前夜 幽月なほ影を蔵す
ひどい闇だった。ひどく視界を濁らせる闇だった。
真っ暗なわけではなかった。本当に何も見えない闇だったら、何も知らないでいればいいだけだった。見えてしまうものがあるから、進まなければならぬ。その方が、今はどんなにか辛かった。
ちょうど、見たくないものが、不意に知覚できてしまうくらいの闇だった。なぜかというと、様々な濃淡の闇が、絶えず空間を泳ぎ続けているからだった。その流動の中で、たまに現れる街灯みたいな明かりが足下の暗渠を照らし出すと、そこに白い男の顔が見えるかもしれなかった。一人でいる時、それは姿を現すのだ。鏡の中に、窓ガラスに、像を結ぶのだ。
目を凝らして見る限り、今はどうやら家の中ではなかった。いやに重く流れる空気の中に、白黒に燃えるようにして揺らぐ線が形作るのは、シャッターだったり、商店街の特徴的な門だったりした。
目線を上げれば、空と思えぬこともない闇が洞々と広がっていた。着ているものも、寝間着ではないのが感触で分かった。これは、多分塾に向かっているのだ、と不意に得心した。
歩いていくと、駅の建物の形が暗然とみとめられた。やはり塾に向かっているのだ。なら、もうすぐ踏切を渡らねばならぬ。
そうして目を向けた時ほど、光を恨めしく思ったことはないだろう。踏切があるであろう場所は、かつてない闇に閉ざされていた。向こう側は何も見えない。巨大な影がそこに横たわっているようだった。
辺りが完全な闇ではないからこそ、この眼前の景色はいっそうの存在感を放っていた。いっそ、何から何まで見えなくして、闇のしじまに閉じ込めてくれればいいのだ。不完全な闇の中だから、本来見えるものではないはずの完全な闇が立ち上がって現れ、恐怖が喚起されるのだ。
それでも、ここを渡っていかねばならぬ。授業がそろそろ始まってしまうのだ。
意を決して、果てない暗中へ一歩を踏み出した。




