第五夜 天外の遊糸は或は有無なり
放課後、みことはブレザーを小脇に抱え、南館の一階にある放送室に足を向けた。彼女は放送部に所属しているのだ。
白い顔のせいで気分は優れなかったが、家に帰るのも億劫であった。今帰っても彼女一人なので、余計にあれのことが気になるかもしれぬ。誰かが同じ空間にいた方が、気もまぎれよう。
部室たる放送室は、職員室の向かいに存立していた。厚い防音扉で中の様子を窺い知ることはできない。扉の脇にはハンドメイドの哀愁が色濃いポストがあって、生徒がCDを投函できるようになっていた。
投函されたCDを昼休みの時間に流すのは、放送部の主要な活動の一つである。放送は毎週火、木曜日に行われている。CDを持っている学生は存外いるようで、みことの知る限り投函は絶えたことがない。
部室に入ると、一人の男の部員が、放送機材の方を向いて座っていた。みことの入室に気づいて振り向くと、柔和そうな眼鏡の相貌が現れる。部長の道下であった。
「こんにちは、神子上さん」
「こんにちは」
みことは会釈する。この部長は、真面目な雰囲気で人当たりも良いのだが、どうにも頼りない面があった。五月の運動会の時期、放送部は運営のために恐ろしく多忙になるのだが、その折にみことは、彼の脆さを痛感させられたのである。
「明日の放送、神子上さんと僕だよね」
「はい」
昼休みの放送は、二人一組で行うのが原則であった。
「あれ、リクエストのあったCD、一応確認しておいて」
先輩の指した机上のCDに目をやる。
「Aerosmithですか」
ジャケットには、ピアスをした牛の乳首が描かれている。
「神子上さん知ってる? またK-POPかな」
「いや、アメリカのバンドですね」
「へえ、珍しいね」
広くはない部室にある丸椅子の一つに、みことは腰を下ろした。入部した際、投函されたCDは絶対に破損させてはならないと厳命されていたので、慎重に手にとる。
Aerosmithは世代ではないが、みことは何曲か知っていた。彼女は音楽が好きなのだ。特にバンドサウンドが好みであった。洋楽はそこまで聴くわけではないが、それこそミセスや髭男から、果てはザ・タイガースやブルー・コメッツまで手を出していたこともある。要するに雑食であった。
「…あれ」
みことは裏面に書かれた曲名を一通り読んでから、あることに気づいた。
「先輩、これのリクエストシートって無いんですか」
リクエストシートは、CDと一緒に投函される用紙で、流してほしい曲名を三つまで書くことができた。このシートには、生徒にCDを返却する際に必要な記名欄もあり、無いと困るのであった。
「ああ、それなんだけどね…」
道下は立ち上がり、短冊大の紙をみことに見せた。リクエストシートである。
「曲名とラジオネームは書いてるんだけど、名前が書いてないんだ」
「あー…」
先輩が立ち上がった拍子に、放送機材と椅子の隙間にいる白い顔と目が合ってしまって、話の内容は半分程度しか理解できていなかった。
「でもそれ、順番的に流すの明日やん。どうすんの?」
突然背後から声がして、みことは驚いた。いつの間にか扉が開いていて、副部長の津川という女子生徒が顔を覗かせている。結構なおでこの不美人であったが、事務能力は道下よりずっと優秀で、後輩からも信望を集めていた。運動会を乗り切ることができたのも、この人のおかげである。
「どうすると言われても…」
「ていうか、気づくの遅くない? 割と前に来たやつじゃないの、それ」
「そうだけど…」
扉を閉めながら追及する津川に、道下はたじろぐばかりである。
「…まあ、しばらく顔出してなかった私も悪いか。誰のか調べてる時間ももう無いし…」
「あの、明日は別のCDを流すんじゃダメなんですか」
みことがおずおずと口を開いた。津川の突然の来訪のおかげで、白い顔から意識を逸らすことができた。
「いやー、前にそれやって揉めたことがあるんよね。アホな部員がおってさ、自分の好きなアイドルのCDを勝手に順番変えて先に流してんけど、それが何でかバレて、文句言い出した生徒がいてさ…」
口ぶりから察するに、先輩が一年生の時に起きたトラブルらしい。よほどクレームの対応が面倒だったのか、心底鬱陶しそうな回想である。
「ちょっと、一回CDかけてみる? 万が一、変な内容やったらまずいし」
「そ、そうだね。変なやつじゃなかったら、もう明日に流して、最後に放送で持ち主に呼びかければいいよ」
津川の提案に道下が賛同し、無難な結論に落ち着いた。放送が流れない状態で、津川がプレーヤーにCDをセットし、再生ボタンを押す。流れてきたのは、みことには聴き覚えのあるイントロだった。
「えーと、次は二曲目か。頭から順番に書いてるだけやん、これ」
津川は曲にはあまり興味の無い様子で、二、三十秒ほど聴くとスキップしてしまった。そのまま、リクエストシートに書かれていた三曲全てを確認する。
「何も無さそうだね」
「せやな。一応、市村先生に報告しとこ」
市村嘉代子は放送部の主顧問である。英語科の五十女で、普段は温厚だが、怒ったら恐ろしいことで有名だった。
先輩がCDをケースに戻し、この件はそれで終いとなった。みことは最初、持ち主探しのためにマニュアル外の台詞を放送せねばならないのかと少し緊張したが、明日マイクに向かって喋るのは道下だったことを思い出して安堵していた。一方で、妙に嫌な予感も覚えていた。なぜであろう。
最終的に、みことも先輩らも十七時頃まで部室にいた。別段、部としての活動があったわけではなく、道下は明日提出の課題をやっていたし、津川はずっとスマホをいじっていた。校内では使用禁止のはずだが。
みことも、明日自分が担当する機材の操作方法を確認した後は、ずっと本を読んでいた。読書は大して好きではなかったが、定期的に感想文の提出があるので読まざるを得ない。何も読まないで適当に書いている生徒もいるらしいが、さすがにそこまで横着はできなかった。
「神子上ちゃん、源氏物語とか読むんや。意外」
突然話しかけてきたのは津川であった。
「あ、いや、そんな好きとかいうのではなくて…」
「ああ、あれか、千冊?」
「はい」
この高校では入学と同時に、国語科の先生たちが制作した本のリストが配布される。千冊と謳われているが、誰が数えたのか、実際の掲載冊数は千を超えているらしく、感想文の課題はこの中から選ぶことが推奨されていた。みことが何の興味も無い「源氏物語」(現代語訳版)を読んでいるのはそのためである。
「あ、そういえばさ、一年に転入生来たってほんま?」
全く別の話題を出す。津川はあまり会話に脈絡を必要としないタイプであった。
「転入生っていうか、不登校だった人が登校してきたって感じですね」
鷲谷直人について簡単に説明する。彼の奇抜な容姿については、既に津川も聞き及んでいたようである。噂が伝播するのは早いものだ。
「じゃあ、不登校っていっても、ほぼ知らん子が来た感じなんや」
「そうですね。同じ中学の人とかもいなさそうでした」
背後の席で鷲谷は始終誰かに話しかけられていたが、「久しぶり」みたいなセリフは一度も耳にしなかった。元からの知り合いはいないと考えるのが妥当である。みことも同じ中学校の出身者は他クラスに一人いるのみなので、そう珍しいことでもなかろう。
「何か、あれやね。もしかしたら、その子、本当は鷲谷君じゃないかもよ」
「ええ?」
「だって、誰も鷲谷君に会ったことないんやろ?」
「そうですけど…」
「ほら、源氏物語にもそんな話あるやん。別人になりすまして、みたいな」
全く意欲が無いみことは、まだ帚木が登場する場面に辿り着いたばかりなので、「浮舟」の話を持ち出されても分かるわけがなかった。
「いくらなんでも別人って…それに、あんな見た目の人が二人もいますかね」
「あ、確かに。そんなわけないかあ」
津川はあっさり自説を放棄した。最初から本気で言っていたわけではないのだろう。
だが、みことの頭には、津川の言い出した別人説が不思議と滞留して、もとから興味の薄かった本の内容が更に入ってこなくなってしまった。
本当に別人なら、白い顔を指で潰したあの男は何者なのだろう。本物の鷲谷はどうなっているのだろう。神隠し、という語が髄液に浮かび上がり、そのまま脳裏に漂着した。
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