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第四夜    撩乱(下)

 プリントを見ているのも億劫になって、みことは顔を上げた。窓外の中庭なら暗渠などできる余地は無いから、それを見て気分を落ち着かせようと思った。


 ところが、顔を上げた拍子にあの鷲谷と目が合ってしまった。セピアの色の瞳が彼女のそれとかち合う。気まずくてすぐに逸らす。


 だが、逸らした方向がいけなかった。鷲谷のすぐ横には、イーゼルに立てかけられたキャンバスの群れが広がっているのだが、そこにいたのだ。白布から生えたような逆さまの顔が、血走った目を彼女に向ける。


 みことは、驚きと嫌悪感とストレスで、不意に吐きそうになった。今日は本当にひどい。四六時中あれの視線を感じる。ありとあらゆる場所に潜んでいる気がする。


「みことちゃん、大丈夫?」

「え?」

「何か顔色悪いよ」


 向かい合って座っている野々宮は、本気で案じているようであった。


「うん、大丈夫。ありがとう…」


 その台詞を最後まで言い切ることができたか、自分でも分からなかった。みことの目に、信じがたい光景が映ったのだ。


 窓際には鷲谷が座っていて、その脇には前述した通り、白布を被ったキャンバスが並んでいる。その鷲谷が、細い指先をキャンバスの方に伸ばし、あろうことかあれに触れたのだ。驚きのあまり、みことは開いた口がふさがらぬ。


 彼は不思議そうな顔をして、キャンバスとキャンバスの間に挟まる白い顔の額を、人差し指でつつき続けている。他の生徒は顔の存在に全く気づいていない。いつものことである。だが彼のふるまいは、それを認識できているとしか思えない。全体どうなっているのか。


 一方、額を小突かれている白い顔は無反応なまま、じっとみことの方を見ている。その様子に気づいたのか、鷲谷は白い顔の視線の行方を追い始めた。そして再び、彼女と目が合う。


 みことは息を呑んだ。やはり本当に見えているのだ。


 鷲谷は少し目を細めると、みことから視線を外した。そして白い額から指を移動させ、それを血走った左目に突っ込んだ。


 奇妙な水っぽさを含んだ音とともに、細い指は白い顔の目を潰し、その眼窩に潜り込んだ。彼はやや不快そうな顔をしつつも、手首を捻って人差し指を引き抜く。


 するとヘドロのようなどす黒いものが、目のあった場所からどっと流れ出た。それと同時に、白い顔の形は急速に崩れ始め、やがて全てがヘドロのような物質に変わって、イーゼルの間を滑り落ちていった。後には暗渠だけが残された。


 人生でこれほどまでに呆然とすることは、もはや無いように思われた。あまりに理解不能な光景を前に、脳が視神経から伝わる情報を拒絶しているようであった。聴神経は麻痺したのか、野々宮の呼びかけも全く入ってこない。


 鷲谷は、指についたヘドロを既にきれいに落として、何事も無かったかのように授業を受けている。他の生徒は何が起きたか、やはり全く感知していない。眼球を潰す不快な音も、ヘドロが床に落ちる鈍い音も聞こえなかったのだろうか。前に立つ先生も、一部始終が見える位置にいたはずだが、平然と授業を続けている。


 みことはひどく混乱した。本当に今日は何なのだ。



 七限が終わったら掃除である。みことは今週の当番だったので、廊下の砂利を箒で掃いていた。一組前の廊下で掃除らしいことをしているのは彼女だけで、他の当番の生徒はとうに消えていた。


 みことは内心で舌打ちしつつ、箒を動かし続ける。本当は彼女もとっとと放り出したいところだが、教室の中では真面目なのが数人で掃除を続けているので、今更やめづらかった。


「手伝いましょうか?」


 不意に背後から声をかけられ、みことは少し驚いて振り向いた。立っていたのは、何とあの鷲谷である。この暑いのに、相変わらず裾の長い黒外套を羽織っていた。


「あの…手伝いましょうか? …掃除」


 みことが返答に窮していると、彼はなぜか倒置法を用いて前言を繰り返した。髪と同じ真っ白な睫毛が、不安げな素振りで少し伏せられる。指先で弾いたらザラメが降ってきそうな睫毛だな、とみことは思った。彼女のよりずっと長いように見える。


「…あ、いや…別にいいよ。気にせんでも。当番じゃないでしょ」

「…そうですか」


 そう言いながら、少年は用具入れからそっと箒を取り出した。今の問答は何だったのだ。


 彼はみことの返事など意に介さぬ様子で、廊下を掃き始めた。みことは反応に困ったが、黙認することに決めた。しかし多少どころではない気まずさがあった。一人で廊下を掃除する虚しさとどちらがいいだろう。


「…あの」


 手を動かし続けながら、鷲谷が口を開いた。まだ何かあるのか。


「神子上さんって、珍しい名字ですね」


 急に何の話だ。


「…そうかな。…鷲谷っていうのも割と珍しいんじゃない?」


 少し逡巡した末にそう答えた。鷲谷はどこかぼんやりと「ああ、確かに」とだけ返した。そして再び、沈黙が二人の間に降りた。他クラスの生徒が何人か通り過ぎていく。


「…神子上さんって」


 しばらくして口を開いたのは、また彼であった。


「…どうして制服なんですか?」


 またわけのわからないことを聞いてくる。確かにこの高校は私服での登校が認められていて、普段から制服で過ごしている者は少数派である。いわゆるなんちゃって制服を着ている者もいる。


「別に…何となく。毎朝、服考えるのめんどいし」

「なるほど」


 そして沈黙。


 掃除を続けるみことから二メートル余の距離で、彼は黙々と箒を動かしている。会話が続かぬのは、こちらが次のボールを投げないのが悪いのだろうか。


 しかし彼女には、この男の意図が全く分からなかった。単なる世間話のつもりなのか、あるいは他意があるのか。それに正直なところ、三か月近くも登校していなかった人物に対して、どう接するのが適切なのかも分からぬ。


 そのうち掃除の時間は終わり、二人も用具入れに箒を直した。用具入れの隅にまたいるのを感じたが、素早く扉を閉めて目に入れぬようにした。後ろにいる鷲谷は気づいているのだろうか。


「あの…」


 一瞬、逡巡したが、初めてみことの方から口を開いた。彼が伏し目がちの視線を少し上げる。


「掃除、手伝ってくれてありがとう」


 やや緊張したからか、変な声になってしまった。でも、これを言わないのはさすがに人として問題があると思ったのだ。


「…いや、そんな…僕が勝手にやっただけだから」


 彼はそう言って微笑した。近づいて見ないと気づかなかったが、みことの方が少し背が高かった。


 鷲谷直人はそのまま「じゃあ」と言って、教室には戻らず、どこかに歩いていった。

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