようにひどい日は、精神状態に加えて体調もダメージを受け、授業中に座り続けているだけでやっとなこともあるのだ。しかし大抵の生徒は平然と授業を受けている。あるいはそう見えているだけで、みんな内心は艱難辛苦しているのか。
だが、みことの記憶では、母はあれを認識していないはずだ。そして、母が分からないということは他の人にも分からず、したがって彼女にだけ見えるものだと結論づけたのだ。それは果たしていつのことだったか。
またも出口の見えない思考を引きずりながら、みことは洗面所を出て部屋着に着替え、廊下に放り出したブレザーなどを片付けた。カッターシャツだけは洗濯機に入れる。明日からは半袖のシャツにしようか。
彼女の部屋着は、白地のTシャツにグレーのハーフパンツで、どちらも何の柄も無い、ごくシンプルなものであった。別にこだわりを持ってシンプルにしているのではなく、無難なものを適当に選んでいるだけである。
みことはファッションやお洒落には興味が薄く、よほど悪趣味でなければ何でもいいと思っていた。実際には、部屋着に至るまで人目に無難かどうかを気にしているのだが。
着替えたみことは自室の勉強机に向かった。明日は火曜日だ。ということは、古典のプリントの提出と、英語のウィークリーテストの予習をせねばならぬ。確か、プリントの方は週末に半分くらいやって放置していたのではなかったか。そう思ってクリアファイルから取り出してみたが、三分の一も埋まっていなかった。
みことは元々少なかったやる気を更に減殺されて、かなり散らかっている机に頭を投げ出した。しかし、髪を通して伝わってきたのは机の感触ではなく、ひんやりした厚紙の感触である。目だけ動かすと、小学生の国語の教科書の裏表紙が見えた。どうしてここにこんなものが。
今、机を整理しようか。岡田も、目に入る情報は少なくした方が集中できると言っていた。そんなことを思い出しながら頭を上げる。
二段目の棚に至るまで、破裂寸前なほどにノートやプリント、教科書が詰め込まれた勉強机が目に映った。少し触れれば崩壊しそうな部分もある。母からは度々整理するよう言われていたが、みことは一向に従う様子を見せなかった。なぜなら、これは自衛の策だからだ。
白い顔は暗渠や影に現れる。だが、どこもかしこも限界まで物を詰めておけば、そのような暗がりは生じづらくなる。実際この机では、椅子のたもとや机の下を除いては、白い顔が出現することはほぼ無かった。
しかし、勉強机の棚の部分はそれでいいとしても、書きものをするスペースまで物で溢れかえっているのは問題である。やはり掃除しなければならないか。
ところが、今は前期中間考査まで二週間を切っているのである。この時期に惹起する整理整頓への欲求が、現実逃避の典型的な症状だということくらいはみことでも分かる。学校ではもう夏休みの話題で盛り上がっている者もいたが、本当はそれどころではない。
結局、眼前の国語の教科書を撤去するくらいの応急処置はするにしても、彼女のやるべきは古典のプリントであった。十ページくらいの冊子で、かなりの分量の文法問題集だが、提出したとしてキョンシー先生はまともにチェックできるのか。
みことの古典の成績は芳しくない。理系科目はそこそこ良いのだが、古典と英語はからきしだ。本人の努力不足と情熱不足のせいも大いにあろうが、古典の場合は、授業の質も原因に違いない。
純のいる三組の古典の担当はなかなか面白い授業をしてくれるらしい。羨ましい限りだが、三組では現代文がキョンシー先生のため、安直に「三組がよかった」とは思わぬ。
脳内で止まらない愚痴を一旦堪え、プリントの問題を真剣に検討してみる。が、案の定分からぬ。彼女の頭にある古典文法の知識は、例えば変格活用はラ行とナ行と、他に思い出せないのがいくつかある気がする、といった、蜃気楼のように頼りないレベルの代物で、そんなことではごくごく易しい問題以外は解ける道理が無いのであった。
みことは仕方なく、机上に強引に置いたデイパックから文法書を取り出したが、その拍子にシャープペンシルが床に落ちてしまった。行儀の悪い右肘を呪いながら、椅子の下にいるであろう白い顔を極力見ないよう、思い切り腕を伸ばして拾い上げんとする。
指先で辛うじて届くか、という距離だったのだが、横着をしたせいで拾うどころか弾き飛ばしてしまった。ペンは椅子のたもとから、机の下の隙間へと転がっていき、姿を消した。
みことは脳内を走る神経の一本一本を手に変えて中指を立てながら、再び机に突っ伏した。腹立つ。もう寝たろか。
そして本当に、そのまま眠ってしまった。
濃淡の異なる闇の流れが、鈍重に渦を巻いている。そんな光景が至るところで繰り広げられていて、無数のミミズが密集して蠢くのを見ているようだった。
視界は擦り切れたフィルムのようにひどく濁っている。しかし、何も見えないというわけではない。現に自分の左右には、商店街のシャッターと思しき線が、闇の濁流の中、白黒にぐらぐらと燃えている。これなら、辛うじて歩いていけそうだ。それが確認できると、闇の中にふっと足を踏み出した。
ここを真っ直ぐ歩いていかねばならぬという意識だけが、ただあった。なぜかは分からない。思考は、この視界よりもずっと不明瞭なように思われた。
歩いていると時折、混濁した闇の中を、白いひびのようなものが歩いていくのが見えた。あれらはどこへ向かうのだろう。そう思ってぼんやり見ていると、一瞬、そのひびの足元に、白い顔が横たわっていたような気がした。途端に激しい不快感に襲われ、踵を返す。
見たくないものがちょうど見えてしまうような暗闇だ。それが一番質が悪い。
やがて、前方に駅のような建物が見えてきた。そこで自分が、塾に向かっているのだということを思い出した。そういえば背中のリュックには、筆箱やテキストが入っているのだ。
間もなく踏切が現れた。だがそこだけが、明確に境界を引かれているかのように何も見えぬ闇だった。この闇の濁流の中で、流れていくことを知らない完全な闇であった。
ここを渡っていくというのか。しかし、逡巡している時間はあまり無かった。遅刻するわけにはいかぬのだ。
意を決して一歩中に入ってみると、確かに何も見えなかったが、普通の踏切と大差無かった。遮断機などこそ見当たらないが、どこに進めばいいかは何となく分かる。時折、やはりあの白いひびとすれ違ったが、何かしてくるわけでもない。白い顔は、最初は至るところからこちらを見ているように感じていたが、今はいないように思われる。
踏切を抜けると、そこは再び濁った闇であった。道路の向こうには、商店街のアーケードが見え隠れしている。あれを通って真っ直ぐ行けば塾だ。授業には間に合いそうである。
アーケードをくぐり、相変わらずのシャッターの並びの間を歩いていく。足元に側溝があったが、その中を覗き込んだとしても、白い顔と出会うことはないように思われた。重畳である。
そんなことを考えていると、やがて見知らぬビルのような建物が左手に現れた。白黒にぐらぐらと燃えて浮かび上がるその姿は、不明瞭な視界ではっきりとは分からなかったが、かなり汚く古いように思われた。
窓などはみとめられないが、眼前にはこの闇の中、いやにはっきりとしたエントランスが口を開けていて、白いひびたちがゆらゆらと吸い込まれていっている。その時、不意にそこが塾であると思われて、抗いがたく誘われるように中へ踏み込んでいった。
エントランスは狭く暗く、屋内でも視界は濁っていた。人影は無かったが、白いひびたちが、闇の濁流の狭間を回遊するように歩いている。目を凝らすとどうやらエレベーターがあるらしく、白いひびたちもそこに流れ込んでいるようであった。他に扉なども無いので、乗り込んでみることにした。すると勝手にドアが閉まり、ボタンも押さないのに動き出した。
エレベーターは時々停まり、その度に白いひびが乗り込んできて、次第に満杯になってきた。それでもなおエレベーターは上がり続け、一体今は何階なのか見当もつかぬ。
だが、あるフロアに停まった時に突然、白いひびたちが一斉に降り、それらに押し出されるようにしてエレベーターから出た。降りてみると、そういえばここが塾のフロアだったような気もしてきた。
やはり明度と彩度の低い視界だったが、この階は建物の外観に似合わずきれいなように思われた。だだっ広い空間の中、黒い柱がまばらに立っていて、そこからカーテンのようなものが生えている。それらはひらひらと揺れていて、白いひびたちはその周りをうろついていた。
部屋の奥にはベッドのようなものが見えた。ここは病棟なのだろうか。しかし柱の間には、机や椅子が散在しているようである。では、ここは教室か。
「ぐわあああ!」
自分でもわけのわからないうちに大声を出していた。目を開けて身じろぎしようとすると、何か頭上に重さを感じる。同時に、思い出したように鈍痛が襲ってきた。無理に頭を持ち上げてみると、分厚い社会の資料集や、しわくちゃのプリントらが次々、眼前を滑り落ちていった。
強引な使い方をされた棚の一部が何かの拍子に決壊し、詰め込まれていたものが雪崩と化して、うたた寝するみことの上に降り注いだらしい。机上には、みことの頭があった辺りを除けばことごとく古い教科書やノートが積もり、床にまで物が散乱していた。だる。
何気なく視線を移すと、デジタル時計は午後八時を過ぎていることを示していた。寝過ぎた、とみことは思った。帰った時はまだ六時にもなっていなかったのに。
雪崩から古文のプリントを救出すると、直しがたいシワが寄っている上、少し湿っていた。自分は涎を垂らして寝ていたのか。ここに今またシャープペンシルを走らせる気にはなれず、みことはプリントを脇に置いて、勉強机を原状に復し始めた。
棚を空にしても影や暗渠はできないのだから、いっそ全て捨ててしまえばいいように思われる。実際、先程みことを叩き起こした小学、中学時代の教科書など、要らないものはかなりあった。
だが、中には保管しておきたいものもあって、それらだけでは棚の全てを埋められないものだから、不要なものも一緒に残しておかざるを得なくなっているのだ。
そうして片付けていた時、みことの脳裏に一つのアイデアが去来した。彼女の勉強机の棚は二段になっており、仕切りによって全部で五つに分かれている。そしてそれらの全てが、要るものと要らないものとで限界まで満たされていた。
ならば、五つの棚から要るものを糾合して一つか二つの棚を埋め、他の要らないものは捨ててしまえばいいのではないか。机も整理された雰囲気が出て、母から何か言われることも無くなるであろう。我ながら素晴らしい思いつきだ、とみことは自賛した。
しかし、今からそのアイデアを実行に移す気力は無かった。夕食を作るか買うかせねばならぬのだ。やるならせめて中間考査が終わってからにしよう、とみことは決め、再び落下した教科書を手に取った。
棚に黄ばんだプリントをねじ込みながら、そういえばまた変な夢を見た、と彼女は思い出した。小学校の頃に通っていた塾に向かう夢だ。今朝も見たのではなかったか。寝る直前に、小学校の国語の教科書を目にしたせいだろうか。しかしそうなのであれば、学校に登校する夢などになるのでないのか。いずれにしても、愉快な夢ではなかった。
その時、棚に戻そうと拾った方眼ノートに、一枚のプリントが挟まっているのが目に留まった。引きずり出してみると、「ハイレベル算数 小テスト」という文字が躍っている。まだあったのか。全部捨てたと思っていたのに。
みことは机から離れ、自室の隅のゴミ箱に向かった。一枚くらい無くなっても棚を埋めるのに支障は無い。ところが捨てんとする直前、プリントに名前が書かれているのに気がついた。テストだから当然だ。
半瞬、どうしようかと惑うたか、間もなく意を決して、「吉岡みこと」と書かれたプリントをズタズタに破り裂いた。
面白いと思っていただけたら、ブクマ、感想、評価などお願いします。




