第六夜 潭心に月泛んで枝を交ふる桂
「あの、そろそろ帰るから、鍵お願いします」
課題をやっていた道下が、荷物をまとめて立ち上がった。これから予備校の授業らしい。
「お、もう五時やん。神子上ちゃんも出る?」
「あ、はい」
間もなく午後五時を告げる放送が流れた。ホームルーム教室はこの時間になると施錠される。その時間まで自教室にいることは、みことは滅多に無いが。
道下は早々に立ち去ったので、みことと津川で部室を施錠した。帰る前にポストの中身を確認したが、空であった。
「神子上ちゃん、自転車だっけ」
「はい」
「そっか。じゃ、私あっちだから、鍵も返しとくわ」
津川が事務室の方向を指した。駐輪場とは反対である。
「あ…ありがとうございます」
「うん。お疲れ」
「お疲れ様です」
何も疲れるような活動は無かったがそう言って、みことは部室を後にした。
外に出ると、五時過ぎの空は全く明るかった。中庭の芝生ではラグビーボールが、体育館前に広がるコンクリートの地面ではテニスボールが跳ねている。運動部は熱心だな、とみことは思った。
文化部の活動への熱量は、部によって本当に様々である。放送部は緩い部類に入るだろうか。彼女にはその方が好ましい。特に興味を持って入部したわけではないが、割とみことは放送部を気に入っていた。
駐輪場の自分の自転車の元に歩いていくと、後輪と地面の間に挟まっている白い顔が目に映った。一人になるとすぐこれだ。クソッタレ。
なるべく見ないように自転車を出し、転がるテニスボールに足をとられそうになりながら門へと歩く。裏門の向こうには、朝と同じスポーツウェアの先生が一人で立っているのが見えた。
誰かと話している時、白い顔が見える頻度がましになる傾向があった。経験則だが、あれはどうも精神状態と連動して出現するらしいのである。心に何らかの不調、変調があると、やたらと目につくようになるのだ。だから、家に一人きりで終わりのない思考に沈んでいくよりは、誰か話し相手がいるかもしれない学校に、なるべく残っていたかった。
そんなことを考えていると、校門の前で見知った顔に出会った。
「あ」
「あ、みことちゃん」
頭に小鳥でも飼っているのかと思うほどの蓬髪の少女が、桜をまぶしたような色の頬を嬉しそうに染めた。
「今、帰るところですか」
「うん。純ちゃんも?」
「はい」
彼女の名前は倭文川純といった。イカスミ味のわたあめのような癖毛が印象的である。校則でパーマは禁じられているので、地毛でこうなっているのであろうが、にわかには信じがたい。
両眼は前髪にほぼ隠れていて、少し昔の米津玄師みたいになっている。右目などもはや前が見ているのか分からぬほどで、他人からは左目の様子が辛うじて把握できるくらいである。なんでも右目が先天性の眼病で異常に小さいらしく、あまり見せたくないのだという。
テニス部員の練習の邪魔にならないよう、裏門の脇に寄って二人は立ち話を始めた。
「…あ、純ちゃん、それ」
「え? 何ですか?」
「顔に何か…青いのがついてる」
顎と左頬の間辺りに、スカイブルーのホクロができている。
「青…? あ、多分絵の具ですね。とれなかったのかな」
「ああ、美術部の?」
「はい」
彼女は絵がべらぼうに上手く、美術部と文藝部に所属していた。
「あ、そうだ、今日私のキャンバス見たら、被せてた布がすごい汚れてたんですよ」
「キャンバスの布?」
「黒い汚れがもう一面についてて…。絵の具ではないみたいで、何なんだろうって」
「そ、そうなの…?」
キャンバスの白布についた黒い汚れといえば、みことには思い当たることがある。今日の美術の授業中、あの鷲谷という生徒が白い顔を潰した時に流れ出た、どす黒いヘドロのような物質。
しかし、白い顔は彼を除き、他人には見えていないはずだ。もしかしたら、眼前に立つこの蓬髪の少女も、あれを認識できているということなのか。それともみことが知らないだけで、本当は誰にでも当たり前に見えているものなのか。いや、そんなわけ。
「…その黒い汚れって、純ちゃん以外の人も見えたの…?」
「え?」
絶対、変なことを尋ねたと思われている。しかし問わずにはいられぬ。
「…見えてましたよ。他の人とも、その汚れのこと喋りましたから」
純は顔についた絵の具の辺りを触りながら答えた。この暑いのに長袖であった。もっとも、みことの自転車の籠にも、丸めたブレザーが入っているのだが。
「見えてたんだ…」
「はい…?」
彼女はいかにも不思議そうな顔をしているが、みことはそれを窺うどころではない。ここ数年間の人生における常識に、ひどく大きなひびが入ったのだ。誰かが指先で少し力を込めて触れれば、もうすっかり崩れてしまうかもしれない。
「…みことちゃん、どうかしたんですか?」
「…ううん。ごめん、変なこと訊いて。引きとめちゃったし」
「いえ、全然。みことちゃん、帰り道あっちですよね」
「うん。純ちゃん、あれか、近鉄か」
「少数派です。みことちゃんは家近いんですよね」
「とばせば五分でいけるからね」
「いいですよね、家近いの」
みことが「引きとめちゃった」と言った時点で、そろそろ解散する流れだったはずなのだが、結局また喋り始めてしまう。そのまま更に十分ほど、門の前で他愛ないことを話し続けた。
「あ、引きとめちゃいましたよね。ごめんなさい」
「いや、全然いいよ」
「そろそろ帰りましょうか」
「うん」
もう時刻は午後五時半に迫っていた。二人の学生は手をふって別れ、それぞれ反対の方角に歩いていった。
純と別れてから、みことは何となく自転車を引いて歩き続けていたが、校舎の角を曲がったところでサドルに跨った。
考えてみると、近鉄の駅から乗るのなら、この校舎横の路地を抜けた先の角までは、一緒に行っても大して距離は変わらないはずだ。それなのに裏門のところで別れたのは、みことに対して何か思うところがあったのか。やはり変な質問をしたのがまずかったか。
危うく歩行者に衝突しそうになって、彼女は慌てて思考を振り切った。急ブレーキでバランスを崩しかけるも、辛うじて踏みとどまる。
「す、すみません…」
灰色の髪の老婆は、謝罪するみことをものすごく睨みつけてきたが、何も言わずに立ち去っていった。少し接触してしまったかもしれぬが、あの様子なら問題あるまい。
もう、本当に考え過ぎはよくない。これは私の悪い癖、などと、母の好きな刑事ドラマの台詞に似た文言が頭に浮かぶ。純があそこで別れたことに他意があるなど、客観的に見てあり得ないではないか。ごく自然なことだ。
変な考え事をしていたせいか、自転車の荷台に押し込まれたブレザーに、白い顔がくるまれているような気がしてきた。そこの家と家の間の暗渠からも、背後からも、こちらへの視線を感じる。冷たく、ねめつけるような視線だ。みことは逃げるように自転車を駆った。
いつの間にか、空には夕方の色彩が混ざり始めていた。昼と夕の境目は、ひどく白っぽい色に見えた。
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