第二十八夜 不言の口先づ咲めり
一部の男子生徒がだらだらと教室に戻ってきたせいで開始の遅れた終礼の後、幻はデイパックを掴んですぐに教室を出た。このまま真っ直ぐ待ち合わせ場所に赴くつもりだったが、一瞬の逡巡の後、トイレに入る。まだトイレ掃除の生徒の姿は無い。
幻は洗面台の鏡を覗き込んだ。目ヤニがついている。朝からずっとついていたのか。危ない、危ない、と思いながら除去し、側頭部の髪がはねていたのも直す。ついでに前髪も直そうとするが、どうもうまくいかない。高校に通い始めてから、以前より見た目に頓着するようになったが、何をどうすれば、世にいう「清潔感」をまとえるのか、彼はよく分からないでいた。
最後に表情が緩んでいないことを確認し、トイレを後にする。外階段は使わず、六組の教室前のホワイトボートまで歩き、そこから校舎内の階段を下りた。中庭に出て、はやる心の手綱を思い切り引きながら、クラブハウスへと向かう。
クラブハウスというのは、裏門に入ってすぐの場所にある高床式の建物である。高床の下には神子上みことも使用する駐輪場があり、建物が屋根代わりになっていた。
クラブハウスの階段を上がると、一本の長い共用廊下に出る。クラブハウスは部室ばかりの長屋のような施設で、一番手前にまずフォークソング部の部室があり、その隣が文藝部となっている(「芸」ではなく「藝」らしい)。幻の目的地はここであった。
窓から室内を覗いてみるが、真っ暗で誰もいない。スライドドアに手をかけると、建て付けが悪いながらも開いたので、彼は靴を脱いで中に入った。
スイッチを探して電灯を点けると、散らかった室内の全貌が明らかになった。壁際には複数の本棚が、背の低いテーブルの上にはアクリル製のペンスタンドがあるが、大量の書籍と文房具は収まりきらず、無秩序に床を埋めている。空き巣に入られた直後といっても差し支えない。
幻はとりあえずデイパックを下ろし、座布団の一枚を掴んで、テーブルの前に正座した。昨夜、彼を呼び出した相手はいつ現れるのだろう。
暑いな、と思って、彼は上方を見やった。屋根を支える鉄筋などの構造物が剥き出しになっている。換気扇はあるが冷房は見当たらず、文藝部員は夏場にこんな場所にいて大丈夫なのか、心配になる。
ただ座って待っているのも所在ないので、彼はテーブルの上に置かれていた手作りの冊子に手を伸ばした。文藝部の部誌のようである。表紙と裏表紙だけ色紙で、他はモノクロのページで構成されている。部員によるオリジナルの絵や小説、詩などが掲載されていて、意外と多様な内容であった。
流し読みしていると、ふと、不意にページを繰る手が止まった。一枚の水際立った絵に、思わず目を奪われたからであった。これを自分と同年代の人間が描いたのか、と思い、幻は惚れ惚れと見開きを眺める。
「お待たせしました」
スライドドアの滑るというより這うような音に、幻は弾かれたように顔を上げた。戸口に立っているのは、彼を呼び出した陰陽生。
「……倭文川さん、こんにちは」
「すみません、あんな夜中に連絡してしまって」
「いや、全然……」
倭文川純は荷物を床に置いて、幻と相対する格好で腰掛けた。密閉すると暑いからか、ドアは閉めないでいた。
「あ、部誌、見てくれてたんですか」
「え? あ、うん」
「その絵、私が描いたんですよ」
純の弾んだ声に、幻の心臓が一緒になって跳ねる。この声が自分に向けられるだけで、彼は勝手に笑んでしまう。その上、自分が一番気に入った絵が、この人の描いたものだったのだ。
「すごいっ……その、すごい上手いよね、倭文川さん、やっぱり」
自分の語彙力の無さを痛感しながら、彼は何とか感想を述べた。純は「ありがとうございます」と嬉笑する。ウェーブを帯びた生い下がりがふわりと揺れて、彼は目眩がしそうになった。
「……それで、本題なんですけど」
「あ、うん」
「……どうして、明烏君が天高にいるんですか?」
純の口調は相変わらず穏やかだったが、有無を言わせぬ響きが底流していた。幻はおかげで多少の冷静さを取り戻した。半瞬、嘘をつこうか迷うが、本当のことを話そうと決める。
「……三船さんから、何て聞いてる?」
「三船さんですか? 何も……昨日、明烏君の連絡先はもらいましたけど」
ナイス、三船さん。
「……倭文川さん、神子上みことって人は知ってるよね」
「友達です」
「その神子上さんに接触するために、僕は天高に入った」
「……どうして、みことちゃんに?」
前髪に半ばまで隠れている純の左目から、彼女が大体の事情は既に察しているのだろうと思われた。だが、それでも敢えて訊いてくる。
「……〈腕〉を取り戻すには、神子上さんの協力が不可欠だから」
幻の言葉を受けて、純は少し俯いた。何か傷つけるようなことを言ったのかと思い、幻は狼狽する。
「……三船さんが私にやらせなかったのは、私が反対すると思ったからでしょうか」
ぽつりと言う。幻は、これが返答を必要としている発言なのか測りかねた。十秒ほど猛烈に逡巡した後、「……そうかも」と、独語ともとれる程度の口調で言った。どうして自分は、こんなに言葉が出てこないのだろう。
純が不意に顔を上げた。幻は何事かと無言で驚いたが、純は彼の方ではなく、開いたままのドアの方へ向かって口を開いた。
「みことちゃん、来てください」
「え?」
戸口に、怪訝な顔をした少女が現れた。
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