第一夜 見ゆる卯の花
最初に知覚したのは、カーテンの隙間からこぼれる陽光だったか、耳元で鳴るアラームの音だったか、それとも身体とシーツの間に広がる寝汗の感触だったか。身じろぎして、目覚めたことを理解した時には、もう分からなくなっていた。
狭い自室の天井を眺めると、視界の隅の本棚の上にいるのがみとめられたので、慌てて身を起こし視野を転換した。朝からあんなものを直視するのは避けたい。しかし、鏡はどうしても使わねばならぬ。マザーファッカー。
アラームを止めると、まだ重い身体をベッドから強引に別離させ、フローリングの床に立ち上がる。あり得ないが、もし男を連れてくることがあったらば、「女の子の部屋だ」などという感動は微塵も与えさせぬ部屋だ。なるべく見渡さないようにしながら廊下に出る。
廊下といっても、2LDKのマンションの廊下の長さなどたかが知れている。彼女の歳ともなれば、三、四歩で縦断できてしまう距離だ。
洗面所に入る。キッチンでは母の物音がしている。娘の弁当を作ってくれているのだろう。食堂で済ませるから構わないと言っているのに。そのくせ、自分の昼休憩ではまともな食事を摂っていないのだ。
鏡を見た。やはりいた。彼女の背後にある棚と洗濯機の間から、こちらを見つめている。目は血走り、頬はこけ、血の気の失せた白い顔だ。うつろな目で、どこを見ているか分からないこともあるが、今日は違うようだった。
洗いこまれた蛇口をひねり、身をかがめる。顔を洗ってもう一度鏡を見る。白い顔はまだ映っていた。少し前までは、これで見えなくなることもあったが、最近は効果が無い。
「おはよう、みこと」
歯みがきをして洗面所を出ると、母の忙しげな声が響いた。同時に、卵焼きか何かの匂いが鼻腔を刺激する。
「…おはよう」
キッチンに立つ母を尻目に、みことは椅子に座り、眼前のトーストに手を伸ばした。テレビからはニュースの音が聞こえているが、目を向けない。このところ、テレビと台の隙間にも見えることがあるからだ。今日は特に、振り返れば確実に目が合ってしまう気がする。
「もう七時半やけど。いけるの?」
「いけるいける」
みことは悠々たるものだった。内心は、いつにも増して白い顔がいる予感に穏やかではないのだが、客観的には焦る理由が無かった。彼女の高校では、八時十分を過ぎれば遅刻なのだが、ここから自転車を飛ばせば五分とかからぬ。化粧もしないので、残る身支度は制服に着替えるだけだ。
「はい」
眼前に弁当が置かれた。トーストを咀嚼しながら「ありがと」と言う。ひどく機械的な物言いだったが、それは母の「はい」も同じことだった。母は忙しなく廊下の方へ向かった。
後ろでまとめられた母の髪の色は、近所のクレープ屋のチョコレートソースのそれに似ていた。染めていると思う人も多いが地毛である。
あそこのクレープまた食べたいな、と思っていると、母がスーツに着替えて戻ってきた。呑気な娘はまだ朝食を摂っている。
「まだ食べてんの」
「まあ」
「遅刻しなや」
母は自分の椅子に置いていた鞄を掴み、「いってきます」と言って出ていった。朝食は食べたのだろうか。
やっと食べ終わったみことは、食器を洗って制服に着替えた。ブレザーやカッターシャツは、自室のクローゼットの中ではなく、その隣のラックに吊るされていた。他の私服もそうであった。
クローゼットにしまわれているのは、もう着ないつもりの服だけだ。開ける度、白い顔と出会うかどうか不安になるのはやってられなかった。直接目にしなくても、いるのは何となく分かってしまうから、十分不快なのだが。
みことはまた鏡に戻って、寝癖を最低限ととのえた。首の半ば辺りまでの長さの髪だ。ここ数年はずっとそうしていた。母は伸ばしたらいいのにと言う。なぜそんなことを言うのか、彼女には分からなかった。自分はパンツスーツのくせに、制服はスカートを選ぶよう勧めたのも母だ。結局、その時はみことが折れた。
電灯は点いていなかったので、空気清浄機を消して、テレビを消して、最後にクーラーのリモコンに手をかけてから、彼女は気づいた。そういえば、今日から暑くなるのだ。ブレザーを着ていくのは悪手かもしれない。
しかし、結局決められないままクーラーを切って、みことはデイパックを背負い玄関に足を向けた。ドアを閉める時、ダイニングに二つしかない椅子が見えた。
マンションの駐輪場は屋内にあるのだが、申し訳程度にしか照明が無く、常に薄暗い。嫌な予感を抱えながら自分の自転車へ向かったが、幸いにもあれは見えなかった。いないのか、と思って自転車に手をかけた途端、前輪につぶされるようにしてこちらを凝視する目を見つけた。
「…!」
みことは乱暴に自転車を引っ張り出し、急ぐ必要も無いのに走った。畜生。ふざけんなよマジで。
一応マナーは守って、自転車に乗るのはマンションの敷地から道路に出てからにした。時刻は七時五十八分。遅刻の可能性は限りなく薄い。問題なのは気温である。やはりブレザーは脱いでくればよかった。
汗だくになって自転車をこぎながら、みことは出勤する母の姿を思い浮かべた。
四年前から、娘とともに「神子上」の名字になった母。もう四十の坂はとうに越しているが、三十代前半といっても十分通じるであろう。スーツもまるでモデルの着こなしだ。美人なのだ。加えて人当たりもなかなかいい。あれで未だに再婚できないのは、本人以外のところに理由があるに違いない。
不愉快な結論にたどり着く前に、みことは校門をくぐった。知らないスポーツウェアの先生と、教頭先生が挨拶に立っている。一瞥程度の挨拶を投げて、駐輪場に滑り込む。ここは簡易な庇のような屋根があるだけなので、暗くなかった。
先程までの思考を振り払い、みことは別なことを考え始めた。今日はやはり調子が良くない。だから、いつもより白い顔が目に入るのだ。
きっと変な夢を見たせいだ。延々と暗い道を歩いている、よく分からない夢だった。詳らかに記憶してはいないが、塾に行こうとしていたような覚えがある。小学生の時に通っていた塾にである。どうしてそんな場所に向かっていたのか、まるで見当がつかぬ。しかし、少し前にも同じような夢を見なかったか。




