第三夜 撩乱(上)
みことも二度見したいくらいには、この風変わりな男に興味を抱いていた。しかし、真後ろに座っている人間を盗み見るのは意外に難しく、結局手元の筆箱をいじっているだけだった。入学前に買ってもらったものなので、まだまだ新品である。
先生からの諸連絡を経て朝礼が終わると、早速、田沢と水原が鷲谷に話しかけ始めた。コミュニケーション能力高いな、とみことは思った。
「なあ、何で休んでたん? 神隠しってほんま?」
あまりに直球の質問をするので、みことがヒヤリとさせられる。
「ああ、えっと、ただの体調不良で…」
「そうやったんや」
「マジか」
当人はあまり喋りたがらぬのか、短い返答である。
「何かあれ、勉強とか分からんかったらマジで全然訊いてや」
意外にいいことも言う。
「うーん、僕、授業はずっと寝てると思うから…」
突然、冗談めいた台詞を吐いてきた。
どこか神秘的な雰囲気を纏う少年の発言に、田沢と水原は大笑いした。そこまで面白いとは思わないが、実際に会話していたらみこともそうなるのだろうか。しかし、この二人のリアクションはいつも大袈裟なきらいがあるのだった。
「な、その髪って地毛なん?」
今度は水原の隣、鷲谷から見たら又隣に座る女子生徒が問うた。あれは桑原とかいった気がする。彼はうなずいて答えたようである。
「へえ、すご。ハーフとか?」
「いや、僕は純日本人かな…」
「マジか」
田沢は「マジ」を入れないと話せないのか。
「きれいな髪。羨ましいわ」
「あ、ありがとう…」
鷲谷の声に、照れの微粒子が混じった。
そのうち先生が教室に入ってきて、質問攻めは終了した。しかし、授業中も行き交う好奇の視線が、みことにも見えるようだった。注目を浴びている本人はごく大人しい。
一限目の言語文化(古典)の先生は、目も口も開いているのか閉じているのか分からない非常勤の老教師で、生徒たちの間では「キョンシー」と陰口を叩かれていた。呼びかけにもなかなか応じず、動きも極めて緩慢なので、「もはや死体だ」ということである。
授業は声が低いせいか、内容の硬さゆえかほぼ子守歌と化しており、今日もかなりの数の生徒が机上に船を漕いでいる。この高校の先生は基本的にレベルが高いのに、なぜこんなのが混ざっているのか、と愚痴をこぼす生徒はまだ真面目な方で、大半は都合よくサボっているのだった。
ちなみに、あだ名が「ゾンビ」ではなく「キョンシー」になったのは、中国語を話せるからだそうだが、喋っている場面をみことは見たことがない。もしかしたら聞き逃しているのかもしれぬが。
隣では、田沢と水原が教科書も開かず私語に興じていた。キョンシー先生(みことは名前を覚えていなかった)は気づいていないのか、注意しても詮無いと思っているのか、枯れ木のような手にチョークを握り、みことには分からないことを延々と語り続けている。結局、みことも後半の二十分くらいは寝た。
一限目はそのような先生だったからか、鷲谷が触れられることはなかったが、二限目以降はそうはいかなかった。入学から三か月近く経って初の登校という状況で、しかもあの外見では、気にするなという方が無理である。
彼は授業の度に教員から驚かれたり気づかわれたりして注目の的になり、休み時間も毎回クラスメイトに声をかけられるという有様であった。
一方のみことは結局、背後で繰り広げられるお喋りには一度も参加しなかった。三限目と四限目の間、ティータイムと呼称される十五分間の休み時間も、いつも通り軽食を摂るのみで終わった。
五限目の物理基礎を経ると昼休みである。その後の六、七限は芸術の授業だった。これは選択制で、クラスの中でも美術、音楽、工芸、書道に分かれて受けることになる。みことは美術を選択していた。
「みことちゃん、そろそろ行こう」
「あ、うん」
一階の美術室への移動は、選択が同じ野々宮と一緒に行くのがお決まりになっていた。そもそも、交流を持つようになったきっかけがこれである。
「みことちゃん、あの鷲谷君って子と話した?」
「いや、話してない」
「あれ、そうなん。私もまだしてない」
野々宮の喋り方は、いつも半分くらい夢を見ているような感じだった。こういうのが苦手な人もいるようで、みことは悪辣な陰口を耳にしたこともあった。多少腹が立ったが、どこか自分が納得してしまったような気もしていっそう不愉快であった。
野々宮は鷲谷が気になるようで、彼についての話題を続ける。
「鷲谷君は選択何やろ」
「さあ…音楽とか? 何かすごいキレイな声で歌いそう」
「あ、それ分かるかも。こう、エルフみたいな感じするよね」
みことたちが美術室に入ると、エルフは中庭に面した窓を背に、一番奥の机に陣取っていた。どうやら美術選択らしい。ここでも誰かに話しかけられていて、さすがに疲れるのではないか、とみことは思った。
この授業では、一つの机に四人が座って班を形成する。班は九つあった。一班から四班は一組で、六班から九班は九組の美術選択の生徒たちである。五班のみは一組と九組が混在している。班は出席番号に沿って決められていて、神子上みことは野々宮と同じ三班だった。
ところが、席が足りなかったのか、鷲谷はなぜか九班に座っており、彼以外の班員は九組の生徒になっていた。みことはやりづらいだろうと思ったが、今日転入してきたのだから一組も九組も無いと思い直した。
美術の授業は、みことは割りかし好きであった。担当の古村に好感が持てるからかもしれぬ。この女性教諭はいい加減なようでいて、かなりきちんと個々の生徒のことを見ていた。一人一人の課題の進捗度合も正確に把握しており、授業はちょうどいい緩さと緊張感があって快適であった。
ただ、今日は違う。自分の脇に並んでいるイーゼルの群れの間から、みことは嫌な存在感を知覚していた。
配布されたプリントに目を落とし、必死にその姿を直視しまいとする。今日の授業は創作ではなく美術史についての座学であった。白黒に印刷された「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」。粗い画質の顔たちの中に、白い顔が混ざっている。そんなはずはないと理解しているが、一度そう見えてしまったものは拭えない。
クソだ。今日は本当に、朝からどころか夢を見ていた時点からクソだ。




