第二夜 竹霧暁に嶺を銜める月を籠めたり
登校してきた生徒たちが、三々五々と歩いていく。みことが通うのは、大阪府内でも進学校と名高い府立天蓮寺高校であった。この高校は文武両道をスローガンに掲げていて、勉学のみならず部活動もなかなか盛んである。
ただ、さすがにもう朝練は終わっていると見えて、駐輪場の向かいにある体育館も静かであった。この学校は、珍しいことに体育館が建物の二階にあるのだ(みことも初めて来た時は迷った)。体育館の下の階には食堂などがある。
友人と行く者もあるが、みことは一人で南館の外階段を上がり、自教室へ向かった。一年生の教室は二階である。
一年一組の教室は、外階段から最も近い場所に位置していた。もし寝坊した時にはありがたいかもしれぬ。今は八時六分で、クラスメイトの半分以上はそろっているようであった。制服も私服も、みんな涼しそうな格好をしている。梅雨も終わって、もう夏休みのことが話題に上るくらいだから当然だった。みことはデイパックをおろし、汗の気持ち悪い感覚と共にブレザーも脱いだ。帰りはどうしようか。
「おはよう」
珍しく挨拶されて、彼女は少し驚いて振り向いた。立っているのは、みことより随分と小柄で、垂れ目が印象的な女子生徒だった。
「ああ…おはよう」
みことの数少ない友人の一人は、今しがた教室に入ってきたばかりのようで、彼女の挨拶を受け取ると、そのまま自分の机に歩いていった。野々宮遥香という生徒である。外見も言動も甘ったるく、脳味噌がスフレでできているのではないかと、みことは思っていた。しかし、先述の通り友人であり、決して悪く思っているわけではない。たまにじりじりさせられるだけだ。
みことは廊下側にある自席に腰をおろした。机の中は今までに配布されたプリントやノートで溢れかえっていて、新たにものを入れる隙間など一分も無い。横に吊ったデイパックを開けて教科書などを出そうとしたが、ふと、デイパックの中にあれがいるような気がした。
みことの日常には、チャックを開ける時、ドアを開ける時、全てに白い顔と遭遇する恐れが付きまとう。腹立たしい。もしいれば、分厚い地理の資料集で押し潰してしまおうか。しかし、そんなことをすれば呪いでもかけられるような気がした。
押し潰すというが、そもそも、あれは実体を持つ存在なのだろうか。彼女以外の人に見えないことは分かっていたが、その他のことはあまり把握していなかった。
意を決してチャックを開けると、幸いにもあの不愉快な姿は無かった。安堵して筆箱やら何やらを取り出していると、隣席の男子生徒が話しているのが聞こえてきた。
隣の生徒は田沢というのだが、みことより、彼の後ろに座る水原という男子との方がはるかに仲が良く、授業のペアワークも含め、大抵その二人で喋っていた。みことは別段構わないのだが、この田沢は中途半端に彼女に気をつかおうとするので、かえって気まずくなることがあり、それが少し煩わしかった。
みことの背後、すなわち水原の隣である廊下側の最後尾は空席になっている。一応この席も持ち主はいるらしいのだが、入学以来一度も登校しておらず、所定の生徒数が四十人なのに対し、一組は事実上、三十九人のクラスと化していた。
来ていないのは確か鷲谷という男子生徒で、不登校の理由について不確かな噂がいくつか出回っていたが、担任も特に説明することはなく、わざわざ尋ねる者もいなかった。
ところが今朝になって、この鷲谷がどうやら遂に登校するらしい、という一報を誰かが仕入れてきたようなのだ。田沢と水原が話しているのはまさにそのことだった。
「マジで来んのかな」
「でもこの時期やで?」
もう五月の運動会も終わって、クラスの人間関係が確立されつつある頃である。先週末は、運動会の打ち上げも兼ねてクラス全員で遊びに行き、なかなか良い雰囲気に終わった。みことは、野々宮らごく少数の人間とごく僅かな会話を交わしたのみで、後は黙々と皆に着いていくばかりの一日だったけれど。
「ほんでさ、あれやろ、神隠しなんやろ?」
神隠し。みことでも、その噂は耳にしたことがあった。鷲谷は行方不明になっていて、警察が捜査しているが、全く手がかりが無く困惑している、という噂。しかし、鷲谷某が失踪したというニュースを見たことは無く、他の生徒も同様らしいので、あくまで噂の域を出なかったし、みことも信じていなかった。
八時十分のチャイムが鳴って、それとほぼ同時に担任が入ってきた。岡田という男性教員で、まだ若手に分類されるであろう。担当科目は数学。甘いマスクと真面目そうな雰囲気で、女子生徒から一定の支持を得ている。
朝の挨拶を済ませた後、岡田は廊下の方をちらりと見やってから口を開いた。
「えー、知ってる人もおるかもしらんねんけど、今日から鷲谷が学校に来れることになりました」
教室は一斉にさんざめき始めた。みことの隣では、水原が田沢に「ほら」みたいなことを言っている。彼女としては、教卓と床の間に白い顔がいるのに気づいたために、鷲谷どころではなかった。
しかし、教室に入ってきた人物の姿を見たら、みことも誰も、すっかりその者に注意を奪われた。教室が一瞬、水を打ったように静まり返った。
鷲谷の外見は、この空間の中で群を抜いて奇妙であった。全校生徒を含めてもそうかもしれぬ。その男は、一見すると女に見えた。腰に届かんばかりの長髪がその所以であった。アンプルラインの真っ黒な外套を羽織っていて、体型が分かりづらいこともあったが、相貌をよく観察すれば、やはり男であることが見てとれる。
だがその奇妙さを何より示すのは、信じがたいほど真っ白な髪と、同じく白い肌であった。アルビノというやつだろうか。睫毛まで白いのだ。前髪に隠れている眉も白いに違いない。その奇異さは、夏の近づきつつある季節に不意に舞い落ちた、雪のひとひらに等しかった。
少年は、教卓の脇まで来ると向き直り、自身に集中する三十九人分の視線と相対した。淡い色の唇が開かれる。
「えっと…初めまして。…鷲谷直人といいます。あ、名前書いた方がいいですか」
岡田がどちらでもいいという反応を示したので、鷲谷はチョークをとった。だが名前を書いた後、喋ることが尽きていたことに気づいたのか、少しまごついた。
「…これで鷲谷直人と読みます。…よろしくお願いします」
タイミングの合わない拍手が響いた。やはり男なのだ。名前を聞いて驚いている生徒もいた。それにしても、外見ほどのインパクトは無い姓名だ。
彼はそれ以上は口を動かさず、霧がかかったセピアのような瞳で伏し目がちに、岡田の方と、自らを凝視する生徒たちの方を交互に見た。岡田は、あれで自己紹介が終わりだとは思わなかったらしく、やや反応が遅れた。
「えーと、それじゃ、鷲谷はあの席に…水原の隣に座ってくれ」
機敏な水原がおどけたように手をあげたので、彼は迷わず席につくことができた。そのどこか体重を感じさせぬような足どりは、外見も相まって、ひどく浮世離れした、神秘的な雰囲気を醸し出していた。短い自己紹介が終わってもなお、生徒たちの視線は、この少年に注がれている。




